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オンザロード
レコード(今のCD)の売上だけでは生活が成り立たないバンドマンは、ワゴン車に器材と
メンバーを詰め込んで日本中を周りました。
行く先々で感動と顰蹙を残し、次から次へと周り続けた記録です。
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120回のライヴ
年間、120本のライヴを演った年があります、その消耗は半端では無かったと思います。
それも日本中を旅しながらですから・・・
*次郎吉の楽屋にて
そんな時代だったとは云えバンドマンにとってそれは肥やしになったのでしょうか・・・
ただ、いたずらに消耗しただけだったのでしょうか・・・
”ブルースな昔話”1
![]() 13.Dec.1983.Tokyo.Japan |
1983年に来日したエディ”クリーンヘッド”ヴィンソンと |
”ブルースな昔話”2
1984年だったと思います。バーバラ リンと全国、10箇所位のツアーをしました。
女性とのツアーだった為、色々とありましたが今日は、2つ程。
青森県八戸市のライヴの翌日は横浜でライヴ。この日の移動が実に大変だった!。
朝一番の在来特急で盛岡まで、盛岡から新幹線で上野まで。
ここからが信じがたいが本当の話。迎えの車で万年渋滞の首都高を走ったのでは
リハーサルに間に合わないと言う判断で“京浜東北線”で関内まで行く事になった。
機材や大きなバッグを持った黒人女性とその一行はかなり目立ち
バーバラ達はチョット大変そうだった。後で聞い話だが電車内で変なオッサンが前に
立っていて怖い思いをしたそうだ。
早朝から、ギリギリのスケジュールで移動、リハ、本番と強行し相当疲れていたにも
かかわらず”打ち上げ”にも顔を出してくれました。
ファンやスタッフを大事にする姿勢には、頭がさがります。
ツアーに同行した、バーバラのいとこのメーゼルなどはアドバルーンのような“ふくれっつら”。
この日ライヴ終了後、会館の外でファンのひとに写真を撮ってもらいました。
その内の一枚にファンの人にもらった花束を私に預け笑っている写真があります。
すばらしい笑顔をしていますバーバラの人柄がよくあらわれた写真です。
さて、2つ目はツアーも終盤になり懇意になり始めた頃、長崎のホテルの出来事。
いつもの様にライヴや打ち上げが終わりホテルに帰り、さあ寝よう・・と思っていたら
いとこのメーゼルから電話・・
”一人で部屋に来てくれとの事 ”女の部屋に”1人”で来いとは何事だ!
・・と・・ のこのこ 出かけたら・・ナナ、なんと "イスラム教に入れ"
と薦められた!
オー、なんてこった! "俺は仏教徒だ!" と言ってやると
彼女は、すかさず ”ノー ブッダ ! ” と叫ぶ・・・・アア・・
俺は小さな声で ”ブタはお前だろう”・・と呟いた・・・。
春だと言うのに 心が寒い長崎の夜だった・・・。(^。^)
*苫小牧発八戸行きフェリーの中ではしゃぐバーバラ
”ブルースな昔話”3
1983年12月アルバートコリンズ来日時 東京での打ち上げ。 新宿駅ビルのニュートーキョーだったと思う。
手前背中左:ACリード、右:ベースマン。
真ん中の列左端でパクついて居るのが俺、ド真中が鍋を美味しそう に ツッつくコリンズ。
その隣が山岸潤士さん、松本輝夫さん。 その後ろの列がブラックミュージックレビューの
スタッフと 小出斉クン。
いつもコンサート後の打ち上げは愉しみ、一仕事 終えたクルーは肩の荷が降りて羽目を外す事と成る。
時にはミュージシャンを超えるパフォーマー出現! 濃いキャラも多かったな・・・。
”ブルースな昔話”4
昔、俺がやっていた仕事には大まかに2つあって、1つは 日本人のミュージシャンの世話と
もう一つは来日する ミュージシャンの世話。
日本人の場合、活動の中心は全国のライブハウス。下の写真の様にワゴン車にPA以外の
機材を全部積んで周る。 ドラムもアンプも、勿論 楽器も全部積め込む。
*上の写真はブルーへブンの関西ツアーの帰り、富士川の サービスエリアだと思う。その年の
ブルースショーのポスターが見えるジョンリトルジョン の年だから1981年11月頃かな。
それと、ツアー日数分の衣服。1週間以上になるとバッグが 大きく成り過ぎるので、
何処かのコインランドリーに立ち寄 って洗濯をしたりする。
トキニ・・行く先々に洗ってくれる人が居たり・・レレ・・ コレ・・艶っぽい話。
(この辺の話は10年位先まで封印・・・皆が少し枯れるまで待ってよう・・・。)
そんな、こんなでワゴンの 荷のスペースは天井までイッパイ!
