受難時代の子どもたち
青葉区医師会2009年度年報
昼下がりの住宅街。自転車の前に2歳くらいの子供を乗せた母親がペダルをこぎ、その数メートル後ろから1年生くらいの男の子が補助輪のやっととれたばかりらしい小さな自転車で、脇目も振らず懸命に追いかけている。男の子がとある四つ角にさしかかった時、横から若い男性の自転車が飛び出して衝突、子供ははねとばされた。習い性となるというものか、私の頭の中にairway,breathingといった言葉が一瞬浮かんだが、幸い子供は起き上がり、若者もほっとして無言のまま立ち去った。だが次の瞬間私は言葉を失って呆然とした。物音に気づいた母親が引き返すなり、「何ぐずぐずしてんのよ」と息子をどなりつけたのである。母親は子供をいたわるでもないし、ぶつかった若者も気遣いを見せるでもない。もっともそんな言葉を口にすれば、たちまち母親の全面攻撃に合うだけだろう。そしてあまりの衝撃のためか、子供も泣くでもなく黙って自転車を起こしてまたがった。
母親を追いかける小さな兄にとって、その視野には先を行く母親しかなく、追いつくことしか考えていない。弟妹の生まれた第一子は「王座を奪われた子供」と表現されることがあるが、中には王座を失ったどころか見捨てられ不安にかられている子供もあるのかもしれない。たまたま男の子の例だったが,無論街中では小さな姉ばかりが必要以上に叱られている場面にもよく出会う。まさに長男、長女の受難時代である。いつも兄や姉のほうが叱られているのは、弟妹にとっても好ましいことではない。そして「叱られている」わけは、彼らが「悪いことをした」からとは限らず、「叱っている」ことを周囲にアピールしたり、彼らに関係のないことで母親が思うようにならないイライラをぶつけていることも少なくないようだ。
少子化対策も叫ばれて久しいが、少子化はもう止められない必然的なものであるのかもしれない。このような母親の心のcapacityは一人分だけなのかもしれないのだ。古い中国の言葉のように、「恒産なき者、恒心なし」、あるいは「衣食足りて礼節を知る」などと一定の経済的安定がなければ人は心の安定や最低限の道徳レベルは保てないものだと言われてきた。「格差社会」とも言われる昨今、「格差」は残念ながら経済だけではなく、「心の格差」もまた問題となっていくのだろう。そして「心の格差」は必ずしも経済的な格差と正の相関を示すとは限らない。「人類の劣化」といった言葉さえ時々聞かれることがある。
ではなぜ人類は劣化したのかと言えば、大量消費社会の果てにある地域共同体の崩壊をぬきにしては語れない。両者は互いに因であり果でもあると考えられる。話は変わるが、阪神大震災の頃から防災関係の専門家によって「自助、共助、公助」といった提言がなされるようになった。つまり大きな災害の時には公の力も限界があるので、それぞれの近隣での自助、共助こそが犠牲者を少なくすることにつながる。災害はないに越したことはないけれども、日頃からの自助、共助、つまり小さな自己犠牲や手間を提供しあうことこそが、昔ほどは窮屈でない、ゆるやかな共同体を復活させ、福祉を始め、育児や介護などにまつわる諸問題の解決への糸口にもなろうと考えられるのである。
冒頭の話に戻ると、私が呆然としたのは母親の言葉のせいばかりではない。事態の展開つまり母子と若者3者の反応があまりに予想外であったためである。子供が無事だったのは何よりだが、初老に属する私の予想では子供が恐怖と安堵に泣き、若者が「大丈夫ですか」と駆け寄り、母親が子供をなぐさめながら「いいえ、こちらこそ」といった展開であったのだが、それはもはや「三丁目の夕日」の時代のできごとなのかもしれない。となると私は異世界を前にして傍観者であるほかはなくなるのだ。
彼ら、少なくとも大人2人は自分が責任を問われずに安泰であることしか考えず、他者との関わり合いを避けたいと思っている。「100年に一度の不況」と言われる世情のためもあるのか、母親の心には全くゆとりがなく、若者もまたlost generationとして何らかの葛藤もあるのだろう。そしてこの男の子には夕暮れの線路ぞいを泣きながら走る、芥川龍之介の「トロッコ」の主人公(同年代)が対比される。この先、この母親がもう少し長男に目配りしながらゆっくり進むこと、若者と男の子が交差点の危険を学び取ること、そして何よりも泣くことさえ忘れた子供の心に母親を含めての人間への不信が根付かないことを願うばかりである。