橋真梨子の世界
  その研ぎ澄まされた感性と自然体

私は真梨子さんのアートの世界を鑑賞し、インターネットの世界で表現してきた。その記録が一過性で流れていくのが惜しくて自らHPを作成し、Blogで皆さんと交流しようとしている。今後の真梨子さんの音楽活動はどういう方向へ進展していくのか、自分で予想を立ててみたくて、2010年末から、全オリジナルAlbumを鑑賞しなおして、記録を残したいという思いに駆られた。
そこでは、何度も聴いたアルバムなのに、いろいろなステージの真梨子さんがリンクしてきて、新たな感覚で捉えなおすことが出来た。

そのこと以上に、30年も前のアルバムが、きわめて現代に受け入れられる曲としてとらえられたり、今のコンサートのモチーフになっているのではないかという新たな視点も浮かんできた。
ある方から、メールをいただいた。
「アルバム鑑賞記録、楽しませていただいています。MDFさんの記録を読んでいると、真梨子さんの歌を聴いているときに浮かぶ景色が流れていきます。不思議です。そしてさすがです。」
大変ありがたいコメントである。
でもなぜ、同じような心象風景が浮かんでくるのであろうか?

それは、真梨子さんの研ぎ澄まされた感性と自然体に理由がある。
真梨子さんは、倉本聡さんとの対談でも語られているように、奇を衒った表現や変な脚色を好まないアーティストである。また、何かよい作品が自分の能力で創られたという傲慢な自画自賛はしない。むしろ、表現しなければならないという思いに駆られて誠意をこめて表現しているアーティストである。
これをヴォーカリストというのだと思う。
人が美であると思うものは何か、人が切ないと思うものは何か、
そういう生身の人の感情に対して、人一倍鋭い感性で真梨子さんは身をゆだねていく。そこに衒いも作為もない。
あるがままにココロの声を表現していく。これが真梨子さんの自然体である。つまり、巷間言われる、落ち着きとか泰然自若という意味の自然体ではない。
「感性に身を委ねる」自然体である。だから、鋭いというちょっと神経質な感覚と自然体というゆったりという反対概念のような言葉が、見事に合致していく。

偶然にも、私も生について考えさせられる経験をしている。この世にいないかも知れない。その感覚は、まり子さんが真梨子さんを演じている自然体、使命感に似ているものである。
生活感のないHPを作成しているのも、お洒落な感覚には程遠いが、真梨子さんがそういう大人の世界を描くのであればそれを描きたいと願い続けているからである。そして私もまた自分が創作しているという感覚がない。次々に言葉が自然出てくる。掲載されているすべての文章において、文章の構成を別紙で考えたり、文章を推敲したりしていない。読みづらいのかも知れないが、もとより真梨子さんへの思いを書き続けている。何かによって、突き動かされて表現したいという想いで書いている。

その美なるものの存在は、まさに真梨子さんが表現しようという世界であり、その私は真梨子さんへ恋をしながら、同じ美意識に突き動かされている。
だから、同じような心象風景が浮かんでくるのだろう。

もしかしたら、コンサートのセットリストの楽曲を「的中」させてしまうのも、そういう曲が必要だからという共通感覚で捉えているからかも知れない。
私も拙い感性で真梨子さんの世界に身を委ねている。
だから似たような世界を描いているということである。

それを、真梨子さんへの恋心というのだと思っている。