旅と音楽 Vol.8 奈良

修学旅行以来の奈良である。バスの移動とことなり距離感もつかめない。しかも今回は、珍しく一人旅である。もとより、今年の夏はどこにも出かけない予定でいた。そのため、博物館めぐりが得意な私としては、大英博物館やルーブル美術館の分冊百科を入手して行ったつもりになろうとしていた。
しかし、やはり行こうと決めたのが8/6の午後である。つまり1週間前である。

もとより、7月に興福寺に行きたいと思って、書店でガイドブックを探し、帰りの山手線でぼんやりと眺めていると、なぜか目の前に興福寺のTシャツを着た「若者」が立っていて、原宿で降りて行った。その日も連続出勤の中の日曜日で、なんとなく疲れて戻っている最中であった。
早速、依代の役目を持つ姪にメールすると、そのミュージシャンっぽい「若者」が使者になってくれているとのことで、メールした日が父の生誕日であったこともすっかり忘れている自分が情けなかった。

JRのCFに影響されて頭の中にイメージがあったのかも知れない。とにかく8/6までは行けないと思っていたが、行けることになった。
目的は、興福寺の阿修羅像を拝観することである。
そして、可能なら京都の伏見稲荷大社に足を運ぶことである。

行くと決まれば計画を立てるのが早い。
伏見稲荷大社は、奈良線で5分の距離にあり、もっと大きな駅のイメージがあったが、山につながる感じのしない駅であるのも不思議であった。京都伏見稲荷大社に参詣。
そして裏の稲荷山を登っていくと、「通った」願いの御礼に奉納された、あの鳥居の数の多さに驚くことになる。そして、、一日では回りきれない稲荷山のすごさに圧倒され、参詣できることの感謝を社(やしろ)に述べてきた。
とにかくこのお山自体がすばらしい。

基本的に、私はお願いごとはしない。お願いごとは、地元の鎮守にすべきものである。
3−4時間かかる距離でも同じ。出雲の大社(おおやしろ)でも私は感謝の言葉を述べてきている。本当にありがたいことばかりである。伊勢神宮・出雲大社・高千穂神社・諏訪神社・熊野本宮大社はじめ熊野三社、大宮の氷川神社など参詣させていただいていることが幸せである。
そして、それらの旅が意味のあるものであることを、聖なる存在から教えていただいている。それが私にはある形で現れて伝わってくる。

京都にもどり、近鉄で奈良に入る。近鉄奈良が近づくと、平城京の跡地を横切って電車が走り抜ける。復元された大門を遠めに見ながら奈良に到着。
早速、数分の猿沢の池から興福寺の五重塔を臨み、興福寺に入った。

とにかく興福寺の国宝館はすばらしい。その一言である。体感していただきたい。
そして阿修羅像。まだ年齢的には「若者」のこの像が引き寄せた意味がある。

本来サンスクリット語で「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされる。しかし、「a」が否定の接頭語であること、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天の台頭に伴い悪のイメージが定着。帝釈天とよく戦闘した神である。仏教に取り込まれた際には、改心して仏法の守護者として八部衆に入れられた。六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされている。
ここから修羅場ということばが出てくる。


「命」が「与えられる」。 これは私にとってのKEY WORDであり、今年の特にこの数ヶ月のさまざまなことへの象徴的な言葉である。

ありがたい出逢いであった。
そして、宿泊したホテルの部屋のNo.が、安心感を与えてくれた。
862号室。私の守護数の62が入っていた。私がこの世に生まれたのも、2月6日と6月20日のおかげである。父母の誕生日などではなくもっと奥深い先祖に通じる話。
阿修羅像に逢いに、奈良に導かれてきた以外何ものでもない。弱い存在の自分を「みんな」が暖かく見守ってくれているということを教えてくれている。ちなみに真梨子さんの香港ツアーでのホテルは、620号室である。
すべては、必然という名の偶然である。

翌日、春日大社の長い参道を延々と歩き、参詣。
その足で、東大寺の大仏を拝観してきた。
あっさりと書くが、炎天下の2時間コースの散策。
本来の生活リズムを戻し、すばらしい心の充電の時間であった。

そして、京都へ。
帰りの奈良線の中で、またひらめいた。
行こうと決めていた東寺を進路変更してある神社に向かった。
この話は、別の機会にする。

さて、
今回真梨子さんが出てきませんねぇと言う声が、西の方からか聞こえてきた。
ちゃんと出てきている。
6年ぶりに乗った東海道新幹線。いい日旅立ちのメロディーで
私を待っている人がいる・・・というフレーズか?
そういえば、ここのところの真梨子さんの話題の曲の歌詞にこのモチーフがある。

いいえ。

「フレンズ」である。
フレンズの元歌詞は、たしか「赤く赤く」で始まり、そして変更され「修羅のごとく生きた」となる。
試行錯誤の末、「煌いていた そして」になっている。
歌詞の書き換えだけで、ドラマが書ける。
そのひとつのフレーズの中に人が生きている姿がある。

修羅 阿修羅像。
赤く赤くフレンズを、1995年9月30日新宿の東京厚生年金会館で聞けたのは
そんな意味があったのかも知れない・・・・・・・・・・・







2012/08/13