旅と音楽Vol.7  熊野三山

2005年に出雲 2007年に高千穂を訪れてから、ずいぶんと時間が経っていた。もちろん、この間父の介護があったのだからこれは決められた順番と言うものである。今回も、神の手による時間調整という事がずいぶんと多く、誠にありがたいことであった。

熊野三山は、2007年当時から次は熊野とイメージされていた。しかし、熊野三山をめぐるにはまる一日かかるし、最低でも2泊は必要になる。介護中は行けない。しかし、もとより父方の系譜には熊に縁があり、父が入居したホームの隣にも熊野神社がある。お世話になって亡くなった病院はあきるのの熊川病院である。行かないわけには行かない御礼の旅でもある。


羽田まで70分、羽田から55分のフライトで南紀白浜空港に到着するが、空港から白浜そして紀勢本線の特急で1時間30分の紀伊勝浦に宿泊することにした。
とにかくこの時間と距離感は不思議なものである。


おりしも集中スポット豪雨という感じの列車移動。しかし、紀伊勝浦では晴れ。風呂に入るとまた大雨。しかし、露天風呂に移動すると雨は止む。
そこで今回の案内人のトンボに出会う。
部屋に戻ると更なる大雨が、目の前の入り江を揺らした。 

翌日雨の中、定期観光バスで約1時間30分、熊野川沿いを三重県の山々を見ながら奥に入る。
旧大社跡地の大斎原の大鳥居を右手に、バスを降りると何と快晴。そのまま熊野本宮に参詣する。
その後稲穂のたなびくあぜ道を、大鳥居にむかって歩くとトンボが気持ちよく飛んでいた。もともと、飛ぶ穂からトンボは名づけられたという。

まっすぐ風に乗って飛んでいく姿は、古来より宮中そして武家に好まれた。一番トンボが嬉しそうに飛んできたのは、産田社をお参りした後であった。妻の仕事柄必ず参詣するお社である。出雲大社でも右手にあり、神事に使う真名井の井戸の傍にあった。

新宮に戻り、熊野速玉大社に行く。家の主祭神のひとつ、岐美大神を祭祀されれている。そして何と、大社の隣には、文豪佐藤春夫記念館があった。当地の出身であるとの事だが、私としては行動心理学を習った佐藤方哉先生のお父様であり、何とびっくりという感じであった。もちろん快晴である。

その後、熊野古道大門坂あたりを少し歩き、那智滝を参詣した。
滝に向かう参道は神聖な空気が漂い、古来からの山岳信仰を思わせる。延命の水を飲んできた。
そして、460段の階段を登り、那智大社に参詣する。年老いた父母ではこの階段は上がれない。

やはりこのタイミングだったのだろう。そのお土産は、古くから御幸のお守りとして尊ばれたお守りで、彩り豊かな玉が二つ付いている。
これをトンボと呼んでいる。

大雨が降ったにも関わらず、まったくの快晴であった。

 
翌日、また白浜に戻り、円月島を見てきた。春分と秋分の約一週間は、日没の夕日がこの穴の間から拝めるという由緒正しき島である。

 小さな岬を挟んで、反対側に神島(かしま)がある。ここは、かの博覧強記の博物学者であり、大英博物館でも仕事をこなし、昭和天皇の行幸のさい、ご進講をとられた南方熊楠氏が好んでフィールドワークされた島である。
その岬の高台の上に記念館があり拝観してきた。


行くべくして訪れた場所である。それは、穴から太陽の光が差してくるところに理由がある。太陽と月と生命を表す出雲の勾玉しかり。そして高千穂の天の岩戸しかりである。同じ古来の発想といえよう。真梨子さんのステージにも何度も登場する、後方正面からのまばゆい命の光である。

トンボは、漢字で表記すると、蜻蛉と書く。なぜか真梨子さんの写真を思い出した。

そう、旅の途中で「まりこさん」に出会わなかったのですか? と聞かれそうだがちゃんと出会っている。

勝浦で宿泊したなぎさ沿いの落ち着いたホテルのティールームの名前を見て、ハハーンとうなった。
RIPPLE」であった。


すべて案内人が準備してくれた事を示している。
行くべき旅のフラッシュサインがそこにあった。

誠にありがたい。
感謝あるのみである。








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