葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 五百旗頭眞さん



“いおきべまこと”の名前を聞いて、その人のあり様を想起出来る人は少ないかもしれない。テレビの座談会番組に登場することもあり、数々の政府の諮問委員会の常連メンバーでもあったから、“名前だけは聞いたことがある”という人は多いだろうが・・・。

しかし、“震災復興税”(復興特別所得税)を知らない人はいないだろう。毎年、確定申告時に所得税に2・1%を加算するアレである。東日本大震災の復興の原資を捻出する臨時税制だが、アレを作った人と言えば誰もが身近に感じるのではないか。この春に80歳で逝去されたが、この税はこれからも長く続くことになる。

民主党政権の菅内閣のときに発生した東日本大震災(2011年3月)は、福島原発事故を誘導し、その混乱ぶりは戦後最大のものだった。政権は、同年4月に、「東日本大震災復興構想会議」を立ち上げた。前例のない規模の災害に際して中央官庁にも知見はなく、基本構想から作らねばならないという非常事態だった。この時、“議長”に選ばれたのが、五百旗頭氏だった。歴史政治学者を選んだことは、今日振り返れば英断であったろう。先例のない事態には霞が関官僚は役に立たない。さりとて、国会内に特別委員会を設けても、早晩、政争の具になるのは明らかだった。

こうした局面では“第三の人的資源”として、学会に目が向けられる。しかし、地震学等の学問領域は存在しても、復興学は存在しない。この時に、火中の栗を拾う覚悟で座長の座を引き受けたのが、この人だったのだ。

氏には、震災に対する特別な感情があったという。神戸大学の教授であった1995年に発生した阪神淡路大震災。ゼミの学生一人を亡くし、自身の自宅も大きな損壊を受けた。“学者として役に立ことはないだろうが、被災者としての体験は役に立つかもしれない”というのが、その時の想いだったという。

災害と政治の問題は複雑だ。ましてや会議の目的が“構想”となれば、議論は百出し容易にまとまるものではない。時の民主党政権への不信は根深く、特に下野していた自民党との関係の深い参加者の中には政権批判を口にし“乱暴で極端な”意見を口にする人も少なくなかったという。五百旗頭氏はそれらを真摯に受け止めた。そのうえで誰もが肯首せざるを得ない“共同目標”づくりの道を模索した。“災害を抑えることは出来なくとも、大きな被害は二度と出さない抜本策を作ろう”という方向性で一致した。高台移転という大胆な構想が全員に共有されたのである。

莫大な費用の掛かる話である。そういう着想だけを報告書にまとめて会議をたたむことも出来たが、“夢を語る”だけでは本当の方向性を示したことにはならない。“財源構想”が不可欠であると五百旗頭氏は覚悟していた。かくて“国民すべてに相応の税負担を求める”提言が書き込まれる。これが復興税の母胎となった。

この構想をもとに、2012年2月に継承組織としての「復興推進委員会」が生まれ、五百旗頭氏も参加し“構想をまとめた責任者”として実行プログラムの策定に睨みを利かせた。

研究者としてのライフワークは、太平洋戦争の開戦から米国による占領期までの調査研究。今の日本社会の原型がいかに作られたのかは、間違った歴史を繰り返させないための“歴史家として避けられない仕事”という自負と信念の結晶だったろう。

“調査記録を残す使命感”は最後まで衰えなかった。神戸市の「ひょうご震災記念21世紀研究機構」での執務中に倒れ、救急搬送後に亡くなった。関西淡路大震災後からしばしば口にしていた「死ぬなら仕事中がいい」という口癖通りの最期となった。ひとつの不幸が生涯の生き方を決めた典型のような人生だった。長く語り継がれてしかるべきだろう。

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