その機材の前に3人掛けシートがあって服田、岡地、房之助 前の席に運転する俺、助手席に森田。コレが指定席。
ブルーヘブンの場合はメンバーが5名+俺と正井さんの7名 だから後ろのシートは2列あるタイプ。
初代は青、2代目は白のブルーヘブン号、元気に日本中を走り周った・・
ブレイクダウンの場合はメンバー4名と俺の5名。ツアーの都度、井の頭線新代田駅前の
日産レンタ カーで後ろシート1列の小さなワゴンを借りて日本中周った。
こんな息の詰るような空間に何時間も男ばかりがゴロゴロと・・・・。
殆どは愉しく大騒ぎしているか前夜の打ち上げで飲みすぎて寝ているかのどちらかだ。
時には煮詰まる事もあっただろうが、賢明な人達ばかりだったから
トラブル など一度も無かった、皆それぞれオトナの振る舞いだった、感心する。
他のバンドの話で恐縮だが ツアー中に2グループに分かれて移動した”とか一人途中で帰った”
とかよく聞いていたから 尚更 マネージャーとして楽をさせて貰った感がある。
ツアー中の”ブルースな昔話”は山のようにある・・ノーマルタイヤで大吹雪の北海道日勝峠
越えの話とか(この時はマジで死ぬと思った)冬の長崎→鳥取間大移動の話とか
この先時間が出来たらニヤニヤ・・と思い出しながら書きます。
”ブルースな昔話”5
ジョンリトルジョンのポスターが車に貼って あったので、ジョンの思い出を記録。
前の年(1980年)はロウエルフルソンを六本木のピットイン で演った。
ジョンは目黒に出来たばかりの鹿鳴館という ライブハウスで演った。
ブルースは会館やホールで演るよりも酒場で演るに限る。
鹿鳴館は椅子無しで全立席だったと思う、 狭いところにギュウギュウ詰めで 大いに盛り上がった。
ホールは羽目をはずせないし肩が凝る、総じていいコンサー トに成らない事が多い。
国内では1976年頃を境にブルースは拡がりが 途絶え 一握りの熱心なファンのみに
支えられた冬の時代 だった。
会館やホールを埋める程のオーディエンスが期待出来な かったのも事実。
恒例の打ち上げは自由が丘だったと思う、BMRの 関係の方がやって居られた
ニューオリンズ系の音楽を聴かせ る当時としてはモダンな店で行われた。
吾妻光良さんと小出斉さんが雑誌の記事を書く為に インタビューをしていたと思うが、
酒が入った中でインタ ビューが出来たのかは定かでない。
この時の写真は残っていない、印象に残るような出来事も 無かった。淡々と終わってしまった。
覚えている事は俺がジョンに ”私は貴方に顔が似て いると友人から云われます”と云ったけど
レスポンスも無かったし嬉しそうに俺の顔を 見てに笑って居た。
アーフーリーの”シカゴ ブルース スターズ(写真) を持ってる方は引っ張り出して見て下さい。
斜め前から写し た写真。 額から鼻筋、頬、髭、口に至るラインが実に良く似ているの
です。
”ブルースな昔話”6
ブレイクダウンはライブハウスレベルでは5ツ星でどこでも お客さんは殆どフルハウス。
今回は一番お客さんが入らなかったライブの事を書きます。
70年代から80年代に掛けて新興学園都市筑波は膨らみ続けた 。
学生や若い研究者が多く移住した為、娯楽のインフラも一緒に 増えていった。
その中でライブハウスも大きな物が出来た事は 情報誌で知っていた。
そこから出演依頼が来たので深く考えないで承諾した、木下さんのサロ ンゴミュージックが
ブッキングしていたと思う。心配する理由は見当たらない。
普通に当日リハが終わって開演を待って居たのだが客が来ない。
待てども待てども一人も来ない。
開演時間を少し過ぎた頃男性が一人来た、又少し遅れて女性が
二人来た。それ以上待ってても来ないから始める事にした。
バンドは4人客が3人。マン ツー マンで付いてもメンバーが一人 余る。ナンテコッタ!
