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2010.6.20. ウェルカム礼拝の感謝

先週は、2010年の第一回ウェルカム礼拝が持たれたことを感謝します。たくさんの方々がメールやちらしなどを用いて、友人を招いてくださいました。その中には、教会に数年ぶりに戻ってきてくれた人たちの顔も見え、久しぶりだけど全然変わっていないので、うれしくなりました。

 地下室でうかがった荒井恵理也先生の話によりますと、先生は牧師家庭の5人兄弟の末っ子として生まれたそうです。教会の2階に住んでおられたそうですが、中学・高校時代は野球に燃えて、ほとんど礼拝に行くこともなく過ごしておられたようです。

 そんな時、高校生団体主催の中国ミッションツアーに参加して、中国の地下教会を訪ねたそうです。迫害の中の地下教会というイメージとは違って、クリスチャンが本当に明るく、信仰を持つことを禁止されているはずなのに、信仰に燃えて輝いて生きている姿にふれて、ショックを受けたとおっしゃっておられました。そしてその場でキリストを信じる決心をし、さらに、一般の受験をやめて神学校に行く決心をされたそうです。

 私たちの周りには、しばらく教会から離れている方々がおられます。でもたとえ、教会から離れていたとしても、神様のその方々への愛は変わりません。また、クリスチャンの方々が教会から離れているからといって、クリスチャンでなくなったわけでもありません。今まで親や教師から教えられた信仰だったのが、自分自身の信仰になるために、時間が必要な人もいるのかもしれません。

 放蕩息子の父親は、息子が帰って来たから迎えてあげたのではありませんでした。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ15:20)と書かれているように、自分から走り寄って彼を迎えたのでした。私たちも、教会から離れている方々のことを覚えて祈り、また走り寄ってお迎えすることができますように。

                                          (教育主事:杉本玲子)



2010.6.6. 代案はあるのか

  
鳩山首相が突然辞任いたしました。リーダーとして方向性を示すこともできず、周囲に振り回され、「迷走」したあげくの辞任でした。「最低でも県外」と言っておきながら、具体的な代案も交渉の道筋もなく立ち往生し、結局もとの案に戻ってきてしまった沖縄の基地問題はその典型例です。現状に対する問題意識はあったとしても、それを解決するために具体的に何をすればよいのか、どういう方向に進むべきなのかが見えていなかったことが問題なのだと思います。

   こうした状況は、政治の世界だけではありません。自分の人生において「このままではいけないんだけど」「なんとかしなければ」と漠然とした不満を持っていても、どうしてよいのかわからず、ただいつまでも鬱鬱として堂々巡りということが少なくありません。代案がないからです。

   これまで日本は経済至上主義、物質主義でやってきました。そういう世界では金を貯め、モノを集め、業績をあげることが目標でした。しかし、これから「右肩上がり」が期待できない社会の中で、それでは人の生きる方向性も、目的や喜びも、判断基準も出てきません。何かもっと本質的に人生に価値を与え、方向性を与えてくれるものが必要だと感じていながら、多くの人は何もできず、ただ現状を嘆いているだけです。

   聖書は、仕事の成功や経済的豊かさによらない心の充実、平和は神から来ることを教えています。失敗や心の内にある暗い思いからの解放、人間的能力のいかんにかかわらず有意義な人生を築いていく力も神から来ることを示しています。今多くの人たちは「神なき世界」の中で、どうしようか迷っていますが、代案があるわけではありません。しかし、代案は聖書にあるのです。

来週MCCでは、クリスチャンではない方々を対象とした「ウェルカム礼拝」を計画しています。「このままではいけないんだけど」と思いつつ、何もできないでいる方々に聖書の示す代案を知っていただく機会になればと願います。特にこれからの社会を担う青年たちに、確実な方向性を持って生きる可能性を知ってもらうチャンスにしていきましょう。

                               (主任牧師 杉本智俊) 


2010.5.9.時が来ると実がなるように

植えてから4年目にして、ようやく黄もっこうバラと赤いつるバラ(アンクルウォルター)が咲くようになったので、うれしくてたまりません。君子欄も今年初めて花が咲きました。反対に、おととしまで咲いていた鉢植えのシンビジウムは、去年も今年も全く咲かず、葉っぱばかり青々としています。植物を見ると、花が咲くことも神様の創造の奇跡であると感じます。
知り合いの方を礼拝に誘っても、何の目に見える変化も応答もなく、むなしい努力のように思えてしまうこともあるかもしれません。けれども時が来ると、花が咲いて実がなるように、時が来ると心が整えられ、神様を信じることができるように変えられていくことがおこるでしょう。知り合いを集会に誘ったり、家族に信仰の証しをしたりなど、一つ一つは本当に小さいことですが、小さなお弁当を用いて大きな奇跡を見せてくださった主が、大きなみわざを見せてくださることでしょう。6月のウェルカム礼拝のためには、伝道&ミッション委員会の方々がちらしの配信を用意してくださっています。今年はぜひ、メールを用いて、お知り合いの方々をお誘い致しましょう。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(IIテモテ4:2)(教育主事:杉本玲子)

■2010.5.2.  占い好きの社会
  今日本では、ほとんどの雑誌に占いのページがあります。テレビ番組にもよく見られるよう
になってきました。喫茶店やお酒の席でもよく話題になります。確立された
宗教は避けられるのに、どうして占いはOKなのでしょうか。そこには、何重もの意味で不健全
なものがあるように思います。
 
なかには、そんな真剣な意味でしていない、遊び感覚の人もいるでしょう。現実生
活の中でいろいろな不安を感じつつも、自分の頭で考えてもわからない、自分の意思
で全責任を負えないから何かに頼りたいわけです。でも、なぜか「宗教はこわい」の
で、もっと手軽な占いに行きます。けれども、している人も聞いている人も「遊び」
程度の占いなら、なんの根拠もないあいまいな話なので、本当の所、助けになどなら
ないはずです。そんないい加減なものを四六時中流し続け、人の感覚に影響を与える
というのはいかがなものでしょうか。
 
一方、真剣に占いにはまってしまった人の中には、さまざまな恐ろしい超常現象を
見る人たちも少なくありません。世俗社会では、霊の世界は現実でないと簡単に言い
切ってしまいますが、それでは説明のつかないことも結構あります。もしその占い
が、「ファウスト」のように悪魔や悪霊とつながっていたら、どうするのでしょう。
東南アジアなどでは、今でも悪霊つきや悪霊追い出しが日常的になされています。特
に「当たる」占いは、どうして当たるのでしょう。あまり安易に踏み込まないほうが
よい世界ではないでしょうか。
 
聖書は明確に占いを禁じています。「あなたがたのうちに自分の息子、娘に火の中
を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文
を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。こ
れらのことを行う者はみな、主に忌み嫌われるからである」(申命記18:10-12)。
 
 マスコミは「こういう時代だから、既成宗教はしっかりしろ」と言いますが、真面
目な宗教者の意見はほとんど取り上げません。一方、どんな代物がわからない占いは
平気で扱います。そこには、非常にゆがんだ世界観があります。本当の「宗教的中
立」とは、宗教について一切語らないことではなく、それぞれの意見を素直に聞くこ
とのはずです。少なくとも歴史的にそれなりの信頼を受けてきた宗教の意見を聞くこ
とのほうが、何を根拠にしているのかわからないような占いに聞くより意味があるで
しょう。正面から自分たちの問題を見ないで、お手軽(?)な解決だけを求めるよう
な社会から、早く脱却してもらいたいものだと思います。   (牧師:杉本智俊)
 

