葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 宇野鴻一郎さん



“うのこういちろう”と聞いて、なつかしさを覚える人は60代以上では多いのではないか。

“あたし 〇〇〇で感じちゃうんです”といった若い女性の一人称告白体で一世を風靡した官能小説の巨匠だった。時代は1970年代からバブルの絶頂期にかけての頃である。

40年以上も続いた戦後昭和は大きく二つに分かれる。前半は国民は飢えに苦しみ、やがて朝鮮戦争を契機に復興の途に就いたが、過激なメーデー大会や60年安保反対運動とその蹉跌、そして全学連による全国学園紛争の渦に巻き込まれる“政治の季節”だった。一転したのは、新左翼の超過激派が引き起こした浅間山荘事件。国民は政治闘争集団の狂気を目の当たりにして、政治的なるものに背を向けてしまった。1970年代初頭のことである。

“政治”と対極にある世界は“性”である。結婚を前提にしてこそ許された性的関係という規範は捨てされら、欲望を追求する生き方こそが時代の先駆者のような風潮すら生まれた。メディアや大衆芸能では、性表現が一線を超えていった。象徴的な事件こそ、先日亡くなった篠山紀信氏の“ヘアヌード”写真ブームだったろうか。

80年代に入ると、家電メーカーが売り出したVHSビデオが“レンタルビデオ”という業態を生み出し、棚の多くを占拠していたものこそアダルトビデオだった。つまり、戦後昭和後期の風俗は、ビジュアル化の衝撃と共にあったのだ。そんな視覚的な刺激表現の氾濫のなかで、宇野鴻一郎は言語だけで戦い抜いた作家だった。たとえそれが、当時、人気を博した日活ロマンポルノによって次々に映画化されたといえども、あくまでこの人の表現武器は言葉だったのである。

“宇野鴻一郎”は官能小説の代名詞となり一大ブランドとなった。松本清張や司馬遼太郎といった“国民作家”とも知名度において全く遜色はなかった。もっとも、その名声には、“破廉恥作家”という蔑視が付きまとったのだが。

1934年に共に士族の父母の長男として札幌に生まれた。父親は軍事会社の工場の副所長であり、終戦は満州で迎えた。奉天から引き上げ、1955年(昭和30年)に東京大学文化Ⅱ類に入り、大学院にまで進んだ。修士論文の『原始古代日本文化の研究』というタイトルからは、後年の“あたし 〇〇〇で感じちゃうんです”という文章は想像しがたい。

やがてこの人は文学に目覚める。自分で同人誌を出し、『光の飢え』という短編で早くも文壇の注目を浴びた。そして、1962年に『鯨神』で芥川賞を受賞した。宇野鴻一郎は純文学の作家だったのだ。この人の迷いは、ここから10年間が絶頂であったことだろう。純文学はいくら書いても、売れる量に限界があり、たいした収入が見込めない領域なのである。激しい煩悶の末に得たのは、作家は商業的成果を得ない限り世俗的成功者になりえないという悟りだった。そして、最高の成功をもたらしてくれそうな領域こそ、70年代初頭に訪れた性の解放ブームに乗ることだった。

この人ほど稼ぎまくった文学者は稀だろうが、やがて昭和から平成に元号が変わったころから、世の中の風潮は一変した。経済環境も悪化し、世の中から軽薄な風潮が消えていった。宇野鴻一郎が“官能小説の商売”を畳んだのはこのときである。

蓄財は十分だった。余裕の暮らしの中で純文学回帰の道程を見つけられるはずだった。しかし、何も書けなくなっていた。純文学は激しい心の飢えがあってこそ書けるものだからだ。宇野鴻一郎は世俗的な成功と引き換えに、純文学者の資質を失ってしまっていた。残されたのは美食三昧の日々であり、終の棲家となった横浜の洋館で貴族的なライフスタイルを満喫することだけだった。今年、8月28日。虚しくもきらびやかな余生は終わった。90歳の卒寿をむかえ、心不全という比較的苦しみの短い病での昇天を見て、羨望する向きも多かったろうが、この人の本質を知る人には、その無念の思いは理解できたろう。
『鯨神』のような日本の民俗的古層に触れる新たな小説世界の可能性は消えた。が、誰かがこの人の志を継がねばならない。文学ファンだけではない。何よりもこの人が、それを望んでいるに違いないのだから。

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