葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 釜本邦茂さん



戦後日本のスポーツ界を代表するレジェンドだった。しかし、一足先に逝った長嶋茂雄さんのような国民的ヒーローという訳ではなかった。ひとつには、昭和の時代に人気を二分した大相撲やプロ野球と違い、サッカーは平成の時代に入るまでは、それほど注目される競技ではなかったからである。

あのメキシコ五輪での日本チームの銅メダル獲得や、アジア人初の得点王となった偉業も、1968年当時、国民を感心させたとはいえ、熱狂させるような騒ぎではなかったように記憶する

1944年の生まれだから、太平洋戦争の敗戦前年に、戦後社会に新たな波を起こすべく生まれたような人だった。

世代的には団塊世代に入らない“プレ団塊”にあたる。そのこともまた、戦後社会の流行の直前を行くことを運命づけられていたように思えてならない。
メキシコ五輪の1968年は、まさしく学生運動の季節であり若者が最も政治に関心を持って激しい運動を繰り広げた年であった。彼らに比べ、サッカーで世界的な偉業を達成したこの人は、時代の波から“ずれていた”、と言えば言い過ぎか・・・。

このズレはその後も続く。メキシコ五輪の後、ドイツのチームに移籍することが決まっていたが、肝炎にかかって機会は失われた。もし、国際的に活躍するプレーヤーになっていれば、“国際化”という戦後のムーブメントに乗って、“世界で活躍する日本人”の先駆の一人としてリスペクトされていただろう。

引退は1984年。“ジャパン・アズ・ナンバーワン”ともてはやされた時代が過ぎていこうとしていた時である。40歳でのリタイアは惜しまれるが、その後のJリーグの誕生によるサッカーブームの到来を前にしてのリタイアは、やはり“ズレていた”と言うべきか。

引退後には、新設された“ガンバ大阪”の初代監督に就任して、人気チームとなる基礎を築いたが、やはり記憶を新たにしておかねばならないのは、1995年から2001年まで勤めた参議院議員。森喜朗幹事長(当時)得意のスポーツ系有名人のスカウト網に引っかかったのだ。同期にあの橋本聖子氏がいるが、彼女と対照的に華々しさに欠け、二期目では落選になった。

Jリーグブームに火が付いたときだけに、解説者としてでも活躍しておれば若い世代のファンにも破格のレジェンドとして認知されたものを、国会議員になった以上、それはできない。これもまた“時代とのズレ”であったのか。

全盛期のプレイを想起しておこう。天才ストライカーと呼ばれるまでには、この人流の独創的な研究の積み重ねがあった。常に新宿の人ごみに出て、人の流れの逆方向から小走りで左右の人をよけて動く“練習”をしていたという。電車に乗った時は絶対に吊り輪は持たない。電車の揺れに対して体のバランス力を養うためだったという。海外の有名選手のフイルムを何度も見て研究し、ストライクに入るまでのポジションの取り方に気付いた。一流選手ほど、ゴール前では目立たない。ゴール前では姿を消し、突然現れてキックすれば、いかなる名キーパーと言えどもカバーは難しいのだ。こうしてゴールチャンスと見るや、“右45度”のポジションに姿を現す。この角度が、ゴールの死角ともいうべき“左片隅”と“右上隅”を正確に射貫ける最高の位置なのだと、釜本は確信していた。そのうえで、右足は当然として、左足でも、さらには頭でもゴールを決めた。

日本史上最高のストライカーは孤高の努力の人だった。今はトレーニング器具も最新の科学的知見を活かしたものが整備されている。釜本の手作りのトレーニング手法も、今から見れば“ズレ”ていたのかもしれない。しかし、この“工夫の鬼”ともいうべき姿勢こそ、今の選手に受け継がれるべき宝ではないのか。

来年はワールドカップが開催される。森保一監督はじめすべての選手がメダルを取りたいという。しかし、40年以上前に日本代表チームは銅メダルをとっていたのだ。このことをあらためて思い出そうではないか。“メダルを取りたい”ではなく、この偉大な先人を追い越すことを誓おうではないか。常にゴール前で姿を消したこの人が絶妙の“アシスト”をするために一足早く動いたのだと思いたい。
来年、“カマモト超え”が実現したら、そのときこそあらためて、この人の偉業を讃えたいものだ。1年早い逝去は、決して“ズレ”ではない。

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