■2010.4.25.  アガペミニストリー

 

 しばらく前から心に示されていることが2つあります。一つは、経済的に行き詰っておられる方々へのケア、もう一つは、物理的に行き場のない方々へのケアです。

 最近、教会員の方から、「知り合いが家で暴力を受け、行き場がなくて困っている。一時的に教会に泊まることはできないか」と相談を受けて、「難しい」とお答えした時、本当に申し訳なく思いました。また、私の友人もお子さんの暴力のために救急車で病院に運ばれる怪我をして、逃げ場を捜していましたが、何もすることはできませんでした。

 人間的な同情や、その場限りの憐れみでは、ほとんど助けにはならないでしょう。主は、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ26:40)と語られました。また、使徒の働きには、「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」(使徒2:45)とも書かれています。フリマや給食サービス、持ち帰り自由の缶詰フードパントリー、持ち帰り自由の中古衣料クローゼットなど、地域に向けてのサービスを始める教会もボツボツ見られるようになりました。神の家族である教会が、実際に助け合っていくことのできるように具体的な知恵が与えられますように。

 2010年から、町田クリスチャンセンターでは、アガペ基金として予算を取り、アガペミニストリーに備えようとしています。主の熱心によって導かれ、主の知恵が与えられますように。(教育主事:杉本玲子)

■2010.4.18 この町には、わたしの民がたくさんいる

 

2010年度のために、すばらしい目標聖句が与えられました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。(使徒18:9-10)

 町田市の牧師会で、イースターの分かち合いをしました。多くの教会の牧師の悩みは同じです。「救われる人が少ない」「若い人がいない」「働き人がおこされない」目の前のことを見てしまうと、つい否定的になってしまう気持ちはわかります。

 ところで、イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者を救いに導きなさい」とはおっしゃいませんでした。「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言われました。救いに導いてくださるのは神様で、神様がご計画のうちにすべてを定めておられます。クリスチャンの責任は、恐れないで語り続けることです。失望しないで、やめてしまわないで語り続けるなら、やがて喜び叫びながら刈り取る収穫の時(ハーベストタイム)が与えられるでしょう。ビリー・グラハム福音クルセードでは、「効果的な伝道とは、聖霊の力によってわかりやすく福音を伝え、結果は神に委ねることである。」と教えられました。

 2009年は、クリスマスに多くの方々に福音を聞いていただくことができたことを心から感謝致します。2010年もさらに一層多くの方々に、イエス・キリストを信じて生きることのすばらしさをお伝えすることができますように。

(教育主事:杉本玲子)

■2010.3.21 終わりなき旅

 

 卒業式のシーズンです。MCCの関係者の皆さんの中でも、多くの方々が小学校、中学校、高校、大学、神学校の卒業式を迎えられました。ご卒業おめでとうございます!!卒業を迎えられた方ご本人は勿論のこと、ご家族の皆様にとっても、何よりもうれしい門出であることと思います。「いつのことだか、思い出してごらん。あんなこと、こんなこと、あったでしょう〜」この歌を聞くと、滝のように涙を流した十数年前のことを思い出します。自分の卒業式のことは、余り覚えていないのに、子どもの卒業式のことは、忘れられませんね。なぜか、感動で胸があつくなってしまいます。

 

 さて、キリストの共同体には「入学式」はあっても「卒業式」はありません。地上を離れて、天国に行ったとしても、そこから新しい永遠の時が始まるのです。そういう意味では、クリスチャンの旅は、終わりなき旅かもしれません。卒業がないということは、絶えず成長があり、前進があるはずです。栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられていくはずです。けれども、本当にそういう前進が日々見られるでしょうか?

 

 残念ながら、洗礼を受けることは入門であって、初めにしか過ぎないのに、なぜか安心して、卒業のように思ってしまうことがあります。地上での残された時を、天国への待合室で時間をつぶすように過ごしてしまうこともあるかもしれません。「洗礼を受けたばかりの頃は、すごくうれしくて、燃えていた」のように、過去形になってしまっているとしたら、すごくさびしいことです。「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按主をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(IIテモテ1:6)とパウロは若い伝道者テモテに注意をうながしました。私たちも、新しい聖霊の満たしをいただいて、新しい出発をすることができますように。

(教育主事:杉本玲子)

■2010.3.10 信仰の祭り

 

 今年もイースター(復活祭)が近づいてきました。町田市では、去年からいろいろな教会が協力して「しゅろの葉行進」を行うことにしています。イエス・キリストが十字架にかかり、救いを成就するためエルサレムに入城されたことを記念するためです。

 クリスチャンが、このように賛美を歌い、お祭りをすることは素晴らしいことです。エルサレムでは、毎年何万人というクリスチャンがオリーブ山からエルサレムまでしゅろの葉を持って賛美しつつ行進します。世界中のカトリック教会でも、しゅろの日曜の礼拝には「しゅろ(枝)の行進」がなされます。イエス様の業に感動し、ある意味興奮して主をほめたたえることこそ、本来の礼拝の姿です。ミサ「礼拝」という言葉自体、「お祭り」という意味です。

日常生活のなかで誠実に主に仕えることも大切ですが、主を心から喜んで楽しむ時も必要です。夫婦や恋人だって、いつもお決まりの生活ではなく、時にロマンティックな時があったほうがよいでしょう。クリスチャン生活も時々ときめくことが必要です。感情に振り回された信仰はいけないと言われますが、まったく感情を伴わない信仰も同じぐらい不健康です。「台湾のクリスチャンは賛美し、韓国のクリスチャンは祈るが、日本のクリスチャンは勉強する」と言われます。日本人は感情の表現が下手なのかもしれません。しかし、時には少し強制されてでも、自分たちの信仰を喜び、感動することが必要でしょう。

 賛美をする時、私たちの気持ちはイエス様のほうに向きます。詩篇の記者も「まことにわれらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。主は心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む」(146: 1, 3)と歌っています。日常生活では、仕事に追いまくられ、自分の弱さや失敗に心がふさぐかもしれませんが、礼拝をする時私たちの思いはイエス様に引き上げられます。あまりにも自分を見ている生活から、神の思いを考えるように変えられます。喜びのお祭りは、こうした解放の時です。

 特に「しゅろの日曜日」はイエス様の救いの到来を記念したお祭りです。かつて自分がどんなに無力だったのにイエス様によって変えられたのか、いかに傲慢・鈍感だったのに赦されたのか、本当に感謝をもって思い出すことができます。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架にかかるため、来てくださいました。自分の越し方、救いを覚えて行進に参加しましょう。私たちが感動してしゅろの葉を振り、賛美の歌声をあげる時、それは見る人聞く人にもイエス・キリストの救いの可能性、素晴らしさを感じてもらえるものとなります。               (牧師:杉本智俊)

■2010.2.21 冬のオリンピックに寄せて

 

 バンクーバーのオリンピック日本代表選手の出だしは好調のようで、すでに何人かの選手がメダルを獲得しています。戦いを制して勝利する選手の笑顔は最高に輝いていますが、残念ながら、全ての選手が冠とメダルを手にするわけではありません。

