ソーシャルエッセイ   荻正道

【昨日・今日・明日】

『外交の誤謬』


トランプ大統領の最大の“功績”をあげるとすれば、“新しい外交スタイルの創造と押しつけ”とでも言えようか。世界中が混乱に巻き込まれている今、そもそも“外交”とは何か、を考えてみなければならない。

 トランプ大統領は外交とは言わず、好んで“ディール”(取引)という言葉を使う。実業家であるキャリアからすれば分からぬでもないが、そもそもここに間違いがあるのだ。確かに国家は国益を追求するため、他国と様々な協議を行う。企業が利益の最大化のために多くの取引先とディールを行うことと同じと言えば言えないでもない。しかし、いくつかの点で本質的な違いがある。まず、企業間取引は持続性を前提にせず、ウインーウインの関係が壊れた段階で終わる。しかし、国と国の基本関係は条約は破棄できても地政学的な関係を含め半永久的なものである。したがって、その第一歩は、相手国の事情を研究する持続的な行為を必須とする。隣人関係に喩えるなら、隣人に対して我々はどういう人物(家族)なのかを知ろうとし、その変化にも相応の注意を向ける。相手も同じことだろう。そこから互いに互いが安全かどうかを確認し、互いに適切な距離感を探り当てることになる。

 距離感の近さが自然発生的に生じるのは“ムラ”であり、希薄な関係が常態化しているのが“都市”とされる。国際社会に例えるなら、“都市的空間”に“ムラ”が点在しているということになろうか。いずれにせよ、“ポツンと一軒家”のような国家は存在しえない。さらに産業の高度化がある。どの国も一国だけで産業活動を完結できなくなっている。サプライチェーンは地球規模に拡がっているのだ。モノだけではない。ヒトも地球規模で流通している。才能ある人材を世界から取り込んだ国がイノベーションに成功出来るのだ。アメリカという国家は最も制約(規制)なく、それが出来た国であり、その発展の理由はそこにあった。多くの多様な人種が隣人関係を結んでいるのがアメリカであり、人種差別や不法移民問題といった様々な問題を抱えながらも、国力と活力の源になっている。

 アメリカは世界に自国市場を開放することで国際的指導力を発揮してきたのだ。それがアメリカの外交姿勢の根幹であった。どの国とも対話し隣人関係を結ぶ。かくて世界各国はアメリカを実質的な“世界の指導国”とみなすにいたった。アメリカ語(英語)は国際的標準言語となり、貿易の多くがドルで決済されている。第二次大戦後、世界はそれを常識としてきたが、それはアメリカ一国に多くを依存するかたちでもあった。変化は、この常態に次第にアメリカが疲れを見せるようになったことから起こった。トランプ大統領の“新しさ”は、それをはっきりと態度で示す点だ。世界に民主主義を伝導する鷹揚で余裕のある構えは消えた。“アメリカファースト”は多くのアメリカ国民の秘めた願望であったが、それを堂々と代弁し、他国に対してはっきりとアメリカの利害(国益)を口にし、損得第一の外交(ディール)スタイルを打ち出した。

 これは他国の為政者にも少なからぬ影響を与えた。世界中で“トランプ的外交”が拡がった。自国優先主義の外交が蔓延してくると、他国の事情を無視する思考が定着し、気に入らない国は無視し、邪魔になるようなら武力行使も辞さなくなる。トランプ大統領のディールの相手になるためには、強固な国内の支持基盤を持たねばならない。ディールは為政者同士でいかに合意しても、国内でそれを実現させるだけの政治力がなければ意味がないからだ。日本の高市首相がトランプ大統領の覚えがめでたいのは、“安倍元首相の後継者”だからではない。先の衆院選で圧勝しチカラを示したからである。ロシアのプーチン大統領や中国の習近平主席が“お気に入り”なのも、国内を意のままに操る“実力”を認めていればこそだろう。実業の世界でディールをするには、相手が会社を牛耳る実力者でなければ進まない。CEO同士で合意した案件が社内の取締役会で異論が出るようでは話にならないのだ。

 その意味でトランプ大統領が気に入らないのはEU主要国のリーダーたちだろう。フランスのマクロン大統領に対しては、「良い奴だが、もうすぐ終わりだからな」とはっきり口にし積極的に会談しようとはしない。フランスは来春に大統領選が予定され新しい大統領が生まれるからだ。トランプ大統領が再びフランスに目を向けるのは、新大統領の政治力が証明された時だろう。ドイツのメルツ首脳に対しては論外という態度を露にしている。イランへの軍事行使への反対を表明したからだろうが、最重要同盟国のイギリスのスターマー首相に対しても同じである。トランプ流ディールの基本は相手が強く、かつ自分をリスペクトしていることが前提となる。自分を説教しようとする相手とは、ディールなどあり得ない。そこへいくと、高市首相の「世界に平和をもたらせるのは、ロナルド、あなただけよ」というお世辞は、トランプ流外交に乗るには必須なことだった。大国に潰されないためには恥も外聞もなく媚びを売ることを批判するのは現実主義的ではない。