それでも、手を抜かず 2ステージ 演った。客3人は最後まで居て くれた・・
と云うか、帰れなかったのだと思う。俺たちが可哀相で・・優しいね・・ハハハ
そのライブハウスは音響も照明も最新の機材が揃えてある
内装も豪華だった、200名は入るだろう大きなライブハウスだっただけに余計うら寂しい・・。
メンバー4名、マネージャー1名、客3名、ホールスタッフ15名 ・・・
・・伝説のライブは何事も無く幕を閉じた・・・(^。^)
メンバーには申し訳ない気持ちでイッパイだったが、一つ救われる 事がある
お客3名の内2名の女性は雑誌のモデルさんで、見惚れる くらい綺麗な人だった。
メンバーのテンションは最後まで落ち無かったのは気のせいだろうか?
それ以降、都内のライブにその美女達は来てくれる様になった。災い転じて福となしたのか。
名古屋おーぷんはうす
名古屋で一番猥雑な街、今池。ユニーの裏にあった おーぷんはうす(ひらがなですよ)
地下でカビ臭かったけど、 いつも個性ありげな若い人がたむろってたナ。
店の装飾は永い間 味気無かった(萩原さんゴメン)けど、房之助がフックスや
アップ タイトの連中と一緒にレンガを1枚ずつ割って壁にモルタルで貼り付 けた。
随分お洒落に生まれ変わったヨ。ビックリした。
とても良い店だったけど都市再開発で立ち退いた。
最後の店長だった 森田くんが”おーぷんはうす”の意思を継いで近くに得三を
オーナーはオーティスを始めた。
でも、得三でもオーティスでも無い何かが”おーぷんはうす
にはあったかな・・時代と関係してたかもしれないけど。
味仙やぴかいちで食事をするのも愉しみだったな・・
*レンガで改装後の店内
下北沢スーパーマーケット
下北沢は古くから演劇や音楽の関係者が多く住み、尚且つその街で 活動していた。
スズナリや本多劇場では音楽のコンサートもよく行われた。
本多劇場で演っていたセッションに来日中のGeorge Thorogoodが
飛び入りしてくれた事もある。しっかりとサインを貰った・・ハハ
スズナリでは文字どうり鈴なりの客で床が抜けるのではないかと 心配した事もある。
芝居小屋のライブは普段体験出来ない風情があった。
特色のある小屋が多かった下北沢で思い出深いのはスーパーマーケット
ココのオーナーは芝居も音楽も好きで、異色なところでは小堺とか関根なども
出ていた変わった小屋。
ブルースファンのかかわりではブレイクダウンとブルーへブンの
ライブ盤が録音された所として有名。
あのライブ盤を聴いて ブルースを聴き始めたり演り始めたりした人は多い。
名盤を創ってくれた ありがたい小屋なのだ。
紆余曲折があって閉店する事となり、最後のコンサートの
ブッキングを光栄にも俺がした。BAD NEWS というラストコンサート をでっち上げた。
所属事務所や様々な契約の関係で公には出演 出来ないビッグネイムも
多数出演してくれて寂しいけど最期を 看取ってくれた。
個性的な店の多い下北沢の中でも確実に異彩を放っていたと思う。
京都拾得
日本で最初のライブハウス。
ライブハウスの定義が曖昧だから 何処かのサイトで論争に成っていた。
古い蔵を改造して、と云うよりも、古き良き物を上手に残した
店作りがしてある。奥が厨房、そのまた奥に雑貨屋があった。
入り口左に2階へ上がる階段、上がると楽屋。
(ある時期から雑貨屋 が閉店して奥が楽屋に成っていた)
1970年台は国鉄のディスカバージャパンキャンペーンに 乗っかって
若い女性の京都旅行が流行った。
この拾得や磔磔が旅行ルートの 定番だった時代があった。
”ライブをブッキングする時は週末に・・” がマネージャーの心得。
蔵のライブハウス観光の旅行客 一見さんがドット押し寄せる。
ブルースファンの方にとって忘れられない事は、ブレイクダウンが
毎週月曜日ここでブルースを演っていた事、メンバーが上京するまで