 コリントの町の郊外では、イスムス競技が二年ごとに開かれていました。おそらくパウロの第一回コリント滞在中に、競技大会が開かれたと考えられています。それでパウロは、人々がよく知っている競技大会の花形である競争の例から、「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい(Iコリント9:24)」と勧めています。イスムス競技の賞は、すぐ枯れてしまう松葉で編んだ冠であったと言われています。その朽ちる冠を受けるために、選手たちが10ヶ月の間、食べ物、飲み物を含めてあらゆることについて自制するならば、朽ちない冠(Iペテロ5:4)を約束されている者が、兄弟の弱さを考えて、兄弟につまずきを与えないために、偶像にささげた肉を食べる権利を放棄できないわけはない、とパウロは語っています。(Iコリント10章参照)

 パウロが必死になって戦わなければならない敵は、自分のからだ(Iコリント9:27)、すなわち自分自身のことでした。「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないため」だったのです。主は、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう(黙示録2:10)。」と七つの教会にも声をかけてくださっています。私たちの戦いは、一瞬の戦いではなく一生の戦いであり、目に見える人との戦いではなく、この世とサタン、そして自分のうちに潜む罪と肉欲との戦いです。主に従って、勝利の冠を手にすることができますように。

(教育主事:杉本玲子)

■2010.2.7. 民衆の宗教

 今年のMCC冬季聖書学校では、新潟聖書学院校長の中村敏先生をお招きして「日本教会史」を学びました。その中でわたしが特に興味をもったのは、明治期のクリスチャンたちの多くが幕府方の士族の子弟であり、非常に知的ではあったが常に反体制側にいたので、それがその後の日本の教会の流れを作ったという点です。たしかに内村鑑三、新渡戸稲造、新島襄など影響力の大きな人物が出現しましたが、彼らはみな明治政府には属していませんでした。明治政府は、新しい日本の国家の精神的支柱として「天皇制」を掲げようとし、その神格化を急いでいたので、「神の前の平等」を掲げるキリスト教は都合が悪かったのかもしれません。実際キリシタン禁令の高札が最も多く掲げられたのは、鎖国が解かれた後の慶應四年でした。

 その後の日本の教会も、東大総長を務めた矢内原忠雄をはじめとして知的には優秀でしたが、「靖国反対」「君が代・日の丸反対」「在日朝鮮人の権利を守る」等、常に反体制側に立ってきました。もちろんこれらの訴訟は、そこに問題があるからこそ起こるわけで、それぞれ意味がないわけではありません。しかし、こうした流れの中で、一般の日本人の中にクリスチャンは「自分たちとは違う人たち」というよそ者意識が生まれてきたのだとしたら残念です。

 元来、キリスト教は民衆の宗教でした。イエスは一般庶民の間で福音を語りましたし、韓国や台湾では日本の帝国支配への抵抗運動の指導的役割を果たし、一般庶民から「自分たちの宗教」と考えられています。アメリカの黒人奴隷は純粋にキリスト教を信じ、キング牧師が黒人解放を導きました。「ベルリンの壁」が崩壊したきっかけが、ライプツィヒの教会の祈祷会から始まったことは有名な話です。日本の教会も病院や福祉施設、学校を作り、社会に根を下ろしてきましたが、それでも「自分たちの宗教」ではなく「理屈っぽいことを言う変な人たち」という目で捉えられているなら悲しいことです。その目を変えてもらう努力をする必要があるのではないでしょうか。

 今、日本は不況で、職を失ったり経済的に困窮している人たちがたくさんいます。そういう人たちと寄り添う教会でありたいと思います。精神的に疲れ、鬱になったり希望を失う人たちがいます。そういう人たちの心の休み場、癒しの場でありたいと思います。結婚式やお葬式を丁寧にさせていただきたいと思います。問題を提起するだけでなく、町の楽しみを提供できる教会でありたいと思います。そういう意味で、町田中の人たちに「しゅろの葉パレード」やクリスマス・イブ礼拝を自分たちのお祭りとして楽しんでいただきたいと思います。キリスト教は、元来民衆のものですし、日本の教会も多くの人から「自分たちの宗教」と思ってもらえるようになれたらと願います。

(牧師:杉本智俊)

 


■2010.1.24.眠っている間に備えてくださる主

 

弟子たちは、イエスの最期の日の前日、食事の準備をするように命じられました。さぞ、気が重かったことでしょう。それで、「どこに準備しましょうか。」と主にたずねると、「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家にまでついて行き、…主人は、席が整っている2階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい(ルカ22:12)。」と言われました。弟子たちが全然知らない人が、既に大広間を予約して、席を整えて待ってくれているというのです。彼らにとって、何と大きな恵みだったでしょうか。

 

さて、1/19の牧師会で、韓国の昌原市の世光教会から22名のミッションチームが町田市の教会のために2/3-9まで来られることを聞きました。ミッションチームと言えば、宿泊や食事のお世話が大変で、つい尻込みしてしまいます。ところが今回は、宿泊と食事のお世話はM教会とE教会で引き受けてくださり、それでも時間があいているので、町田クリスチャンセンターでどんな奉仕でもしてくださるというのです。それで、2/5-7の奉仕をお願いしたところ、喜んで引き受けてくださいました。教会で韓国ランチや軽食を用意してくださり、賛美やダンス、ミニドラマ、証しやメッセージ、韓国の伝統舞踊などを通して、奉仕をしてくださいます。私たちは、ほとんどお客さまのように、恵みを楽しんで受け取らせていただくことができます。申し訳ないほど、感謝なお申し出だと思いました。

 

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(詩127:2)突然のお申し出ではありますが、心から主に感謝して、恵みをいただきましょう。

(教育主事:杉本玲子)

 

■2010.1.17. 日本キリスト教史から学ぶこと

1月11日に新潟聖書学院院長 中村敏先生をお迎えし、「日本キリスト教史:回顧と展望」というテーマで冬季聖書学校が開かれました。午前中は、初期の宣教師によるプロテスタント宣教の先駆的な働きについて学びました。ギュツラフ、ベッテルハイム、ヘボン夫妻、ブラウン夫妻、フルベッキらが、聖書翻訳を通し、医学を通し、教育を通し、或いは外交顧問としての働きを通し、キリスト教禁教下にあった日本において、粘り強い働きをくりひろげていった歴史は、感動的でした。

日本最初の教会「日本基督公会」は、特定の宣教団体の日本支部ではなく、無教派主義に立っていたという特徴も学びました。また、最初のクリスチャンが士族中心で、信仰が知的に偏重していた結果、日本の教会が学ぶ教会としての長所はあるが、一般大衆に浸透しにくい傾向があり、生活面に根ざすのが困難であることを指摘されました。一方では、クリスチャンが主導した禁酒禁煙運動、廃娼運動、一夫一婦制への貢献を通して、高い倫理観・道徳意識がよい証として用いられたことも学びました。さらに、明治維新、太平洋戦争敗戦という歴史的変化を経ても、世間体を気にするという日本人の精神構造が変わらず、結果として、世間が個人を拘束し、人々は時流に過敏に反応して引きずられていくという日本人独特の精神構造の特徴も教えられました。

今日もまた、教育の右傾化、経済危機など、不安な状況の中におかれています。私たちは、クリスチャンとして生きることのすばらしさを、周りに目に見える形で示し、信仰を天国まで守り続けていく使命があります。そして、周囲と比較して低いセルフイメージに甘んじるのでなく、「我ここに立つ」と聖書に基づいて、地の塩、世の光としての使命を全うしていく責任があるのではないでしょうか。

