葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 坂本幸雄さん



日本の半導体業界の歴史の当事者であり証人ともいうべき人だった。1990年代、昭和から平成に変わった日本は長い低迷の時代を迎えた。“失われた30年”と言われる屈折は、半導体産業の失敗と共に起きたと言っても良いのではないか。

まさしく日本経済の変節の年であった1991年、この人は日本テキサス・インツルメンツの取締役に抜擢された。41歳の若さである。外資系企業ならではの人事とも言えた。そんな野心をもって実業界に入った訳ではなかった。群馬県前橋市に生まれ、前橋商業高校から日本体育大学に進んだ。体育を教える教員志望だったのである。しかし、教員試験に落ちてしまう。日本テキサス・インツルメンツへの入社は、不本意でやむを得ない選択だった。

実態は“倉庫番”としての職種限定採用だったという。しかし、この人は自分でも驚くほどの才覚を開花させた。在庫管理の方法を一新し、労務改善に導いたことでコスト削減に目覚ましい成果をあげたのだ。経営の専門知識があったわけではない。いや、“ずぶの素人”だからこその新しい発想の賜物だったろう。

才能を認めれば外資系企業の処遇に躊躇はない。1993年には副社長にまで昇進した。日本の電機業界の中で“半導体のプロ”として一躍、勇名をはせた。ヘッドハンターに目を付けられ、会社を流れ歩く“経営専門職”となった。1997年に神戸製鋼所の半導体部長に。2000年には日本ファウンドリーの社長に。

運命的だったのは、2002年に発足間もないエルビーダ・メモリーの社長に招聘されたことである。1999年にNECと日立の半導体部門が切り離されて、さらに三菱電機の同部門が吸収されて発足した寄合企業であったが、3年連続で200億円以上の赤字を積み上げていた。1980年代に世界を席巻した日本の電機業界では、半導体をあくまでも“部品”として見られていた。最終製品こそが主役であり、半導体は裏方に過ぎない。半導体そのものをビジネスに育てる知見はなく、新会社に集まった人材は普通の管理職でしかなかった。はっきり言ってしまうなら、やっかいなお荷物の切り捨て先の会社だったのだ。

「大企業出身の幹部は出社すると雑談から仕事を始める。仕事仲間との良き関係を確認し空気を確かめる習慣なんだろうが、半導体の商売はスピードが命だ。この人たちには任せられないと思った」と率直に当時を回顧したが、経営幹部たちとの軋轢のほどが偲ばれる。

寄り合い所帯の会社に特有の“たすきがけ人事”を廃止し、若手社員から使える人材を発見し大胆な抜擢人事を躊躇わなかった。最も苦労したのは資金不足。それぞれの親会社には半導体を切り捨てこそすれ、育てる発想がそもそもなかった。“カネを出す気のない親”に見切りをつけ世界最大手(当時)のインテルと交渉し資金を引き出した。

デルのような大口顧客を自ら開拓するなど坂本氏の超人的な(まさしく体育会系の)行動で会社の再建に成功した。この頃が絶頂期と言って良かった。しかし、半導体ビジネスは次々と投資を続けなければ淘汰される世界である。最新の生産設備を持つものがコスト競争力を高め、後れを取ったものは淘汰される世界。半導体産業の宿痾とも言うべき過剰生産体質は、需要減退期には極端な値引きを引き起こす。“シリコンサイクル”と呼ばれる過酷な市場の起伏を乗り越え生き残るには、何よりも資金力が求められるのだ。

坂本氏の悲運は、そのことを本当に知る人が周囲にいなかったことだろう。経産省も例外ではなかった。2008年のリーマン・ショックがトリガーになった世界金融危機、超円高に際し、経産省に支援を要請したが聞き入れられず、台湾企業に連携を求めたが未達に終わった。

もはや、これまでと2012年2月、会社更生法を申請した。このときも取引銀行に直前まで伝えず、いわば独断だったという。「債権者のいうことを聞いていたら、結局ジワジワと会社は衰退し、見かけは存続できてもゾンビ企業になるしかない。余力のある時に債務を削減できる法的整理なら会社の技術を次に繋ぐことが出来る」と言い放った言葉には、事業のレガシーに対する強い哲学があった。今見れば、卓見であったろう。エルピーダは米マイクロン・テクノロジーの傘下に入り、広島工場は日本メモリー最先端量産技術の拠点として存在感を維持しているからだ。

1947年生まれの76歳での訃報だった。台湾のTSMCの熊本工場に経産省が桁外れの補助金を出す時代である。今頃分かったのか・・・とでもつぶやく最晩年のひとときもあったろうか。反骨の生き方が際立つ団塊世代の異能者が、また一人去った・・・。願わくば、そのスピリットが明日の日本経済に力強く引き継がれんことを。

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