ツアーに出た時と春先のバンド休暇時期を除いて永い間演っていた。
拾得の石畳にはブレイクダウンの影が染み付いている。
年末はオールナイトライブがあって。立錐の余地も無いほど
のお客さんが入り大盛況。朝までに入れ替わり立ち代り
やって来る。”大晦日は拾得”が定番の時期があった。
ミュージシャンにとっても、取り巻く裏方にとっても、お客さんに
とっても、思い出がイッパイある歴史ある処です。
勿論 今も営業しています。
京都磔磔
ココも蔵を改造してあって、拾得より一回り大きい、拾得が
住宅街にあるの対し磔磔は四条通りの裏道にある。リハーサルが
終わったら四条や三条の河原町辺りに遊びに行った。ソレくらいの距離。
ココも2階が楽屋でジョンリーフッカーがあまり綺麗な楽屋では
無かったから怒ってた、ハハ。ジョンリーの時はマジで酸欠に
成る位の客が入ってたなぁ。メンバーがステージまで辿り着く
のも大変だった。入場者数の最高記録だったんじゃないかな。
我々は楽屋があるだけでも有り難い。
ライブハウスできちんとした施設を期待してはいけない。
お客さんの前で着替える事をしないだけでも助かる。
お客さんも目の前で着替えられたら興醒めダヨネ。
ライブが終わった後はお客さんや友人達と磔磔でチョット飲んだ後、
オーナーやスタッフ、お客さん、友人等と一緒に大勢で拾得へ流れたり、他の
飲み屋へ大挙移動する。
その様は異様な光景だったに違いない。
それから、朝まで大騒ぎだ。勿論、半端な騒ぎ方では無い・・自分達のホームだもんね、京都は。
上の写真はブレイクダウンの10周年ツアー中、磔磔のステージで
お客さんや友人、スタッフ達と記念撮影した。
みんな、暖かくてメンバーが一番リラックスするのが京都。
*ブレイクダウン10周年ツアー用ポスター
京都大学西部講堂
学生運動が華やかりし頃、京都大学内にあってココ西部講堂は
治外法権であったそうだ。まぁ、法治国家だから警察が介入出来ない
事は無かったろうが、大学は運営に口出し出来なかったと聞いた。
歴代学生達により運営され、伝説と呼ぶにふさわしいコンサート が沢山開催されている。
行った人で無いと解からない一種独特の 異様な雰囲気がココにはある。
それが、ミュージシャンを刺激していいコンサート に成るのだろうか・・
逆に、雰囲気に呑まれるミュージシャンも居る、バーバーラリンはその典型で
出演前からその雰囲気を恐がっていた。そう云われればある種の
殺気に近い物が会場、聴衆に満ち溢れていたと思う。
このホールが持つ ”何か ”なんだろうけど、こんな処も日本中 探しても他に無い。
ゲバラの怨念が宿るホール・・とか云う人も居る、事情はよく知らない。
バーバラのステージはその後、バックバンドのサポートで
本人の気もほぐれ尻上がりに良くなっていく。
最後はハッチャンの帽子をバーバラが取り上げてかぶったり
ハッチャンがバーバラの左利き用ギターを弾いたり、大いに 盛り上がった。
ココが今どうなっているのか知らないが失うには惜しいホールだ。
日本のブルースの変遷
関 西 |
東 京 、 他 |
1970年 *バッドクラブバンド(大阪) |
1972年 *レイジーキムB.B(東京) |
或るブルースバンドの1年。
ブレイクダウンの活動記録です。
Uターンした時、送り返したままになっていた未整理の段ボールを見ていたらスケジュール帳と出納帳を発見。
当時のバンドの活動状況の参考になればとここにアップしておきます。
当時のバンドはマスメディアに乗る事は殆ど無く、活動の場は全国のライヴハウスが中心でした。
9日間で8本とか、5連チャンとか、一晩に2本とか・・・。 壮絶ですね。
*街の名前は残っているのですが会場名が思い出せない所が有ります。当時の事を憶えておられる
方はメールにて連絡をお願い致します。
1980年 112本
2/29名古屋オープンハウス 3/1高円寺次郎吉 3/2東京コンサート 3/3京都拾得 3/10拾得 3/24拾得