(冬季聖書学校 要旨)

 




■2010.1.3 30周年の感謝を超えて


 2010年、新しい年の幕開けを迎えました。主は、今年はどのようなことをしてくださるのでしょうか。

思えば、半年前には、30周年プロジェクトとして主の栄光が表されるようなクリスマス会を持ちたいという願いだけで、具体的な計画は何もありませんでした。主が場所を備え、時を備え、内容を備え、奉仕者を備え、おいでくださるゲストの方々を備えてくださいました。列を作って並んでくださった大勢の方々を見た時も、「主は私たちのために大いなることをなされた」と圧倒されるような思いでした。ゲストの方々からも「心がふるえるほど感動した」「本当に主に祝福されている教会ですね」「MCCの底力を感じた」などのことばを頂戴し、励まされました。

まさに詩篇126:1[私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた」]と書かれていることばが実現していったのを見せていただきました。

ところで、2010年は、どこに向かって進むのでしょうか。イザヤ書には、次のようなみことばが約束されています。

 

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ30:15)

 

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く(イザヤ30:21)

 

一年の初めにあたって、まず、静まって祈り、神様からの語りかけに耳を傾けましょう。神様から与えられるビジョンを受け止め、ビジョンに応答してまいりましょう。                                             (教育主事 杉本玲子)

■2009.12.6 地域の方々にオープンな教会

 

 先々週から先週にかけては、色々なイベントがあり、多くの方々が初めて教会においでくださいました。11/27のふれあいコンサート、S姉の主催するカナリヤの会の方々を中心に、ショッパーを見て来会された方など合わせて、30名以上の方々がお見えになりました。地下では、サラの会の方々がコーヒーをお出ししながら、声をかけてくださり、29日の礼拝に続けておいでくださった方もおられました。28日は、ジョイキッズ、フラワーキャンドル作りにちょうど祈っていたとおり10人の子どもたちが来てくれました。新しい友だちも含め、みんなで楽しい時を持つことができました。そして、29日は、感謝祭の礼拝とパーティー、過去最大の70人以上の参加者をお迎えし、多くの方々が水をくんだ手伝いの者(ヨハネ2:9)のようにテーブルを整え、料理を用意してくださいました。近くの八百屋、「銀次郎」のおじさんもおいでくださり、日頃の感謝をお伝えすることができました。1日は、パッチワークの今年最後の集会、H姉のお母さんと中国から来られているSさんを迎え、和気合い合いと作品作り&軽食の時が持たれました。5日はキッズクリスマス会、みらくるのメンバー・スタッフも合わせ、合わせて50数名の子どもたち、保護者の方々が参加されました。このように教会が生き生きと躍動的に活動できるのは、本当に驚くべき主のみわざの現れであると思います。

 

 2日には、上野兄が只見の教会の様子を話してくださいました。29日に、昔教会に行っておられた大人の方が初めて教会を訪ねて来られたこと、新たに2名の小学生が加えられたことなど、感謝の報告でした。

 

 厳しい世の中で、伝道は難しい…とも言われますが、主のみわざを見ることができることはなんと感動的なことでしょう。12月12日のメサイアコンサートにおいて、みんなで神様の奇跡をご一緒に体験いたしましょう。

 

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。(イザヤ52:7)    (教育主事:杉本玲子)

■2009.11.1 子どもたちをわたしのところに

 「イエス様はどのように子どもたちに語られたのだろうか?」と思うことがあります。不思議なことに聖書には、イエス様が子どもたちに対して直接に語られたことばは、ほとんど残されていません。マルコ5:41「タリタ・クミ(少女よ。あなたに言う。起きなさい)」くらいではないでしょうか。

けれども、イエス様が子どもたちになさった行ないについては、多く書かれています。「イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は、立ち上がった。」(マルコ9:27) 「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。」(マルコ9:36) 「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:16

イエス様は、食事をとられる時間がないほど、家族と過ごす時間がないほどお忙しい中、子どもたちの手を取り、子どもたちを抱き寄せ、子どもたちの上に手を置いて祝福する時間を優先して取られました。そして、そばにいる弟子たちに、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことにあなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ10:14-15)と言って戒められました。

 町田クリスチャンセンターは、みんなが一つの大きな家族として、子どもを育てられる教会を目指しています。両親だけでかかえこまないで、子どもたちを教会に連れて来ましょう。みんなで子どもたちの祝福を(成人している子どもたちのためにも)祈りましょう。そして、年齢が進んでも、子どものように純粋に主に従う者に、変えられていくことができますように。

(教育主事:杉本玲子)

■2009.10.18. みんなで笑いあえる教会

主が 町田クリスチャンセンターを 前のように喜びに満たしてくださった時、

私たちは 夢を見ている者のようでした。

 

そのとき、私たちの口は 笑いで満たされ、

私たちの舌は 喜びの叫びで満たされました。

 

その時、近くで見ていた人々は驚きました。

「主は、MCCのために大いなることをしてくださった」

 

主は町田クリスチャンセンターのために 大いなることをなされ、

私たちは 喜び、感激しました。

 

主よ。いのちの水の川から 豊かに水があふれるように

私たちの心から、絶えず、喜びと感謝と笑いがあふれますように。

 

涙とともに種を蒔く者は

喜び叫びながら 刈り取るのですね。

 

種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、

束をかかえ、喜び叫びながら帰って来るのですね。

 

       ですから、主よ。私たちは、ここで立ち止まりません。

       全世界に向かって、出て行きます。

       あなたが世の終わりまで、私たちとともにいてくださるのですから。

                
(詩篇126編 町田クリスチャンセンター訳2009, 10/18


2009.20. たしかな将来

先週突然でしたが、バイリンガル礼拝の中で私たち夫婦のMCC着任20周年のお祝いをしていただきました。神戸出身の私は三の宮の瓦せんべい、家内は、ゴディヴァのチョコレートをいただきました。少し差があるとは思いましたが、こうした教会の方々の好意によって自分たちの働きが支えられてきたことをうれしく思いました。

私は大学時代にクリスチャンになり、牧師になる決心をしました。それまで何をしてもうまくいかず、自分がどうしたらよいのかさえわからず、気力を失っていたのに、イエス・キリストを信じてからはっきり自分の人生が変わり、神によって道が開かれていくことを体験したからです。ぜひ自分の周りの人にも、そういう可能性を知ってもらいたいと思いました。神学校などの訓練期間をいれると、もうそれから30年になります。

今、日本の社会もかつての私と同じ様なところにいるのではないかと感じます。先日の選挙で民主党が大勝しましたが、何かこのままではいけない。何かが変わらなければいけない、という多くの人の思いが表れていたように思います。しかし、政党が変わったからといって、社会のすべてが変わるわけではありません。郵政民営化の是非や高速道路無料化の是非も大事な議題でしょうが、結局自分たちはどういう国をつくり、何を基本に生きていくのかが見えてこないところに今の課題があるのではないでしょうか。それは、政治の問題ではなく、私たちがいきる根本的な価値観を失ったことが問題なのです。私は、多くの日本人が自分を生かしてくれる神を再発見してほしいと願っています。

