ソーシャルエッセイ   荻正道

【昨日・今日・明日】

『ズレ・ずれ・ズレ』


当人は気付いていないのかもしれないが、このところ高市首相のふるまいには違和感を感じる人が増えているのではないか。国民の感情とのズレは政権の命取りになる。ささやかな警鐘を鳴らしておきたい。

 まず、熊本地震の被災地視察に向った機内の姿である。熊本上空に差し掛かった時、首相は飛行機の小さな窓ごしに手を合わせた。この姿には妙にわざとらしさが感じられたのだ。そもそも手を合わせるポーズがこの時点では似つかわしくない。犠牲者への冥福を祈るつもりなら、ずいぶんと無神経な話ではないか。被災地では、避難先の施設や自家用車の中で忍従生活を強いられている人々が多数いる。電気が途絶え酷暑の中で精神的な衝撃も癒えぬままに過酷な生活を強いられているのだ。そのような人達にとって“災害関連死”の恐怖は切実なものがあるにちがいない。そのような人達に対して首相は手を合わせてしまったことになる。そもそも上空から合掌することが間違っているのだ。そして何よりも、その姿を同行報道カメラマンに撮らせたことである。かつて東日本大震災のとき、菅直人首相(当時)は原発事故の被害現場を視察すると言って、カメラマンを連れてヘリコプターで上空視察したことがある。このときは最高指揮官の立場で本部を離れたことが非難の的になったが、“現場を重視する姿”の方が国民受けすると信じてのふるまいだったのだろう。

 同じ“政治家根性”が高市首相にあったのかどうかは知らない。被災地の上空を飛行中と知って思わず合掌したというなら、その無作法はともかくカメラマンなど近づけるべきではなかったはずだ。ただでさえ“一日3時間しか寝てない”と公言する首相である。こういう移動時間にこそ眠るべきではないのか、と言いたくもなる。それとも“休まず働く姿”を首相としての“売り”にしているのか? そもそも、この段階で首相がとるべき行動は被災地視察ではない。この秋に発足する防災庁のスキームの見極めではないか。もう少し早く防災庁が発足していたなら、対応は違っていたと言えるのかどうか。あまり変わらなかったと感じたなら、防災庁の構想を考え直さねばならないかもしれない。それが首相の本来の仕事のはずなのだ。被災地の救援活動や支援活動の行政最前線は熊本県であり傘下の市町村である。その機能が十全に発揮されているかが重大な問題意識でなければならない。重機類や救援物資や救援人員は足りているのか。激甚災害に際して近隣県との連携や協力体制は十分だったのか。地方自治体の足らざるを埋めるのが防災庁なら、発足三か月前で既に決定しているはずの枢要スタッフを引き連れての視察なら、その意義を否定するものではない。組織のあり様をより有効なものにする好機でもあったのだから。

 首相は副首都構想に熱心である。これは首都が激甚災害に見舞われた時、政治機能を途絶させないためのサブ拠点を作っておこうとするものだが、そこには1000万都市に住む人々への防災対応策が切り離されているように思えてならない。そもそもは“一極集中”という構造問題をどう解決していくのかという課題のはずが、政治機能だけを護るという発想ではあまりにも一面的に過ぎまいか。これもズレなのだ。もっとも、連立を組む政党の地元への利益誘導や、“都構想への再挑戦”という悲願に配慮することが狙いであり、連立を抜けられる恐怖に首相が取付かれている結果なら分からぬではない。そうだとすれば、これはもう“本末転倒の政策”だろう。単なる国民感覚とのズレと言って済まされなくなる。政策はあくまで国民の生命と財産を護ることから発想しなければならないのだ。

 消費税の食品課税への税率を2年間に限定して1%にするという話は、庶民感覚とのズレの極みである。そもそもはゼロにするという話が、小売現場での消費税課税を含む会計システムにおいて、“税率ゼロ”をシステムに受け入れさせるのは至難の業であることが分かって“1%という妥協案”が出てきたのである。システムにおいて、ゼロは単なる数字ではなく、式全体を否定する記号でもあるからだ。したがって、ゼロをシステムに受け入れさせるための“改修”は土台から作り変えねばならない。当然、時間がかかる。首相の頭にある政治日程では消費税1%への移行は来年(2027年)4月が限度であり、9月になってしまったのでは、自民党の総裁任期にひっかかる。無投票再選を狙う首相にしてみれば、ただでさえ異論の多い食品消費税減税が重なるのは避けたいのだろう。消費税1%への変更なら半年で出来ると聞くや、すぐに飛びついた。そして1%分については、それに相当する給付金を支給して、“公約完遂”を謳いたいらしい。

