ソーシャルエッセイ 荻正道
【昨日・今日・明日】
『ブレグジット10年』
アメリカの建国250年イヴェントは何かと話題が多いが、考えてみれば、今年は“ブレグジット”(英国のEU離脱)から10年目にあたる。こちらの方はあまり話題にならない。これは何故なのか。
考えて見れば、アメリカの建国250年の起点は、英国からの独立宣言であった。ブレグジットのEU離脱と外形的には似ている。違うのは、アメリカ人の多くが、英国からの独立は正しかったと評価し、それを推進した“建国の父”たちに深い敬意を表すのは、その後のアメリカが超大国と呼ばれるまでに成長し、国民が豊かになったからであろう。それと対称的に、ブレグジットは10年を経過した今、正しかったと考える国民は少数派になり政治家も、“総括”を避けようとしているかに見える。国民投票を実施し、“国民の総意”で決めたにもかかわらずだ。それどころか、この10年で、英国の首相は6人も就任と辞任を繰り返した。最近は7人目の首相が誕生したばかりだが、他国の人間には、“現在の英国首相は誰か?”と問われ、答えに窮するか間違った名前を答えるケースが少なくないのだという。これでは、ブレグジット10年の記念式典をやろうという声さえ出ないのは無理もない。
なぜ、こうまで英国は影の薄い国になってしまったのか。もし、EU残留の決定をしていたら、こうまで凋落することはなかったのか、それとも、離脱しても残留していても、英国はダメになっていたのか。これを細かに検証することは困難だが、経済に関する限り、離脱によって余計なハンディを負ったことは事実である。EU諸国内を人もモノも自由に行き来できる状態から、コストや手続きの壁が復元されれば、経済活動が不利になるのは当たり前である。そうなれば、外国資本が逃げ出すのは当たり前で、雇用にも悪影響をもたらすことも十分に予測できていたはずだった。それなのに、世界でも屈指の高い教育水準を持つ英国民が、離脱を選んだのは何故だったのか。
英国人のプライドの強さを指摘する向きは今も多い。世界を制覇した大英帝国の末裔である彼らは、ライバルであっったフランスやドイツの意向を強く受ける(英国人にはそう見えていた)EUの意思決定に従わされることに我慢ならなかったのである。これは加盟時点でもなかった訳ではない。それが2016年になって急に顕在化したのは、移民問題だった。EUに指示されるままに移民を受け入れたら、近いうちに英国は“英国人より異国人の方が多くなる”という危機感。これは国民投票の結果を分析すればはっきりする。最も強く離脱賛成票が多かったのは、ボストン(英国の町、米国ではない)だった。そしてこの町は、2001年から10年で移民が467%増加したとされる。町中に外国語の表示があふれ、住民たちは不安にさらされるようになった。このような住環境の急激な変化の中で、EUから離脱すべきか残留すべきかと問われれば、離脱と答えたくなる気持ちも分からなくはない。
アメリカの独立時も同じようなことはあった。ボストン茶会事件が発端になったように、英国政府の専売品が押し付けられ、課税されたのでは理屈に合わないという不満がある一方、交易に従事し、英国から“おこぼれ”的な利益を得ているものも少なくなかった。独立賛成派と残留派に世論は割れ、州ごとに、積極的に戦おうとする意見と、断固として戦争になる事態は避けるという意見に分裂したといわれる。結局、積極離脱派の州(後に独立13州と呼ばれる)が戦端を開き、8年間もの長い期間を費やして独立を勝ち取った。この独立戦争のさなかに、国内を鼓舞するために高らかに謳われたのが有名な独立宣言だったのであり、アメリカの建国の起点は戦争の銃声と硝煙がたちこめるなかでしるされたものであった。思えば、当時の大英帝国に新興国のアメリカが勝てたのは、“建国の理念”を明らかにしたことで残留派からも独立派への意識変化が生じ、外部からの参戦(フランス軍)を得られたことによるとされる。そういう意味で、“建国の理念”が掲げられたことをもって、建国記念日とする考え方には説得力がある。
それに比べると、英国のブレジレットの是非を問う国民投票では、政府の意思は不明確だった。EUを離脱してどのような国家を建設するのかという何の説明もなく行われたのだ。国民投票を決めたのは、デービッド・キャメロン首相(当時)であり、その決断は多分に政略的なものであった。国民投票にかければ、その結果を金科玉条にして政権運営を円滑化できると計算したのだ。彼は、経済的なハンディを負うことになるEU離脱を国民の過半が選択するなどとは考えもしなかったという。そのために、首相としての立ち位置さえ、国民投票の公平性を保つため明らかにしようとはしなかった。これでは、国民は生活者としての日常的な不満や不安を判断軸にせざるを得なくなる。