 私たちは着任20年を機に、もう一度原点に返り、福音の素晴らしさを語っていきたいと願っています。教会自体も、今年は創設30周年を迎えました。これからクリスマスまで記念行事がたくさん予定されています。10月18日の記念礼拝、記念誌の発行、市民ホールで行われるクリスマス・メサイア・コンサート(12/12)、劇や讃美を中心とした大型のイブ礼拝、201号室を改造して聖書研究センター(図書館、ビデオライブラリー、博物館)にする計画などが動いています。単にこれらを記念行事で終わらせてしまうことなく、次の時代に向けてイエス・キリストの福音を示す積極的な機会にさせていただきたいと願います。                                   (牧師:杉本智俊)

                               
■2009.8.16 真夏の庭仕事


夏になると決まってしなければならない4つの庭仕事があります。炎天下、始めるまでが億劫でしかたありません。一つ目は水遣り。植木鉢に植わっている植物を、何鉢、干からびさせてしまったことでしょう。二つ目は、草取り。雑草は目を覆いたくなるほど暴力的に伸び拡がって、大切に育てている植物が隠れるほどになっています。三番目は、木の剪定。お隣との境に植わっている木の枝が、伸び伸びと枝をひろげ、地境を軽く越えています。放置しておいてはいけないレベルを超えてしまうと、お隣と目を合わせられなくなります。そして四番目は、秋の花に備えての追肥。これは、将来の楽しみにつながる楽しい作業です。

 

  ところで、聖書にも、農作業についてのたとえがたくさん語られています。

● わたしが植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(コリントT3:6)

● 毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。(マタイ13:40)

● わたしの枝で身を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:2)

● 「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」(ルカ13:8-9)

 

霊的な収穫のためには、種まく人が必要です。たくさんの庭仕事もありますし、収穫する人も必要です。私たちも主のための働き人として豊かに用いられますように。

 

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(マタイ9:37-38)                                   (教育主事:杉本玲子)


■2009.8.2. 奉仕の喜び

 

今回のキャンプで、「奉仕の喜びとは何か」ということを考えさせられました。その時、頭に浮かんできたのが「カナの婚礼」の箇所です。カナの婚礼で一番喜んでいる人は誰でしょうか。新郎・新婦はもちろん、両親でしょうか。弟子たちもここでイエス様に対する確信が与えられました。しかし、私は「水を汲んだ手伝いの人たちは知っていた。」ヨハネ2:9という言葉に感動を覚えるのです。水がぶどう酒に変わったことを知っているのは、この宴会の主役ではない彼らでした。神様の働きを見る事が出来た、知ることが出来た彼らが一番喜びを感じていたのではないか、と私は思ったのです。

 なぜ、彼らは神様の業を見る事が出来たのでしょうか。

T.彼らがその場所にいたからです。

  イエス様が弟子たちを訓練した方法は共にいることでした。私の信仰は安定していたとは言えませんがこの30年間、神様がおられる場所にいれたことは祝福でした。今回のキャンプでも水がぶどう酒に変えられた瞬間を見ることが出来ました。最後の賛美集会の時、神様がキャンプの準備の段階から今まで共にいて下さったことを賛美の中で、参加した人たちの証の中で確信することが出来ました。中道先生の語られた3つのメッセージが最後の集会で一つになりました。このことだけで私は喜びでいっぱいになりました。

U.彼らが頼まれたからです。

  奉仕をしていると葛藤があります。うまく行かないな、と思う時があります。疲れてしまう時もあります。今回キャンプの奉仕をしていて、不安になることがありました。カナの婚礼で「水がめに水を満たしなさい」という仕事は大変だったと思います。彼らは、その意味が分からなかったでしょう。でも、彼らは頼まれました。それが祝福に繋がりました。私も奉仕を頼まれました。大変だなと思う時があります。しかし、そのことによってより神様のことがわかるようになりました。

V.おこなったからです。

  「水がめに水を満たしなさい」という言葉に「彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」

  と聖書に書いてあります。見ていたヨハネは「縁までいっぱいにした」彼らの行動に感動したのでしょう。私たちが神様の言葉に従って生きる時、見ている人たちに感動を与えるのではないでしょうか。それによって、喜びを共有出来ると思います。今回キャンプではたくさんの兄弟姉妹が奉仕をして下さり、水がめを縁までいっぱいにすることが出来ました。それを見た私は喜びで満たされました。

 

イエス様に留まりましょう。イエス様が使命を与えていることを知りましょう。そして、行動しましょう(水を水がめにいっぱいにしましょう)その時、クリスチャンとしての喜びが縁までいっぱいになるのではないでしょうか。

                                      市川 猛



■2009.7.26 MCCサマーキャンプ  『祝福の信仰』

 

・・・・・主日礼拝聖句・・・・・

■詩篇67篇1節
「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」

■サムエル記下7章29節
「どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。」 


■2009.7.19 初めまして―キリストにある兄弟姉妹の皆様へ

私は、JEMSから第一期目の宣教師として遣わされているゲール・グティエレズです。出身はカリフォルニアです。私はバプテスト教会出身で、29歳でクリスチャンになりました。サンフランシスコ州立大学で家庭科を専攻し(修士)、カリフォルニア州の教員免許を持っています。5年前に退職しました。

私が宣教に興味を持ったきっかけは、地域教会の「キリストに従う人生の転換」セミナーに参加したことです。その後、「世界的クリスチャン運動の視点」コースを終え、クラスの課題として日本を選びました。2008年、神様が私を日本に導いてくださっているのを感じました。私が神の導きに従った時、主は私を導いて町田クリスチャンセンターへの道を開いてくださいました。私の願いは、町田クリスチャンセンターの伝道的なミニストリーの一部として、人々が真に献身してキリストの実を結ぶお手伝いをすることです。

MCCで奉仕したいことは、次の3つのことです。

1)     英語クラスとチャペルタイムを通して、人々をキリストに導くこと

2)     教会外で友だちをつくって、その方々を礼拝に誘うこと

3)     伝道の一環として、婦人のパッチワークミニストリーを始めること

私が母教会と共に祈っている目標は、50人の方々をキリストに導くこと、そしてバイリンガル礼拝の通常の出席数が少なくても50人に増えることです。

 次の祈りの課題を覚えて祈っていただければ幸いです。

1)     しもべとしての心をいつも持ち続けること

2)     主が用意してくださった働きをどのようにするか、神様が知恵と決断を与えてくださるように。また 奉仕する方々の心を開いてくださいますように。

3)     日本の何百何千の方々が、使徒16:34の看守のように「全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」となりますように。

もう1つの祈りの課題は、たくさんの日本人学生を教えている大学の英語教師とコンタクトを持つことができるように、ということです。個人的なことですが、私の息子と家族は相模大野に住んでいます。          

 (宣教師 ゲール・グティエレズ)


■2009.7.5 プロテスタント宣教150周年、MCC創設30周年に思う

 

 今年はプロテスタント宣教150周年にあたり、今週には大きな記念大会も予定されています。しかし、この間日本の教会が「地の塩、世の光」として役割を果たしてきたかを考えると、暗澹たる気持ちにならざるをえません。

