葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 篠田正浩さん



昭和の日本映画界最期の巨匠が逝った。そんな感慨に襲われる。享年94歳。

この人のこととなると、既に鬼籍に入っている“大島渚”(2013年逝去)と“吉田喜重”(2022年逝去)の二人を思い起こす。1960年代、“松竹ヌーヴェルバーグ”と呼ばれ、日本映画界に革命を起こす“怒れる若者監督たち”とされた。

最年長が篠田、一つ下が大島、さらに一つ下が吉田という全くの同世代監督たちであったが、共通していたのは多感な十代の終わりに敗戦を体験したことだろう。このことを抜きに彼らの映画を語ることは出来ないが、行き方は三人三様だった。大島渚は戦後日本政治の欺瞞に怒りを叩きつけ、吉田は実存主義的な哲学的視点を武器に映画表現の可能性を追求しようとした。マニアックな支持者を得る一方、難解さが敬遠されもしたが。

篠田はこの二人とは違う。商業映画としての最低条件(娯楽性)を常に意識した。大島や吉田が次第に映画を撮る機会を奪われていったのに対し、篠田は制作機会に恵まれ続けたと言っていい。

早稲田大学第一文学部で学んだ古典民俗芸能が創作の根底にあった。その才気がほとばしり出たのが、『心中天網島』(1969年)。

人形浄瑠璃の世界を斬新なモノクロ映像で捉え、人間の背後にうごめく黒衣(くろこ)をあえて強調して撮った。一組の男女を心中に追い込んでいく運命の影のような存在として・・・。この前衛性は圧倒的だった。

『はなれ瞽女おりん』(1977年)、『槍の権三』(1986年)と、色彩映像の中に妖美な様式美を追求し、古典主義とモダニズムを融合させた。大島渚や吉田喜重が“異端”、“前衛”といった評価を固めていったのと対照的に、篠田正浩は古典的な“名匠”の風格を帯びていった。

成功した監督になった篠田に衝撃を与えたのは、司馬遼太郎の一言だったらしい。「君の映画は暗いなぁ・・・」。

司馬の言う“暗い”には深い意味があった。軍国主義政権という“カルト国家”を形成した戦前の昭和に司馬が怨念を抱いていたことは篠田も十分に承知していただろう。そのグロテスクな国家形態を成立させた根源に死すら美とする日本の古典芸能や民俗信仰があった、というのが司馬の考え方。その“暗い”の一言は、古典芸能に美を求める篠田の行き方に対する警戒感であったろう。軍国少年であった篠田には、司馬遼太郎の心情もよく理解出来た。戦前の軍国主義社会の記憶に目を背けて映画を撮ってきた負い目もあったろう。

その屈折した心情は、自伝『私が生きたふたつの“日本”』(2003年)で告白している通りである。“ふたつの日本”とは、軍国主義時代の日本と、敗戦後のアメリカン・デモクラシーに占拠された日本のことである。その両極的、分裂的な国家に生きて、アイデンティティの喪失感に苦悩し困惑したことは容易に想像がつく。

司馬遼太郎の一言は、篠田正浩の作風に大きな変化をもたらした。1984年の『瀬戸内少年野球団』。これは阿久悠の自伝的原作を映画化した篠田にとって重要な作品となった。阿久は篠田より6年年下である。この世代にとって敗戦は開放であった。“野球で進駐軍のやつらをやっつけたるねん”。実際に瀬戸内海の小島であった米軍チーム対日本少年チームの野球試合を、篠田は得意の色彩感覚で“明るく”描いた。しかし、ここには屈託もあった。敗戦の季節がこんなに開放的で明るいはずがない、という思いである。

その後の篠田は日本の近代国家形成時代に関心をむける。森鴎外の原作を映画化した『舞姫』(1989年)。戦時中の疎開生活を描いた『少年時代』(1990年)は傑作とされた。自ら最終作(遺作)と公言して撮った最期の作品は、『スパイ・ゾルゲ』(2003年)。

この遺作は、かつての古典的美学を追求してきた頃の作品と比べれば評価は割れた。しかし、この“昭和戦争史”とも言うべき映画を最期の作品としえたことに、篠田は満足していたのではなかったか。
今、思うに、篠田らの“ヌーベルバーグ世代”は、戦中派世代の岡本喜八のような根っからの反戦主義と、黒沢清のような現代社会の底深い不条理感と向き合う純粋戦後世代との挟み撃ちにあった存在だった。

その窮屈さの中で誠実に映画を制作し続けたのが篠田正浩だった。その映画は、これからも見返されるたびに、この人の生きた時代の複雑さを思いおこさせることだろう。むろん、その卓越した映像美が不朽のものであったことも含めてである。

戻る