葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 故張本勲さん



戦後の昭和はプロ野球人気が爆発した時代だった。誰が言ったか、“巨人、大鵬 卵焼き”。当時の子供たちの好きなものの代表ということらしい。

ここには、それまでの国民的スポーツだった大相撲を凌ぐ野球人気の高まりを読み取ることが出来る。

その人気球団の中心にいたのが“王&長島”(ON)だった。

そして、“第三の男”をあげるなら、誰もが“張本”の名を上げることだろう。

生涯3000本安打(正確には3085安打)。“安打製造機”と呼ばれた。生涯打率は3割1部9厘。本塁打も504本を記録している。

パリーグ(東映フライアーズ(現日本ハム)所属のため、当時はテレビ中継されることが少なく野球ファン以外には広く知られることはなかったが、長島が監督になり、ONの一角が欠けたのを埋めるために巨人にトレードされてから人気に火が付いた。新たな“OH砲”は当時の野球少年たちの胸を熱くさせたものだった。まさしく偉大なレジェンドと呼ばれるにふさわしい。

苦労人という言葉のふさわしい人でもあった。在日韓国人の母子家庭で育った。昭和は偏見が強く残っていた時代でもある。“差別と貧困”を乗り越えるためにプロ野球の世界に飛び込んだ。「うまいものを腹いっぱい食ってみたい。自分の家に住んでみたい。当時はそんなことしか頭になかった」と後に語っている。

当時、プロ野球も大相撲も影が薄くなるほど人気があったのがプロレス。その大スターだった力道山とは同郷の縁で結ばれた“師弟関係”でもあったらしい。

しかし、力道山の場合は内に抱えた屈折が大きかった。韓国人であることを隠し、ひたすら“日本の英雄”を演じなければならなかったストレスは深酒に浸り反社組織とも交わっていく行き方に繋がった。張本氏に言わせれば、故国にも裏切られ日本の因習をひきづる相撲界でハラスメントされ、居場所が持てなかったルサンチマン(怨念)の結果だという。

張本氏にも、そういうったものがなかったとは言えないが、この人にははるかに大きな被害体験があった。幼い頃住んでいた家は広島市街にあった。5歳の時の被爆体験は生涯、消えるものではなかった。当時の家が標高71メートルほどの山蔭に所在したことが幸いして本人は救われたが、勤労奉仕に出ていた姉は亡くなった。反戦への強い思いは鬼籍に入るまで消えなかったに違いない。

アメリカへの思いも複雑なものがあったろう。それは何がメジャーだという敵愾心に繋がっていた。

後にイチロー選手がメジャー移籍し、日米通算で自分の安打記録を抜いた時、記者の取材で「日本記録保持者は私です」と眼光鋭く言った。アメリカのベースボールと一緒にされたくないというこの人流の野球哲学が奔出した瞬間だったろう。ここにも“昭和を生きた男”の意地があった。

もうひとつ、引退するまで隠し続けていた肉体上のハンディもあった。幼少時のやけどで右手に障害が残ってしまったのだという。それを克服するためサウスポーに転向したが、バッティングは両腕のバランスで成立するものだ。左打者にとってバットの始動をリードするのは右手なのだ。常に手袋をしハンディを隠し続けたが、引退後にその手を目撃した川上哲治氏(元巨人軍監督)は、よくこんな手で打てたものだ、と絶句したという逸話が伝わっている。

引退後は解説者としてテレビの報道番組のレギュラーを勤めたが、実に率直な物言いだった。良いプレーにたいしては「アッパレ!」と絶賛し、怠惰なプレーには鬼の形相で「喝っ!」と叫んだ。これは受けたが、当人は受け狙いで言っていた訳ではなかった。野球のプレーは真剣勝負なのであり、そういう目でしか個々の選手のプレーを見れなかったに違いない。

今年もいよいよプレーオフのシーズンを迎える。クライマックスシリーズも日本シリーズも、張本さんに特別観覧席からであろうと解説してもらいたいものだ。はたして、「アッパレ!」が多いか「喝っ!」が多いか、もちろん、前者であることを願いたい。張本勲さんもそう思っているに違いないのだから。

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