 しかしそれも、国益に繋がればこそである。イラン侵攻でホルムズ海峡が事実上の封鎖状態になり、とりわけ原油の中東依存が大きい日本にとっては大ダメージだ。トランプ大統領は「日本は同盟国のくせに何もしてくれない!」と広言する。これでは、わざわざワシントンに出向き、日本には憲法上、出来ることと出来ないことがあると説明し理解を得られたとする高市首相の国内向け報告と矛盾する。トランプ流外交とは、相手国の事情を理解することに重きを置かない。ただ実利をもたらしてくれるかどうかだ。それがトランプ大統領の外交の“定義”だとすれば、高市流外交が適切かどうかは、日本国民が正しく判断しなければならないだろう。80年前の敗戦以来、日本は実質的にアメリカの従属国だから仕方ないという向きもあるが、そこに致命的な諦念があり思考停止があるとすれば危険なことこのうえない。

 第一次オイルショックのとき、アラブ諸国との外交断絶を迫るキッシンジャー国務長官(当時)に対し、田中角栄首相(当時)はこう言った。「そんなことをして日本に石油が入ってこなかったらどうなりますか。その分をアメリカが回してくれるんですか? そうでしょう、そんなことできるわけがない。今度ばかりは日本はアラブ諸国と外交を継続するしかありません」。戦後の日本宰相でここまではっきりアメリカにNOと言った人物はいなかった。もっとも、そのことが田中首相の政治生命を短くしたことは否めない。あの不可解なロッキード事件は、田中角栄をアメリカにとって“不都合な人物”として首相の座から引きずり下ろす工作だったという説は今も根深く残るが、状況的にも単なる陰謀論として片づけるわけにはいかない。
キッシンジャー氏は高名な外交官だったが、その本質はトランプ大統領とさして変わらない。アメリカにとって不都合な為政者は排除するのだ。イラン侵攻前に断行されたベネゼイラ大統領の拉致事件は典型である。今までのアメリカの為政者とトランプ氏が違うのは、それを堂々と公言し誇って見せることである。

 軍事強国の外交とは、突き詰めればトランプ流外交になるのかもしれない。西欧も日本も国内が分国状態であった中世には、軍事衝突を回避する手段として、姻戚関係を結ぶことが常態だった。ヨーロッパ諸国の王室(典型はハプスブルグ家)が広く西欧各国の王室と縁戚関係を持って“軍事侵攻回避”の担保にしていたことは広く知られている。戦国時代の日本では、不可侵条約の担保として身内が人質として送られたものである。もちろん、それが万能だった訳ではない。それでも軍事衝突は起こったし、その都度、“人質”は殺された。そのような残忍な時代とは違うが、本質は、今も変わっていないのだ。現代では、レアメタルのような希少資源が人質として機能している。先般行われた米中首脳会談など、中国の持つレアメタルの存在がなければ、トランプ大統領はあれほど丁寧なディールの姿勢を見せなかったろう。むろん、今日のイランのホルムズ海峡封鎖もそうである。弱みを握られた時、トランプ流の外交はたちまち行き詰る。

 今、我々がやらねばならないことは、トランプ流外交の超克である。忍従でもってトランプ氏の大統領任期終了を待つだけでは心もとない。その任期があと2年半だとしても、後継者によってトランプ流外交が継承されていけば解決にならないからだ。外交の本来は相互観察だ。相手以上に相手国の来歴(歴史)、文化、政治風土の実情を知ること。高市首相が注力する国家情報局の設置はその限りにおいては間違っていまい。情報は公私にわたって把握する必要がある。習近平主席を怒らせた“台湾有事での非常事態発言”は好例だ。なぜ相手が怒るのか、恐らく首相は今も理解できていないのではないか。中国は“謝れ”と言っているわけではない。“撤回せよ”と言っているのだ。この違いを正確に把握する必要がある。中国では礼を失した相手に“謝れ”と言うが、両国の関係にとって不都合になることは、“言うな”という。外交上の言葉は取り消すことが出来るのだ。さっさとひっこめてしまえば済む話だった。それを“私は間違ったことは言っていない”とばかり半年も無視し続ければ、得なことにはならない。外交とは、こちらの考え方やイデオロギーを相手に押し付ける“原理主義的外交”であってはならない。周辺国を含めた動き(風向き)をウオッチしながら逆らわない“風見鶏外交”が基本なのだ。ただ、困ったことに、日本人はこれを卑劣とみなす傾向がある。高市人気の逆説はここにある。戦前の日本がいかに勇ましく誇り高い国であり、いわば外交喪失状態であったかを思えば、その危険性もはっきりする。国家情報局に対して不信感があるのは、あの時代への回帰を思わせるものが、高市流外交にあらわれているからではないのか。外交の当事者は、組織や機関だけに頼るのではなく、自らの“五感”を鍛える必要がある。首相には、中国人の友人はいますか?と問いたくなるのだ。“閉じこもる政治家”に外交はそもそも手に負えまいに。        



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