何やら日本の与党がやる解散総選挙と似ているではないか。議院内閣制の政体は往々にして、このような政権都合優先の政治運営に陥りがちなのだ。英国のキャメロン首相は、国民投票の意外な結果に驚き即刻辞任した。残されたのは、EU諸国との新たな壁の出現であり、それらをファンダメンタルズとして組み込んだ新たな国家運営プランを示さねばならないという切羽詰まった政治状況だった。そもそもそんなものは準備されてさえいなかった。以降、英国では綻びを繕うように、目先だけの表面的な政策を掲げる政権が出現し、次々と消えていったのである。こんな国が、国際社会で強い指導力を発揮できるはずもない。思えばこのような体たらくは、EU発足の時から懸念されていたと言えなくもない。欧州統合の起点は、各国にまたがるエネルギー資源(石炭鉱脈)を各国で共同管理し、戦争の種にするのではなく平和裏に活用しようとするものだった。この時点で既に国内に豊富な石炭を持つ英国には、参加の必要性の薄いものであったのだ。
“石炭共同体”が“欧州共同体”へと踏み込んだのは、米国とソ連(当時)の冷戦の激化により、世界がこの二大陣営に分かれる中で、欧州はその谷間に埋没する危機感が生まれたためである。西欧各国を連邦化し、政治、経済的な存在感を確かなものにしたいという思いは、主として、フランスとドイツによって共有され、この両国主導によって、実現不可能と見られた構想が実現していった。英国の立場でいえば、既に米国の同盟国となり、米国のパートナー国としての行き方が定まっていた以上、EU加盟は“つきあい”的なものにならざるを得なかった。現に、EUが共通通貨(ユーロ)を導入するところまで先鋭化したとき、英国はこれを拒み、自国通貨ポンドを護り続けて今日に至っているのだ。衰えの見える国家が発行する通貨が強い通貨であるはずもなく、英国は“ローカル通貨”に固執する伝統だけを誇る狭い国土の国でしかなくなった。もし多少なりとも、かつてのような信頼のある国であれば、あの“トラス・ショック”のような騒動が起きるはずもなかったろう。
こう見てくると、ブレグジットはある種の必然ではなかったかと言いたくもなる。英国民の今の気持ちはどうなのか。世論調査では、55%の国民が、2016年の国民投票は間違いだったと答え、EUに復帰すべきだという意見を持っている。街頭では、しょっちゅう“EU再加盟”のプラカードを掲げるデモが見られるという。しかし、政府からの動きは驚くほど鈍い。国民投票でEU加盟を問うことに何らかのトラウマを抱えてしまったかのようである。10年の節目を迎え、EU離脱を総括し、これを踏まえて今後の国家の方向を提示するのは、政府の基本的な仕事だと思うが、目立った動きは見えない。政治家が混乱を避け、保身に走れば、国の政治経済は迷走状態に陥る。日本が長期低迷に陥った要因もそれであり、英国もまた“失われた10年”を超え、日本が持つ“失われた30年”の停滞記録に向かうのだろうか。
ここでひとつ注目しなければならないことがある。英国には“憲法がない”という現実である。むろん、法治国家であるから、すべては立法府が定める法律によって行政の運営はなされている。英国人の多くは、それで十分と考えてきたらしい。個々の法を縛る憲法などは不必要であり弊害ですらあると考えるのは、海洋国家として風の方向を的確に判断し帆を張って船を操ってきた航海術の発想なのである。地図とコンパスが示す現実だけがすべてであり、いかなる観念や理念は柔軟な対応力を奪うものと考えるのだ。国民が共有する“コモン・ロー”(“法的常識”と訳される)があれば成文憲法など持たなくとも、立法を誤ることはないのだと考える。しかし、ブレグジットのような国家の将来について重大な影響を及ぼす選択においては、国民投票を実施し議会はその結果を尊重し議決すべきとか、数年後に再び国民投票を実施しなければならないとか憲法が規定していたなら、今の混乱に終止符を打つことは困難ではないように思われる。やらねばならぬことは、ブレグジットの結果から目をそらせることではなく、“ブレグジットの教訓”をしっかりと認識し、“新たな英国流政体”を国民を巻き込んで議論し構築していくことではないのか。アメリカの建国の父達が、4ヶ月も缶詰状態になり憲法草案を練り上げ国民に提示したようにである。