 歴史的には内村鑑三、新渡戸稲造、三浦綾子など社会にキリスト教の姿勢を発信した人も出ましたが、現状の教会はほとんど存在感がありません。たしかにエレミヤの時代にもパウロの時代にも、そしてイエス自身の時代にも、聖書の福音は社会の大勢とは異なるため大きな反発を招きましたが、その存在には目を見張るものがありました。しかし、今町に出ても教会堂は方隅のほうの目立たないものがほとんどです。クリスチャンの姿勢を代弁するような人物もあまり見当たりません。本屋では、「キリスト教の常識を打ち破る」ような新説、珍説はいっぱい並んでいますが、歴史的にクリスチャンたちが信じてきた正統的な信仰を紹介するような本はほとんどありません。現代社会に合った形で福音を語ることは大切ですが、それに飲み込まれ、なんら社会と違うものを提供できないなら教会の意味は何でしょう。

キリスト教系の学校や福祉施設、援助団体も、建学や創設の精神はどこにいったのかと思わさせられることがしばしばです。クリスチャンが教育や福祉に取り組むこと自体は大切なことですが、元来キリスト教は社会制度や人間的努力による救いには限界があるからこそ、神との関係を回復することに基礎があったはずです。しかし、そうした福音が語られず、人の力を越えた神の愛に基づいていないなら、一般社会が提供するものと何が違うのでしょう。

根本問題は、信仰を感じさせるクリスチャン、つまりキリストによる救いの喜び、神と共に生きる喜び、神に仕える感動を見せられるクリスチャンがいないことです。今社会には希望を失い、自分をどうしてよいかもてあましている人がたくさんいるのに、そこにクリスチャンが救いの可能性を見せられないなら、意味がありません。

MCCも創設30周年を迎えました。ゼロから始まった教会を神は百数十人の群れにし、4つの娘教会を生み出し、自前の教会堂を持つまで導いてくださいました。そのことは、神のあわれみです。しかし、今MCCが十分「地の塩、世の光」としての役割を果たしているかを問われると、やはり反省すべき点が多いのではないかと思います。教会をただ維持するだけでなく、周りの社会に福音の可能性を示すことに成功しているでしょうか。多くの人にとって人生のオプションとしてのキリスト教を見せる具体的行為をしているでしょうか。自分自身が生活に疲れ、「初めの愛」から落ちてしまっていないでしょうか。豊かな信仰生活の喜びに自分自身が感動しているでしょうか。30周年を機に、私たちも自分たちの信仰を見直し、「地の塩、世の光」たる役割を果たせるよう、新たに信仰の原点を握っていきたいと思います。   (主任牧師:杉本智俊)


■2009.6.28   プロテスタント宣教150周年

 
 
1853年、浦賀沖に4隻の黒船が来航、日本に対して開国を迫ったことがプロテスタント宣教開始の契機となりました。1859年、横浜、長崎、函館などが開港されたことをきっかけとし、日本伝道のビジョンが掲げられ、多くの宣教師が日本に派遣されました。1864年、ヘボンの診療所(横浜居留地39番)にて、6月の第一日曜日に「第一日曜学校」と呼ばれる日本最初の日曜学校が開かれました。1873年に切支丹禁令の高札が撤去されるまでの15年間は、もっぱら宣教師宅で英語塾が開かれ、外国人の子ども、ついで居留地関係者、及びその学校に通う日本人子女を対象として日曜学校と称されるバイブルクラスが開かれていきました。禁止令が撤廃されると最初の教会が設立され(1872年横浜海岸教会設立)、70年代の後半には、地域の子どもたちを集めてなされる日曜学校が誕生しました。キリスト教主義学校の多くがこの時期に創立され、日曜学校を母体とした教会の設立も相次ぎました。こうして見ると、日本宣教の初めから、英語伝道と日曜学校、ミッションスクールが地域伝道の鍵であったことがわかります。

 

  町田クリスチャンセンターでも、6月24日から、ゲール先生の英会話クラスが新しく始まりました。7月1日からは、新しいクラスもスタートし、本格的に英会話伝道が始まります。7月11日には、キッズをターゲットとした「夏祭り」が実施されます。150年間、変わらない宣教の炎が脈々と流れていることを感じます。

 

  おりしも7月8-9日には、開港の地、横浜でプロテスタント宣教150周年記念大会(パシフィコ横浜)(7/8 17:00-21:00、7/9 10:00-11:30、13:30-17:30)が開催されます。日本キリスト教協議会、日本福音同盟、日本リバイバル同盟が協力して開催する節目となる記念大会です。8日の夜は、MCCの祈祷会も合流しますので、ぜひ、ご参加ください。参加するためには、チケット(1ブロック1000円)が必要です。伝道委員会、または事務所まで至急、お申し込みください。        (教育主事 杉本玲子)                                       


■2009.6.21  開かれた心


『ダヴィンチ・コード』の続編の映画『天使と悪魔』が封切られました。前作は「ヴァチカンに対する根拠のない誹謗中傷だ」という批判が強かったせいか、今作はだいぶソフトな仕上がりになっています。しかし、それでもこの映画が科学の成果を認めようとしない教会(宗教)と科学を何物にも優先する科学者たちの対立を描いたものであることは変わりません。

 

   たしかにキリスト教会は、ガリレオの裁判に見られるように、時に信仰(といっても、その時代の一部の人たちが固執している教理)を守るために、科学や合理主義的思想を排して愚かな間違いをしてきました。もちろんクリスチャンたちが自分たちの信仰に確信を持つことは当然ですが、同時に自分たちも有限な人間として完全な信仰理解に立っていないという謙虚さと新たに明らかにされつつある真理に心を開いている必要があるでしょう。

 

   一方、合理主義や科学を当然の基礎として歩んできた近代社会も、ほころびがあちらこちらに見えています。『天使と悪魔』でも、倫理的に問題がありそうな分野の実験に自分たちの名誉欲のために踏み込んでしまう科学者たちとそれを制御する科学者たちの葛藤が描かれています。たしかに科学は多くの真理を明らかにしましたが、問題も同時に作り出してきました。核戦争の脅威、公害から生まれた環境破壊、遺伝子操作の危うさ等、科学は人間の生活を便利にしてきましたが、その欲望をコントロールするには無力であることも露呈してきました。資本主義も共産主義もそれぞれ不完全な制度であることがあきらかになりつつあり、郵政が民営化されようとされまいと、そんなことで私たちの生き方が変わるわけでないことを我々は知っています。実際日本では多くの人たちが自分たちの生活に自信を失い、精神的な病気になる人も少なくなく、年間3万人もの人々が自殺をしているのです。

 

   人間が一生懸命考え、科学が発達し、よい制度を作れば、かならずよい世界が生まれてくるという合理主義的な価値観はもう成り立ちません。今、世界のあちこちで宗教が見直されているのはそのためです。科学は便利な社会を生み出すことはできても、愛や正義、平和を生み出すことはできません。人の考える基礎や生きる目的、欲望や怒り、絶望をコントロールする力を提供しません。しかし、人間が本当に幸せを感じて生きるために必要なものはそういうものです。社会や学問は変わります。しかし、人を活かす基礎は、有限な人間を越えたところから来るのです。

 

  本日は、初夏のウェルカム礼拝ですが、ぜひ聖書の語るメッセージに心を開いて耳を傾けていただけたらと願います。 (主任牧師 杉本智俊)                            


