葬送エッセイ
さようなら ありがとう

故仲代達矢さん
“名優中の名優”と呼ばれるにふさわしい人だった。最後の最後まで演技を続けた92歳の人生は見事というほかない。
とびぬけた才能に恵まれたことは事実だろうが、いかなる才能も開花するにはキッカケが要る。この人の場合は、一人の女性との出合いだったろう。俳優座所属の宮崎恭子。仲代氏は父親を8歳の時に失い、競馬場の切符売りやパチンコ店でのアルバイト等をして定時制高校を卒業した苦労人だった。その仲代氏が俳優座の公演を見たのが、運命が開く最初の兆しだった。彼は俳優に憧れたのである。早速、俳優座養成所の試験を受け、俳優への第一歩を踏み出した。むろん、相変わらずの生活苦で、バーで働きながらの下積み生活だったという。
当時、看板女優だった宮崎恭子は雲の上の存在だった。
その“女神”が仲代氏を見かけ恋に落ちたという。仲代氏にしてみれば、女神が舞い降りた瞬間だった。彼女のサポートで暮らし向きは一変した。バイト生活から開放されたうえ、演技上の個人指導者を得たようなものである。
ある日、恭子が言った。「女優というのは男に惚れられてナンボ。それが男に惚れたんじゃ女優失格だわね・・・」。二人は、1957年に結婚した。仲代氏が25歳の時である。ここから快進撃が始まった。
1959年から1961年にかけて、小林正樹監督の空前の大作『人間の条件』の主役に大抜擢された。通しで上映されれば9時間31分かかる長編である。この映画で仲代達矢は国民的知名度を得たと言っても良い。不屈の精神で好戦的風潮と戦い、ついに満州の雪の原野に倒れた主人公の姿は、敗戦から14年を経て、もはや戦後ではないといわれた社会風潮の中で、あらためて人々に戦争の悲惨な記憶を呼び覚ました。仲代達矢の演技はそれほど鬼気迫るものだった。
多くの監督が、その才能に注目した。特筆すべきは黒澤明。『用心棒』と『椿三十郎』で三船敏郎の適役を探していた時だった。この日本映画史上に残る大娯楽作に出演したことで、人気は大衆的なものになった。東宝はじめ多くの映画会社が専属契約を求めたが、仲代氏はフリーの立場を崩さなかった。アナタは普通の映画俳優で終わる人じゃないという恭子夫人のアドバイスだったという。
そこからは、演劇と映画の二刀流が始まった。おびただしい出演作のなかで、やはり抜きんでた傑作は、小林正樹監督の『切腹』だろう。社会の不条理に対する怒りを漲らせた浪人の姿は、圧倒的な存在感だった。
多くの業績の中で特筆しなければならないのは、やはり俳優養成所「無名塾」の創設だろう(1975年)。これは恭子夫人との合作だった。隆巴のペンネームで夫人はシナリオライターとして頭角をあらわし、演出にも手を染めていた。無名塾は二人の理想を追求するかけがえのない場となり、ここから役所広司や若村麻由美、真木よう子といった俳優が巣立っていった。
そんな同志ともいうべき伴侶を失ったのは1996年のことだった。それからのこの人はがむしゃに働いた。どんな端役でも拒むことはなかったが、働いて働いて、夫人との共作である無名塾を何とか維持したいという思いからだろう。
最期の仕事は、今年の5月~6月にかけて、これも手塩にかけて作り上げた能登演劇堂での、『肝っ玉おっ母と子供たち』だった。反戦のメッセージに貫かれたブレヒトの傑作である。映画『人間の条件』に始まり戯曲『肝っ玉おっ母と子供たち』で幕を下ろした表現者としての生涯は、反戦の訴求者として一貫したものだった。
安倍政権で安保法制が成立した頃だったか、「また最近、好戦的な勇ましいことをいう人が増えまして、戦争を否定する者は臆病者とか非愛国者みたいに言われる時代が来ている気がする。しかし私は、どう言われようとね、戦争はイヤダと言い続けて死なしてもらいます」と言ったのが記憶に残っている。満州事変の翌年に生まれて、13歳で敗戦を迎えた世代としての嘘偽りのない心情だったのだろう。
この人についてこれ以上多くを語る必要はない。ただ、静かにこの人が残してくれた作品に触れてみよう。あらためて、この不世出の名優と同時代に生きられた幸運を、身に染みて感じられるはずだ。それこそ最高の供養になることだろう。