3/29.30京都磔磔 3/31拾得 4/7拾得ゲスト塩次伸二 4/10.11長野仏陀 4/12オープンハウス 4/13岡崎市
4/14拾得 4/19.20大阪市 4/26.27磔磔 4/28拾得 5/3.4磔磔 5/5拾得 5/12拾得ゲスト入道 5/16大阪市
5/17小松島市 5/18高松市 5/19岡山コマンド 5/20笠岡市 5/22博多多夢 5/23.24長崎カヴォ 5/26拾得
5/29下北沢スーパーマーケット 6/2拾得 6/6.7鳥取市 6/9拾得 6/14オープンハウス 6/15津ミルクホール
6/16大阪市 6/23拾得 6/28.29磔磔 6/30拾得 7/7.8下北沢スーパーマーケット *ライヴレコーディング
7/14拾得 7/16京都コンサート 7/26.27磔磔ゲスト塩次伸二 7/28拾得 8/4拾得ゲスト山岸潤史
8/8長野コンサート 8/9.10オープンハウス 8/11拾得 8/24茨木我楽苦多 8/25拾得
8/30.31磔磔ゲスト千代田洋一
9/1拾得ゲスト千代田洋一 9/6岡崎市 9/7オープンハウス 9/8拾得ゲストチャールズ清水 9/13小松島市
9/14高松市 9/15芦屋市 9/21大阪コンサート 9/22拾得 9/27.28磔磔 9/29拾得 10/6拾得
10/7岐阜市 10/9.10仏陀 10/11.12オープンハウス 10/13拾得 10/19我楽苦多 10/25.26磔磔 10/27拾得
11/3拾得 11/4名古屋学園祭 11/6前橋市 11/7.8次郎吉 11/9オープンハウス ゲスト:アップタイト
11/10拾得 11/11名古屋コンサート 11/13コマンド 11/15.16カヴォ 11/18鹿児島十兵衛 11/19.20多夢
11/22徳山フォーライブ 11/23芦屋市 11/24拾得 11/28.29磔磔ゲスト:サトーケンジ
12/1拾得ゲスト:サトーケンジ
12/8拾得 12/13芦屋市 12/14我楽苦多 12/22拾得withホーンセクション 12/27.28磔磔withホーンセクション
12/29拾得withホーンセクション 12/31拾得オールナイトコンサート
1981年 117本
工事中
1982年 本
工事中
1983年 95本
4/1拾得 4/2磔磔 4/3オープンハウス 4/9静岡ブルージン 4/10渋谷ライヴイン 4/12浦和またたび
4/13次郎吉 4/14新宿ロフト 4/26仏陀 4/27豊川カゴヤハウス 4/28オープンハウス 4/30 5/1磔磔
5/4拾得 5/6大阪バーボンハウス 5/7コマンド 5/8福山ジャンクボックス 5/20原宿クロコダイル
5/21熊谷クラウン 5/28次郎吉 6/2多夢 6/4大分ブル−ベイブ 6/5カヴォ 6/6大村バードランド
6/8山口ラグ 6/9徳山フォーライヴ 6/10広島クゥエスト 6/12我楽苦多 6/14磔磔ゲスト:スリッカーズ
6/15拾得ゲスト:スリッカーズ 6/24クロコダイル 6/26次郎吉 6/27横浜シェルガーデン 7/9法政大学
7/10名古屋ヤマハ 7/14クロコダイル ゲスト塩次伸二 7/16盛岡ママT 7/17八戸ジャミン 7/18青森芸夢
7/21水沢地球屋 7/23仙台アリゲーターキング 7/27次郎吉 7/30磔磔 7/31岡山牛窓野外コンサート
8/2.3拾得ゲスト石田長生 8/28ライヴイン 8/29シェルガーデン 9/7仏陀 9/9佐渡シャトル 9/10新潟ウッディ
9/11富山ディスクビート 9/13高岡もみの木ハウス 9/14金沢ラストサマー 9/15京大西部講堂
9/17コマンド 9/18ジャンクボックス 9/20松山コンサート 9/21高松ダーティージック 9/24豊川カゴヤハウス
9/25オープンハウス 10/8クロコダイル 10/9次郎吉 10/14拾得 10/15磔磔 10/16津山フリーク