 これは国民の求めるものなのか? むろん課税率が低くなることはありがたい。支給金ももちろんそうだ。しかし、わずか2年間の話なのである。なぜ2年間なのか? 2年後には税金の再分配の最も合理的な仕組みとされる“給付付き税額控除”の計画が整うからだという。国民に2年間待たせるかわりに、その間は消費税を食品に限って下げますという話なのだ。国民の疑惑はここにある。本丸の“給付付き税額控除”とはどのようなもので果たして本当に合理的(十分に公平感があること)で納得いくものなのか、国民一人一人は個別具体的に“自分の場合はどうなるか”を知りたいのだ。それがはっきりするまでは消費税の1%は続けてもらわねばならない。これが国民感情だろう。高市首相は「2年後には私が責任をもって8%に戻させていただきます!」という。そんなことに“責任を持ってもらう”必要はない。国民が求めているのは、暮らし向きの安心なのだ。物価が安定し、ささやかな貯蓄が目減りすることなく将来の暮らしぶりに目途が付くことなのだ。

 ところが首相が力を込めて公約を守ると言ううちに市場は不安定な動きを示す。円がますます安くなる気配があるのだ。2年間に限定して食品の消費税を1%に下げるという“7ポイント減税”効果は、この間、円安が進んだらどうなるのか? これも我国の構造的問題だが、食品は海外から輸入するものが多い。今、100円の食品があり、108円(税込み)で国民が購入しているとする。それが税率下げで、101円になるのだ。しかし、円がこの分、安くなってしまったらどうだろう。単純計算で10円円安になれば、当該価格は108円どころか、110円にしなければ食品業界は減益を強いられることになる。さらに2年後に円安が進んでいるとすれば、消費税の8%復活と合わせ、101円だった食品は、120円程度になることもありえるのだ。首相がはりきって財源も不明なまま消費税減税に踏み込んだことで円安が進むのだとしたら、アベコベの政策になり、これも国民の期待とは大きなズレなのだ。

 ズレは皇室典範の改正にもある。そもそもこれは現上皇が天皇の時代に“生前退位”の意向を示されたことにさかのぼる。典範は天皇の在位を終生と規定しているため、後追い的に“現天皇一代に限り”の特別退位として典範改正したのだ。このとき、国会の議論は、男子皇族の著しい減少を天皇制存続の観点から問題視し、付帯決議事項として“皇族の人数維持”の方策を新たに定めることという“宿題”をつけてしまった。首相としては、これを放置できない。首相の個人的性格(生真面目な気質)にもよるが、これも国民の求めている皇室の在り方とはズレが著しい。国民の多くは、“無理やり男子の天皇である必要はない”と考えている。世論調査によれば、実に“女性天皇”への支持は85%に及び、“女系天皇”すら“何が問題なのか分からない”として肯定する意見が多いのである。高市首相にすれば、天皇制の根幹であり男系男子天皇が永久に皇位を継承されるための措置を講じたつもりかもしれないが、前提からして大きなズレがある。

 国会が提案した対策案は、皇族離脱宮家の未婚男子を養子として皇族に入れることを可能とする案と、女性皇族が結婚によって皇族を離れないことにするという二案だった。そしてこれを首相は十分な議論のないままに丸のみにしてしまったのである。国民の意識は“女性天皇容認”なのだから、実質的に、今の愛子内親王が天皇に即位する芽はつまれたのだ。国民はこれに怒っているのである。それほど、今の内親王は国民の人気が高いのだろう。高市首相の支持率が急降下したのは、おそらくこのことが大きいと思われる。そもそも初の女性総理となった高市首相への支持が高かったのは、女性首相なら“男社会の政治風土”を改革してくれると期待したからだ。だからこそ、就任当時の“働いて、働いて、働いてまいります”という言葉に多くの国民は共鳴したのだ。公務から戻り家事に精を出す姿は、それまでの自民党の“料亭政治”の否定であり、新しい政治スタイルが誕生する期待すら抱かせたものだったのだが。皇室典範のような重要な問題を“さっさと片づける”という感覚は“ズレ”という以上に恐ろしい感じすら国民に与えたに違いない。

 首相はこれ以上、国民とのズレを放置してはならない。このままズレを放置し総理の座を降ろされることになれば、“女性総理”へのネガティブな評価が前例として残ることになる。これは日本の憲政を前に進める意味からも大きな損失である。首相はもう少し柔軟になった方がいい。公約はどんなに無理をしてでも“死守すべきもの”ではない。外部環境の変化もある。それを素直に認識し公約が不適格になったのなら、さっさとひっこめればよい。国民が求めているのは、公約にしがみついてもらうことではない。柔軟かつ現実的に対応し、公約以上の妙手で国民の暮らしを長期的に改善してもらうことなのだ。もし、自分は公約を完全履行したのだから国民は自分への信頼を高め、次の参院選(2028年7月)でも勝利できると考えているのだとしたら、それこそ大きな悲劇的なズレなのである。 



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