葬送エッセイ
さようなら ありがとう

故原田眞人さん
“1949年の7月の生まれであるから、団塊世代の最期の年代である。
東京写真専門学校を卒業してカメラマんを志したが、ドン・シーゲル監督の『突撃隊』を観て映画の虜になった。スクリーンを見つめハラハラドキドキ感情を揺り動かされている時間はせいぜい2時間程度。しかし、その2時間が生涯忘れがたいものとなり、ついには人生の方向まで決められてしまう。この人の人生がまさしくそうだった。
映画製作を志すならハリウッドだと決めてかかった。1973年に渡米し“映画ジャーナリスト”と称して片っ端から制作現場を取材しまくったという。
その原稿の多くは、日本の映画雑誌に送られ、氏の生計を支えた。しかし、原田氏にとって目的はあくまでハリウッドの映画手法を学ぶことだった。
同時にハリウッドで映画人として自活していくことの大変さも知った。
日本に戻ってからは映画に関する仕事はなんでもこなした。特に字幕制作の仕事は、仕上がった映画をあらためて仔細に見直す機会を与えた。言語も文化も異なる国の人達に制作者の意図をいかに正確に伝えるか。字幕の役割の大きさをあらためて痛感したという。この仕事での代表作は、巨匠、スタンリーキューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』だろう。この監督は公開国の字幕を英語に再翻訳させ細かくチェックすることで有名だった。それほど自分の製作意図がゆがめられて伝えられることが我慢ならなかったのだ。「ひどい訳だ! これでは軍隊内部の会話の卑猥さがまるで伝わらない。これでは軍隊がとてもお上品な社会に見えてしまう。俺の狙いはそうじゃない!」。急遽、代役として起用された原田氏は“直訳”に徹して、この気難しい監督のOKをとったという。これもハリウッドの制作現場を知っているからこその対応だったのではないか。
俳優の仕事もこなした。代表作は何といっても『ラスト・サムライ』。トム・クルーズの敵役を憎々しげに演じてのけた。ここには明治新政権の官僚たちの私利追求の醜悪さと卑屈に対する憤りがあったように思われる。
それは監督になってからの『金融腐蝕列島・呪縛』(1997年)や『突入せよあさま山荘事件』(2002年)に連なる“告発する映画作家”としての性格を際立たせる、この人の核のようなものではなかっか。
そして、その社会派ドラマの延長線上に代表作『クライマーズ・ハイ』が生まれた。日航機墜落事故を報道する地方新聞社の内部抗争を描き、緊迫感漲る作品になった。何よりも我々を驚かしたのは、事故現場の再現セットと新聞社の広大なオフィスのセットだった。まさしく“ハリウッド流”だった。ここをひとつの頂点として、この人は新境地を目指した。『わが母の記』(2012年)のような文芸映画い挑戦してみたり、『関ケ原』(2017年)や『燃えよ剣』のようなスケールの大きな時代劇にも挑戦したが、これらは新たな『クライマーズ・ハイ』を生み出すための途上の作品群とみなされた。
それほど今後の期待をいだかせたままでの逝去となった(76歳)。役所広司などは訃報を聞いて思わず「若すぎる!」とさけんだというが、師・仲代達矢に続く訃報に演技者としての今後の道行に心細さを感じたうえでの正直な一言だったのではないか。
多くの映画ファンも同じ気持ちに違いあるまい。せめてあの世で新たな傑作を撮ってくれることを祈ろう。