10/18オープンハウス 10/28.29下北沢ロフト 11/4クロコダイル 11/5一ツ橋大学学園祭
11/5多摩美術大学オールナイトコンサート 11/6次郎吉ゲスト:ドクトル梅津 11/11二戸ジューク
11/12弘前メロディーハウスU 11/13八戸ジャミン 11/18オープンハウス 11/19拾得 11/20磔磔
11/26ディスクビート 12/1クロコダイル 12/2下北沢ロフト 12/3クラウン 12/4次郎吉 12/17カゴヤハウス
12/18名古屋雲龍ホールwithピーウィークレイトン、エディーヴィンソン 12/21大分ブルーベイブ
12/22宮崎ボブ 12/23人吉市 12/25鹿児島十兵衛 12/27カヴォ 12/29米子バンピンストリート
12/31磔磔 12/31拾得オールナイトコンサート
1984年 本
工事中
1985年 本
工事中
1986年 40本
3/4バーボンハウス毎日放送録画 3/29苫小牧アミダ 3/30釧路イーストエンド 3/31茶内
4/1帯広勤労青少年ホール 4/2札幌ベッシーホール 4/3小樽海猫屋 4/5八戸ジャミン 4/6盛岡ママT
4/12.13拾得ゲスト小川俊英、石田長生、松井ひろし 4/14善通寺ソリッドメディア 4/15高知サウンドボックス
4/17長崎ムーンシャイン ゲスト:ドクトル梅津、片山広明 4/18熊本ブルージャム ゲスト永井隆
4/19国分ポパイ ゲスト永井隆 4/20宮崎ボブ ゲスト永井隆 4/27ライヴイン 祝結成10周年 with入道、
木村、梅津、片山 、チャールズ清水 5/1静岡モッキンバード 5/2カゴヤハウス 5/3京大西部講堂
5/4.5オープンハウス ゲスト:ドクトル梅津 5/14横浜7thアベニュー 5/18大阪扇町ミュージックスクエア
5/25日比谷野音スプリングカーニバル 5/31次郎吉 5/31横浜国立大学オールナイトコンサート
6/20津市 6/21.22磔磔 6/23バーボンハウス 6/28次郎吉 【解散】
【オーティスラッシュとのツアーの為再結成】
12/4ライブイン 12/5名古屋エレクトリックレディランド 12/6福山スガナミホール 12/7磔磔
12/10丸亀市民会館 12/11カゴヤハウス 12/12九段会館 12/14ベッシーホール
【ツアー終了後、正式に解散】
ウイリスおじさんのブルース
ダイハードではありません、ウイリスおじさんの軽快なブルース |
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もし、無人島に一人で住まなくては成らなくなったとしよう、娯楽は六枚のレコードだけ、 |
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ROBERT JOHNSON |
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THE BEATLES |
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MAGIC SAM |
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BUDDY GUY. MAGIC SAM |
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STEVE WINWOOD |
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LITTLE WALTER |
二枚組が多くて ”ずるい” と言う声が聞こえます。
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