葬送エッセイ   
さようなら ありがとう

 鈴木健二さん



日本の全盛期とも言うべき1980年代前半を代表する“テレビの顔”だった。二度にわたるオイルショックを最先端の省エネ技術の開発で乗り越え、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と持ち上げられた時代、NHKの顔として、福々しく愛嬌のある丸顔で速射砲のように飛び出す声は、“日本の元気”の象徴でもあった。

特に多くの人の記憶に残るのは、やはり『クイズ面白ゼミナール』だろう。“驚異的な記憶力”と騒がれたのは、この番組からである。出題から解答の解説まで文字どうりのワンマンショウだったが、その膨大な放送台本をすべて自宅で頭に叩き込んでスタジオには持ち込まなかったという。

“アナウンサー”とは、正確に報道原稿を正しい発音で読み上げる職業、とされていた時代である。この人の行動は破天荒そのものだった。東京都墨田区で生まれた生粋の江戸っ子。優等生的な標準語を操るアナウンサー仲間の中で、“べらんめい口調”の残る早口は異端視され、新入アナウンサーには、“悪い見本”として真似をしてはいけないとされていたらしい。

「原稿を読むだけなら機械と同じでしょ。アナウンサーだって人間なんだから、人間として自分の言葉で語るところまでいかないとダメ」というのが、この人の持論だった。原稿をすべて頭に叩き込むというのは、自分の言葉として語るための手法だったらしい。今日からみれば、先見性に富んでいたと言える。今やAIがニュース原稿を読み上げている時代になったのだから。

こう書くと、この人の語りはアドリブだらけだったように思われるが、一字一句原稿通りで踏み外すことはなかったという。ここらが日本放送協会(NHK)のエリート局員らしいところだった。あれほどの人気なら、後輩アナウンサーが少なからずそうしたように、民放からのスカウト話は山ほどあったに違いない。しかし、首を縦に振ることはなかった。“日本放送協会”に在籍することは、公職に奉じることであり、それを誇りとしていたらしい。“カネでつられるような男じゃないぞ”という、これも江戸っ子気質だったろうか。

NHK一筋で働き、1988年に59歳で定年退職した。そのときの最終役職は“エグゼクティブ・アナウンサー”。役員手前の理事待遇である。NHKのために寝食を惜しんで働いた結果であり、1983年から3年連続で『紅白歌合戦』の白組司会を務めた奮闘ぶりは、“NHKへの忠誠心”そのものだった。この時代の日本社会は、会社のために働くことが自分の成功に繋がるという信念一色に染まっていたのだ。この人の生き方は、そのようなモーレツぶりの典型だったろう。

1982年に出版した『気配りのすすめ』は、400万部以上の大ベストセラーとなった。これなども、この人にあやかりたいという時代の気分の反映だったのではないか。

NHK退職後には、熊本県立劇場の館長や青森県立図書館&近代文学館の館長などの“公職”を務めたが、世間の目の届く世界からは一線を画した感がある。今回の訃報が決して大きなものではなかったことは、今の現役世代には知らない人が多いという現実の反映だったろう。しかし、当人は満足だったのではないか。あまりにも脚光を浴びすぎた前半生の疲れをゆっくりと癒すことが出来たろうから。

ふと思い起こすのは、2017年に一足早く鬼籍に入った実兄の映画監督、鈴木清順氏のことである。この人は弟とは対称的な革命闘士だった。観客動員力で監督を評価する映画会社(日活)の方針に反発し、『東京流れ者』や『殺しの烙印』といった“難解な映画”を撮り続け解雇された。しかし、マニアックなファンの熱狂的支持を受け、独自の映画美学を切り開き、今や世界の映画界に大きな影響を与えている。

全く対照的な兄弟だが、どこか“自分の信念”に忠実で妥協しない一徹さは共通している気もする。そして何よりも似ているのは、兄が93歳、弟の健二氏が95歳という長寿ぶりである。ここにも、昭和のあの時代を生きた男たちの強靭ぶりを見る思いがするのだが。

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