大津あきらさんのこの曲は名曲である。1984年発表からいったい何回聞いてきたのだろう。
しかし、ひとえに私の人間性の薄さが原因して、その奥深さに気づいたのはつい最近のことである。

この曲のモチーフは、「哀しい女になって」というこのフレーズに凝縮されている。
当初私はこんなふうに聞いてきた。
失恋した主人公の彼女が、その悲しさつらさに耐えられないから、あなたの心の絵の中でいいからヒロインでいたいのだと。
それはそれで、ある一面の解釈かも知れない。

この曲は、「失恋したの、実はその理由はね・・・・」という構成である。
1コーラスでは、失恋の場面が描かれている。それは、悲しくつらいことであろう。
しかし、その理由は2コーラス目に描かれている。
それは、彼女の片思い、彼は彼女を友達としてみていた頃のことであろう。

映画を二人で見に行った。その映画が何かはわからない。1980年代のスターは誰かはわからない。
あえて想像すれば、そして時代錯誤が許されるのなら、たとえば、キャメロン・ディアスが明るく振舞い、しかし失恋していく映画のヒロインを演じているような映画である。そのヒロインの可笑しなぶざまさに「あんな女もいいね、切なくて可愛いね。」と片思いの相手である彼は、つぶやいたのである。
このHEARTで描かれ失恋していく主人公の彼女は、明るく快活な女性かもしれない。
いや、静かでおとなしい女性かも知れない。決して、派手なタイプではないであろう。
もちろん、恋愛にはとっても不器用な女性である。
だから、恋する人が、「あんな人がいい」と女性のことを素直に語ってくれたので、
彼女は真似をし演じていたのだ。

しかし、彼は、自分を選ばなかった。彼好みの女性を一生懸命演じていたのにである・・・

いや、実は自分が演じていると思っていたただけで、実は、振られたことも含めて「まるで流行り歌にでてくるようないい女」でしか、その役はなかったのだ。

でも、彼女は、信じていたいのだ。あのときの彼の素朴な言葉を。
映画に出てきたどこか滑稽だけど「もの哀しい」女性を愛してくれる彼の本当の心を。
だから、失恋して悲しい涙する女を演じるのではない。
それが、きらわれもの(大根役者)でもいい、映画のあの「哀しい女」を
あなたの絵(心)の中で演じ続けていきたい、と強く思っているのである。
それが、彼を愛し続けることなのだ。
ここでも、主人公は、歌の世界の中で「救われている」のである。
それは、演じている自分は本当の自分ではないからである。
きっと、いつかは、彼女の素の人柄で接することができる恋人に巡り会うことまで
想像させるからだ。

つかこうへいさんの劇団で活躍されていた、大津あきらさんである。
大根役者と書いて、きらわれもの と読ませる感性とこのHEARTの奥深さは感動モノである。

そして、実は、私はさらにあることに気づいた・・・・・・・
この歌の本当のモチーフを。(これについては別の機会で)

人は、生きていくうえで、何か役割を演じている。
この世に生まれて、使命を持っている方もいる。
真梨子さんの世界は、恋愛の歌という形を通じて、「人としての心の葛藤」「生き方」を語っている。
しかし、だからこそ自分自身のアイデンティティを深く見つめさせてくれるのである。




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コンサートで配布されたリーフレットより









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作詞 大津あきら  作曲 鈴木キサブロー

HEART

2009/2/10 BBSにて久しぶりに改訂の記述をしたので、転載収録します。

HEARTの中で、別の機会にと記入したまま発表していないことがあります。
2007年の秋に掲載して1.5年くらい経ちましたので書きます。
私は、HEARTは、大津あきらさんが、真梨子さんへこの歌でラブレターを書いているのだと思っています。曲の鑑賞は、別掲の通りのモチーフですが
その大元の感覚は、ラブレターです。

それは、大津あきらさんが簡単に言うとこのように述べています。
「高橋真梨子に恋をしている、だから期待していてください。
(愛の歌を書く)自分の名前をみつけたら、その期待を裏切らないできばえであると。でも、恋を告白したら、飲もうよってかわしてくるのが、
また真梨子なのだ」と。(敬称略)
実生活というよりは、もちろん真梨子さんの世界でのオフィシャルな
仕事の上でのお話でしょう。
しかし、あの悲しいヒロインになって・・・・というのは
叶わない恋の主人公、しかしひたむきに思い続ける人を表現していますね。

大根役者」と書いて「きらわれもの」と読ませる感性。
つかこうへいさんの劇団で音楽を担当していた大津さんですので、
恋愛の舞台での不器用な恋というのは見事に言い当ててると思います。




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