■2009.6.6 「ゲノムと聖書」
 
 ゴールデン・ウィークの間にフランシス・コリンズという方の書いた『ゲノムと聖書』(NTT出版)を読みました。 フランシス・コリンズは、最近よくニュースに出てくる国際ヒトゲノム計画の代表をつい最近まで務めていた遺伝学者で、この本もハーバード大学のノーブル講義に基づいたものです。同時にコリンズは熱心なクリスチャンで、第一線の科学者であることとキリスト者であることがどう矛盾せず統合されているのかを、本書は実に平易に興味深く記しています。 

ともすると、科学的世界観と宗教的世界観は相容れないものであるかのように受け取られることも少なくありません。しかし、本書は、そのほとんどはお互いのことをよく知らないためであり、極端に無神論的でジャーナリスティックな科学者や信仰を守るため(?)に過激な意見を主張する信仰者が互いを罵りあっているためであることをよく描き出しています。実際、すべてのクリスチャンが科学を否定しているわけでもなければ、すべての科学者が無神論者なわけでもありません。いや、むしろ神を信じる科学者はかなり多いのです。クリスチャンの中には「創造科学」なるものを主張し、現在の地球の年齢は世界中の科学者が考えているよりもはるかに若いものであり、現在の科学者たちの考える世界観はまったく間違っていると主張する人たちもいます。しかし、世界中のいろいろな立場に立つ科学者たち、それぞれ非常に厳しい学的競争と批判の中に生きている人たちの立場をそんなに簡単に否定してしまうことは本当に健全なのでしょうか。逆に、世界一の科学大国アメリカでは今でも93%の人々が神を信じるとしており、コリンズのような研究者も少なくありません。それをただ単に「アメリカは宗教的な国だから」と冷ややかに見、キリスト教信仰は頑迷な非論理的な人々のものと決めつけてしまってよいのでしょうか。

コリンズは一般的な科学的世界観をそのまま受け入れ、その中に不思議な美しさ、単なる偶然ではありえない世界の存在を自分がいかに見出し、神とその創造を考えざるを得なくなったのかを非常にわかりやすく示しています。もし聖書も科学も真実なら、そこに矛盾は生じないはずです。もともとキリスト教は、聖書啓示と一般啓示のふたつの神を知る道を考えてきました。今の自然科学は後者から発達したのです。このふたつの道が、現在の科学の最先端でどう結びつくのかを知る上で本書はとても興味深い書です。 本書は、いわゆるキリスト教書ではありません。一般の出版社から出されたもので、信仰があろうとなかろうと誰にでもわかりやすく書かれています。クリスチャンたちが自分たちの信仰の殻に籠もって信仰と科学を別物と考えることがないように、また信仰は科学にとって害悪であるかのように考える思い込みが払拭されるように、本書が広く読まれることを期待します。

(主任牧師 杉本智俊)  

■2009.5.10  教会で主に仕える祝福

 2009年度の教会役員が、先日の教会総会において任命されました。これから1年教会運営をよろしくお願いいたします。

使徒パウロは「『人がもし監督(教会の教職)の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである』ということばは真実です」(Tテモテ3:1)と語っています。事実、神と人に直接仕える役割を担うことができることは、だれにでも与えられているチャンスではなく、すばらしい特権であり栄誉です。

 

 日本では、キリスト教に限らず、仏教でも神道でもその教職につくことはけっして社会的に高く評価されているとはいえません。日本人の宗教アレルギーが関係しているのかもしれませんが、なにかいかがわしい職業のように見下げる人も少なくありません。私自身、自分が牧師としての名刺を出した時には「は〜ん」というような話し方をしていた人が、大学教授の名刺を出したとたんに態度を変えるということを何度も経験しました。

しかし、世界では必ずしもそうではありません。お隣りの韓国では、女性が結婚したい相手の職業第一位は医者や弁護士を抜いて牧師なのだそうです。いかに牧師が社会的に信用されているかがわかります。李明博大統領が教会の長老になりたくて、何年も教会の駐車場係をしたことはよく知られています。欧米では、医者や弁護士とともに牧師は神からの召命に直接答える仕事としてprofessionとみなされ尊敬されてきました。大学の卒業式では、すべての学位の一番最後に神学博士号が授与されます。最高の学問と考えられてきたからです。

 

 もちろん教会役員や教職は、社会的名誉のためにするものではありません。純粋に神の働きを自分がにない周囲の人たちの必要に答える場として奉仕するものです。しかし、同時にあまりに牧師や役員(長老)の立場を軽んじるのも不健全だと思います。むしろ役員に選ばれた方々は、多くの信徒から信頼されその役割を託され、神の意志にしたがって教会運営を行うことになったのですから、その責務を誇りと責任をもってまっとうしていただきたいものです。

 

 最近日本の神学校では、若い献身者が非常に少ないと言われています。クリスチャンでも、自分が安定した収入を得ることや社会的に評価されることのほうが大事だと考える傾向があるのかもしれません。しかし、直接神の働きを担い、現実の人々の間でどのようにその意志を実現していけばよいか考えながら奉仕できることは、すばらしい祝福です。自分の一生涯を明確な目的のために用いることができます。ある意味、究極の自己実現です。生活の不安や人々の白い目があるかもしれません。しかし、神は必ず献身する者を守ってれますし、本当に神に仕えている人を人々はいずれ尊敬信頼するようになります。若い方々にも、どうしたら自分の生涯を主の働きのため献げて生きることができるのか、ぜひ積極的に模索していただきたいと願います。

(主任牧師:杉本智俊)

■2009.4.19  死に方上手


 「生きかた上手」という本を読まれたことのある方もいらっしゃると思います。現在でも97歳にして現役でご活躍されている聖路加病院理事長の日野原重明先生が、2001年12月に出版され、既に100万冊以上売れているベストセラーです。その日野原先生は、最初「生き方上手」という題でなく、「死に方上手」というタイトルで本を書かれたことをうかがいました。ところが出版社が難色を示したので、やむなくタイトルを変更されたそうです。死をタブー視し、死から目をそらそうとする日本ならではのエピソードだと思いました。

 ところで、日野原先生のポイントは、まさしく「生き方上手であるための条件は、死に方上手であること」という点でありました。スイスの精神科医ポール・トゥルニエは、著書「老いの意味」の中で、「もし私の老いに何らかの意味があるとしたら、そして後ろ向きにならず、やはり前を見つめたままで私が老年を生きうるとしたら、それは私が死の彼方へ向かって歩んでいるからにほかなりません。」と語っています。

 聖書ははっきりと、死は終わりではなく、神と共にある天国への入り口、永遠の生の中の通過点である、と言い切ります。神を信じている人は、神の国が完成する時、からだをもって復活することができる希望があります。また、死んで天国にいくのではなく、永遠の生はすでにこの世において始まっていると言えます。「死が近づくにつれて、私のこんなすばらしい安堵感は、やはりその教説よりは、私をイエス・キリストという人格に結びつけている深い絆に基づいていることを感じます。私はひとりぼっちで死に面しているのではない。自らもまた死に直面したイエスとともにあるのだと感じるのです。」とトゥルニエはまとめています。

 主イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われました。私たちもまた、復活の証人として用いられますように。                   
(教育主事:杉本玲子)
                                                   

