博多の町名由来
御供所町(ごくしょまち) |
筥崎宮へのお供えを調えた町と云う事が、この名の由来らしい。 「聖福寺」「円覚寺」「妙音寺」「乳峰寺」とお寺の多い町で、 大戦時の空襲を免れ、昔のたたずまいが残っている貴重な地域。 |
奈良屋町(ならやちょう) |
豪商「奈良屋九兵衛」が住んでいたのが、この名の由来らしい。 また、博多三傑のひとり「神屋宗湛」の屋敷があった為 「宗湛町」と言われた事もあったらしい。 その屋敷跡は「奈良屋小学校」となっている。 |
古門戸町(こもんどちょう) |
妙楽寺などの古い門の跡があったのが、その名の由来らしい。 |
対馬小路(つましょうじ) |
対馬の宗義智が秀吉より与えられた土地に 屋敷や倉庫を構えていたのがこの名の由来らしい。 「オッペケペ節」で有名な新劇の祖「川上音二郎」はこの町の出身。 |
冷泉町(れいせんまち) |
1222年博多湾で人魚が網にかかり、勅使「冷泉大納言」が来博。 以後、博多は「冷泉津」と呼ばれるようになったらしい。 その勅使が滞在した「竜宮寺」との事。 |
呉服町(ごふくまち) |
呉服業を営んでいた商人が多く居たので、この名が付いたらしい。 豪商「大賀一族」が住んでいたのもこの町。 尚、地下鉄工事時に呉服町駅近く(東長寺前辺り)で 菊池一族の首ナシ遺骨が発掘されたのは記憶に新しい。 |
麹屋町(こうじやまち) |
江戸時代、麹と酒作りを生業としていた内田九郎右衛門の店があったのが この名の由来らしい。 明治時代には岩田屋等の大店も出店し、福博一番の商業繁華街であった。 今は「下川端」の一角となっている。 |
綱場町(つなばちょう) |
菅原道真公が上陸した時、 漁師が敷物として綱を丸く輪に巻き差し出したのがこの名の由来。 綱敷天満宮がその場所。 |
祇園町(ぎおんまち) |
その名の通り祇園さまが鎮座する町。 所謂、祇園さまを祭っている「櫛田神社」のある町である。 博多祇園山笠はこの祇園さまへの奉納行事。 |
中洲(なかす) |
那珂川と博多川と薬院新川の間に出来た中洲がそのまま町名となった。 18世紀中までは畑ばかりであったが、 幕末頃から歌舞伎や相撲が行われ、明治末には券番が開業。 大正からはバーが流行し、以後博多の歓楽地となって行く。 ちなみに、博多もんは「なかず」と発音する。 |
その他、近郊 |
雑餉隈(ざっしょのくま) |
様々な物が集まる界隈・・。 博多から太宰府への街道の中間休憩地として賑わい、 雑餉が多く集まったからこの名が付いたらしい。 福岡市の最南端で、武田鉄也氏の生まれ育った地。 |
美野島(みのしま) |
博多古図を見ると「蓑島」と云う島がある。 那珂川の河口にある小さな島である。 これが「美野島」で、昭和44年に今の書き方に変わった。 |
馬出(まいだし) |
秀吉の島津攻めの際、軍馬の調達を行った場所からこの名が付いたらしい。 「まいだし」とは、読めないものである・・。 |
吉塚(よしづか) |
秀吉の島津攻めの際、島津勢のしんがりを勤めた「星野吉実・吉兼」兄弟は 二又瀬辺りで討ち死にしてしまう。 哀れに思った地元民が塚を建てた。「勝軍地蔵」がそれである。 名の由来はそこから来ている。 |
千代町(ちよまち) |
多々良浜から石堂川(御笠川)にかけて、白砂青松の砂浜が広がっていた。 所謂、「千代の松原」から来た名前である。 |