葬送エッセイ
さようなら ありがとう
故長嶋茂雄さん
とにかく大舞台に強い人だった。ここ一番!というゲームこそ、“燃える男”の出番だった。日本シリーズしかり、オールスターゲームしかり。これはデータにも明確に見て取れる。
日本シリーズの通算打率は、3割4分3厘。出場回数が多かっこともあるが、通算打点は実に66打点。圧倒的な歴代第一位である。おそらく永遠に抜かれることはないだろう。オールスターゲームでも、通算打率3割1分3厘。大きな試合になればなるほど、この人は、“このゲームは俺のためにあるんだ”と心底思ったに違いない。
極めつけは、1959年(昭和34年)6月25日。この人の生涯で最高の晴れ舞台だった。昭和天皇(当時)がはじめて球場に出向き、“野球なるもの”を初めて観戦したあの日。大相撲ファンで知られた天皇は、野球にはさほどの関心がなかったとされる。相撲観戦は蔵前国技館に出向いて直に観戦するのは日常茶飯だった。天皇も楽しみだったに違いない。
国民的人気になりつつあったプロ野球にも一度ぐらい“ご来席”いただかねば不公平であるという野球関係者からの“働きかけ”があったらしい。天皇自身も公務のようなつもりであったろうが。
この日の巨人対阪神戦は、打撃戦になり野球を見慣れない人にも面白いシーソーゲームだった。これに劇的な幕引きをやってのけたのが、この人だった。天皇に捧げるサヨナラホームラン。この試合は後々まで“天覧試合”と呼ばれ、巨人阪神戦は今でも“伝統の一戦”と呼ばれて今日に至っている。数々の“長島神話”の頂点だった。
スポーツはシナリオがない。映画や芝居のような演出は効かない。天皇に臨席願った試合が“凡ゲーム”になったのでは野球関係者の面目が立たない。熱戦になることを神頼みしたくなるほどの思いだったろうが、長島にすれば、“ご心配なく、私がおります”ぐらいの気持ちだったのではないか。
この人の発想には、1ミリすらネガティブなものがない。100%のポジティブ思考。それがまた戦後昭和の高度成長期の社会気分によくマッチした。まさしく長嶋茂雄こそは“国民的スタープレーヤー”だったのだ。
巨人軍の監督になってからも、このポジティブ思考は際立った。1998年の大逆転リーグ優勝は“奇跡的”だった。首位広島と11・5ゲーム差をつけられながらも、“こっからが勝負! 必ず巨人は優勝する!”と堂々と言い続けた。誰も信用しなかったろうが、その言葉通りの猛烈な追い上げを見せ、優勝してしまった。「諦めるなんてことは許されません。劇的なドラマをお届けするのが私たちの仕事。そうです! メークドラマなんです」。この“メークドラマ”は流行語になった。並の人間なら“ネバーギブアップ”というところを、この人は“メークドラマ”と言った。こういう特殊な言語感覚もこの人の人気の理由だったろう。
言葉と言えば引退時の言葉があまりにも有名である。「私は本日ここに引退をいたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です!」。
ここには、天皇に捧げたサヨナラ本塁打に通底する“集団への強い帰属意識と貢献精神”がある。いかに会社人間と言われようが、昭和の日本人は国家や会社、地域等、自らが所属する集団に帰属し“運命を共にする生き方”が普通だったのだ。そして貢献度の際立った人を尊敬し自らのロールモデルにしてきたのだ。“長嶋茂雄”はそんな時代の典型的な日本人だった。
大谷翔平が“天皇に捧げる本塁打”を撃ったり、“我がドジャースは永遠に不滅です”などと言う訳がない。言うようなら、ここまでの人気はないだろう。彼は愛妻、可愛い娘、愛犬の揃った理想的家庭人であり、国家や人種を超えたコスモポリタンである。だからこそのこの人気なのだ。時代背景を抜きにしてスターは語れない。
この人の逝去で“昭和”がまたひとつ遠ざかっていった。しかし、今後どのような時代になろうとも、この人の墓前に何かを祈願する人は絶えまい。プレツシャーに弱い人の守護神として、“メークドラマ”を願う人たちにとっての“ミラクルワーカー”として・・・。昭和は去っても、長嶋茂雄は永遠に不滅なのである。