葬送エッセイ
さようなら ありがとう
故橋幸夫さん
昭和世代の人達にとっては、この人の訃報は衝撃だったろう。一時代を画した人の逝去には、“時の流れ”を痛感させるものがあるからである。
この人が登場するまでの昭和の歌謡界は堂々たる大御所歌手の時代だった。美空ひばりがいて島倉千代子がいた。三橋美智也がいて春日八郎や三波春夫や村田英雄がいた。彼らの歌声が流れる中で一年が過ぎていく感があった。その集大成がNHKの『紅白歌合戦』。視聴者は彼らの歌声を聞き過行く一年を振り返ったものだった。そんな“古き良き時代”に終止符を打ったのが、この人だったと言っても良い。やや大袈裟な話になるが、アメリカの歌謡界がビング・クロスビーやフランク・シナトラによって牛耳られていた時代に、エルビス・プレスリーが登場した衝撃を思わせる。
それほど、1960年の『潮来笠』(デビュー曲)の大ヒットは衝撃だった。戦後生まれの歌手が本格的に登場し、それまでの大御所歌手たちを“オールドエイジ”に追い込んだ地殻変動だった。
巧妙な作戦もあった。表向きには伝統的な“股旅もの”のスタイルを取りながら、“股旅”像の中身を一新したのだ。『潮来の伊太郎、ちょっと見なれば、薄情そうな渡り鳥・・・』。クールで現代的な若者像が股旅姿から覗いていた。それは戦後の混乱期を乗り越え高度成長期にさしかかった日本の街街のあちこちで見かけるようになった若者の姿そのものだった。
日本社会が“戦争を知らない子供たち”に世代交代する最初のインパクトは、橋幸夫によってもたらされた。
1943年(昭和18年)生まれだから、団塊世代の“お兄さん”にあたる。東京の呉服屋の9人兄弟の末っ子だった。学生時代には相当の悪童ぶりを発揮し、喧嘩に勝つためにボクシングに熱中したらしい。「そんな危ないことは止めておくれ」と母親に懇願され、勧められるままに遠藤実(作曲家)の歌謡教室に入ったのが流行歌手への入口になった。多くの同世代の若者が、そんな橋幸夫に共感を覚えた。窮屈な大人の世界への理由なき反抗の一端だったかもしれない。
当時のレコード業界も世代交代を強く意識していた。歌唱力以上に若者に支持される雰囲気を強く持つスターの発掘に熱心だった。今や伝説になっているが、橋幸夫は最初のオーディション(コロンビア)に落ちている。コロンビアでは新世代スター像を既に描いており、そのイメージから橋幸夫は少しずれていたらしい。恐らく、その“不良性”がマイナス評価になったものと思われる。コロンビアでは、やがて見出すことになる新人歌手に既に“舟木一夫”なる芸名を準備していたという。この人がオーディションに合格し、この芸名を付けられたら恐らく猛反発したことだろう。。
「俺は橋幸男です。歌手になっても、中身は橋幸男でしかないんだから、変な名前を付けられるのは御免です」と。
“橋幸男”はれっきとした本名だった。後に、別の会社からデビューが決まった時、「幸男は幸夫の方が断然良い。左右対称文字を使うと大物になれますよ」と言われ、この時はスンナリと納得したらしい。商家に育った人特有のゲン担ぎでもあったろうか。
ところで、その因縁の後輩歌手、舟木一夫と西郷輝彦(故人)と組んで、“御三家”なる言葉をメディアが作った。こうなると世代交代の流れは勢いづいて、グループサウンズやフォークブームに繋がっていった。橋幸夫こそは、新しい波を起こし先頭を切って泳ぐたくましい青年として、さわやかな飛沫をこの国の社会に浴びせたのだ。
“潮来笠”から二年後に出した『いつでも夢を』(デユエット曲、相手は吉永小百合)は、昭和歌謡の新しいうねりを響かせる、時代を代表する曲になった。これほど率直に人生を肯定するメッセージソングはない。
晩年のアルツハイマー型認知症を発症しながらステージに立ち続けたこの人の姿は立派だった。「僕は若いころから天然ボケでしたから、今更困ることはないんですよ」と客席を笑わせた。しかし、持ち歌の歌詞を間違えることはなかったという。もちろん、『潮来笠』は特に。
その素直な人柄と歌声は昭和のひとつの象徴として永遠であると思いたい。