■2009.3.15. 燃え尽きることのない宣教スピリット

5年以上も町田に住み、協力宣教師としてご奉仕してくださったポール&ノーマ先生が、4月15日にアルバニアに向かって旅立たれることになりました。予定より4ヶ月ほど早い出発ということもあり、さみしさで一杯です。初めてこのニュースを聞いたタイ人の姉妹が「さみしくなるね」と涙ぐんでおられましたが、「アルバニアは、ヨーロッパの北朝鮮のような国。もと共産主義の政権で、クリスチャンは0.1%もいなかったのに、今は活動が自由になって、コソボにもミッションツアーで行けるの。自分たちはMCCの手足となって先に行くだけだから、いつでも遊びに来てね」と喜んでおられる先生方を拝見し、燃え尽きることのない宣教のスピリットを感じました。

ポール先生はインドで宣教師のご家庭に生まれ、アメリカで教育を受けられましたが、その後ネパール、タイ、日本でテントメーカーとして奉仕されました。特にネパールの孤児院の子どもたちに重荷を持って、たくさんの洋服をスーツケースに詰め込んで、何度も孤児院を訪問される姿に感動を与えられました。去年は、MCC最初のミッションチームをネパールに連れて行ってくださり、忘れられない思い出を残してくださいました。その他、ポール&ノーマ先生は、バイリンガル礼拝、英語で聖書を読む会、英語スクール、学生会、赤ちゃんクラス、ジョイキッズ、ホープチャーチの子どもクラスなどで、またお掃除や鍵の開け閉めまで、本当に真実に忠実に仕えてくださいました。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)

私たちは、どうしても落ち着いて安定することを求めてしまいます。地上では旅人である私たちが、目的地を仰ぎながら前進することができますように。

(教育主事:杉本玲子)

■2009.2.15  ‘Change’を起こすのは誰か

 「Change(変革)」を合言葉に掲げてきたバラク・オバマ氏が、第44代アメリカ大統領に就任しました。たしかに今のアメリカには、変革が必要なことが多くあります。深刻な経済不況、医療保険の立て直し、失墜したアメリカへの信頼の回復など急務でしょう。多くのアメリカ人が彼の変革に期待をかけるのも当然だと思います。しかし、今世界が直面している問題は、ほんとうに一人の政治家が変えられるような問題なのでしょうか。

 たしかに大きな政府か小さな政府か、税金制度や保険制度をどう変えるかも重要な課題です。しかし、今世界はもっと根本的な問題、生き方の方向性を失い、考え方の基礎を失ってしまったことで行き詰ってしまっているのではないでしょうか。どういう社会を築き、どういう人生をめざしたらよいのか、わからなくなっているのです。「ポスト・モダン」と言われてもう何十年もたちますが、いまだにモダン(近代)の後どこに行ったらよいのかわからないので「ポスト・モダン(近代の次)」のままなのです。

 ポスト・モダン社会は、基本的に実存主義です。神も合理的理性も信じず、個人個人の感覚による決断だけが考え方の基礎となりました。なんの理想もないし、真理や正義の基準もありません。だから、「誰でもよかった」と人を殺し、むきだしのエゴそのままのクレーマーが出てきます。「自由」と言いながら、実際には不法メールやいじめメールに打つ手もなく、町中に監視カメラをつけないといけない社会になってしまいました。そこには「神様が見ている」という恐れなどありません。みなそれぞれの気分ですから、本当の意味で人を理解することなどないし、愛も自己中心です。人生はただ流れているだけで、一瞬自己実現できたかと思っても、次に瞬間にはまた虚しさに戻るのです。閉塞感に陥るのは当然です。

 なんと悲しい現実でしょう。ローマ書1:22は「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」と言っていますが、それが我々の社会の現実です。こうした問題は、本当に大統領一人で変わるのでしょうか。そんなことはありません。今必要なのは、多くの人の心を覆っている虚無感、無力感、失望を打破する力です。それは、どんなに優秀でも人間にはできないことです。人を造り変えることができるのは、ただ神であるイエス様だけです。実際イエス様は、これまでの歴史で多くの病気の者、貧しい者、犯罪者でさえ作り変え、用いてきてくださいました。今回アフリカ系の大統領が生まれたのだって、キング牧師をはじめとするクリスチャンたちの祈りの結果です。

 オバマ氏はアメリカを変革するために立ちあがりました。それも必要なことです。しかし、クリスチャンたちはこの社会の病んでいる所、もっと根本的な所で方向性を見失っている人々に神の希望を見せる使命があるのではないでしょうか。稀代の革命家として知られるチェ・ゲバラはこう言いました。「真の革命家は偉大な愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛のない真の革命家を想像することは不可能だ。」今、私たちは悲惨な状況にある人々に対する悲しみや愛を持っているでしょうか。なんとか彼らがイエス様を発見し、そういう状況から脱出できるよう変革を起こしていく者にさせていただこうではありませんか。

(主任牧師:杉本智俊)

■2009.2.8  「しゅろの葉パレード」の感動

 
 私は2年前サバティカルをいただき、一年間充電期間として聖地イスラエルに滞在させていただきました。いろいろなことを体験し、刺激を受けて帰ってきましたが、その中でもっとも感動したもののひとつが「しゅろの葉パレード」(彼らの伝統では「枝の行進」というようです)でした。

イースターの前週の日曜日、イエス様が十字架にかかられるためエルサレムに入城されたことを記念して、みながしゅろの葉を持ち、賛美しながら歩くのです。しゅろの葉といっても、日本のしゅろではなく「なつめやし」なので、葉っぱも1m以上あるような大きなものです。ロバの子を調達されたベテパゲ村から出発し、オリーブ山を下り、エルサレムのドロローサの道(聖アンナ教会)まで行進します。先頭には十字架を掲げた若い神父が歩き、その後をそれぞれ教会ごとのチームがギターを掻き鳴らしたり、旗を揚げたりして歩いてきます。子供達もボーイスカウトごとに参加します。それこそパレスチナ人クリスチャン・コミュニティ総出のお祭りとなりますが、それに世界中から来たクリスチャンが加わり、総勢3万人ぐらいの群衆となります。その人たちが狭い路地を賛美し、しゅろの葉を振りながら歩いてくる様は壮観です。  

よく調べてみると、こういうお祭りは世界各地の教会でなされていることがわかりました。MCCの人たちがかつていたネパールやオーストラリアの教会でもしていた所があるようですし、町田のカトリック教会でも小規模ですが毎年しているそうです。私は、ぜひこの「祭り」を町田の教会でも取り入れて、町の伝統行事にしていくことができたらと願っています。

クリスチャンにとってイースターは最大のお祭りのはずですが、実際にはクリスマスほど焦点があてられず、心に残らないものになってしまっています。そういった現状を打破し、クリスチャンがイエス様の十字架と復活を心から喜び、感謝を表す行事があってもよいのではないかと思います。また、最近はいろいろ街おこしの一環として新しい「お祭り」が創造されますが、その主催者と何の関係もないようなサンバやお神輿を無理やり取り込んだものが多く見られます。そうした人工的な祭りではなく、こころからその祭りの意義を喜べる祭りを造ることは大切だと思います。特にこの「しゅろの葉パレード」は新奇な祭りではなく、伝統的にキリスト教会でなされてきたものですから、教会が行うのにふさわしいものです。また、このような行進は、町田市中の教会が協力し、市民の方々に教会の存在を知ってもらうよい機会にもなります。ぜひこの祭りがこの地域の人に愛され、多くの人が楽しみに参加できるようなものへと育っていってくれたらと願っています。

(主任牧師:杉本智俊)

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