広島東洋カープとフットボール雑感

私には徹底した収集癖があります。ブルースのレコード、書籍、ポスターチラシに始まって
サブカルマガジン、果ては近代外交史古書と、とどまる処を知りません。
ここで紹介する収集物は栄光の広島東洋カープ,優勝 ”翌朝のスポーツ紙”です。

私はフットボールを知るに至るまで延々と
野球バカでした
物心付いた頃から広島ファンで、強いジャイアンツを羨みながらも
一生懸命万年最下位のチームを応援していました。
極めつけは 1975年の初優勝の瞬間を後楽園球場ジャンボスタンドで体験した事です。

他人のやる事には無関心の私がはじめて人の為に嬉しくて泪を流しました。
当時カープは両国のホテルを常宿にしていましたが祝賀会もそこで行われ
関係者とファンの隔てなく祝いに参加させてくれました。
とてもすばらしい時を過しました。


さて、1986年の日本一を境に野球への興味が次第にフットボールへと変わって
行きました。奇しくも其の年、私は郷里の福山へUターンする事となり
社会復帰の為野球どころでは無かったのも確かです。

翌、1987年当時の手帳をめくって見ると ”マツダVSヤンマー、マツダVS日産”
等と記帳してあります。どうやらこの頃からフットボールに興味を持ち始めた様です
野球にはないスピード感に惹かれたのだと思います。

日本の中でフットボールの地位は低く、その人気は野球に及びません。
しかし、世界的には圧倒的にフットボールがNO1スポーツです。
野球はアメリカとカリブ海の小国、極東の数カ国でしか”認知”されていない
田舎スポーツだと云う事を最近知りました。

戦後の日本は全てにおいてアメリカに影響されてきました。
私などにもジーンズやブルース等と言う素晴らしい文化を与えてくれました。
しかし、フットボールはアメリカにばかり向いていた自分を世界に向けさせてくれる
いいチャンスをくれました。

各国のナショナルチームはその国の歴史や文化を体現しています。
現在はシステムにおいて地域間格差はなくなりつつあるとは云え
個人のプレーには今だ歴史や文化を引き摺っています。

地球上、津々浦々の文化歴史や生活様式をフットボールをとおして
見聞する事が出来たのです。

”野球バカのままで無くてよかったな” と最近つくづく思います。

さて、フットボールおやじになった今日この頃、サスガに昔熱中した野球の思い出も
捨て切れないでこっそり保管してあります。

昔の彼女の写真の様に、、、。(ちなみに、私は保管していませんヨ)(^。^) 平成十一年葉月

1975年セリーグ初優勝時、翌朝のスポーツ各紙

1979年日本一 V1

1980年日本一 V2

1984年日本一 V3

1986年日本一 V4





坂の上の雲
この坂を上り詰めたらあの雲(夢)に手が届くんだ
と、一生懸命、頑張って昇り詰めたら雲(夢)は
手の届かぬ遥か上を
悠々と流れていた、、、。
等と云う経験が山のようにあって、もう夢なんか
見るもんかと思うんですが、喉元過ぎれば直ぐ見て
しまう。



そんな甘い事を三十歳を過ぎるまで続けそして自分を
取り巻く環境がそれを許さなくなり
リアリズムの
中へどっぷりと浸かって行く事になる。
確かに、夢や霞みは喰えませんから
当たり前の事です。



二十歳の頃、ブルースと出合い、それから十数年間は
寝ても冷めてもブルースの事ばかり考えていました。
中でも、聞き始めた頃の数年が一番楽しかったかなって
思います。
後に、曲がりなりにもブルースで生計を経てるようになっ
た頃は利害,金銭等が絡み始め、心底楽しかったのかな
と思うこともあります。自分だけの問題ではない訳け
だから当たり前だけど、、、。


写真は其のブルースを聞き始めた頃の友人達です。
まだ皆んな若々しく、夢を見ています。

本当に心の底から、楽しそうに笑っています。


今、心の底から笑 う事って少なくなったような気がします。
唯一、家庭だけかな。


この友人達の中には夢をかなえた人がいます。
本当によかったと思う半面、羨ましくもあります。


俺のように社会復帰した人、嫁に行って家庭に入った人、
残念だけど岡田のみっチャンや石川兄、瀬田兄の様に
志半ばにして亡くなった人もいます。



最近、皆んな、今、何をしているのかなって
思う事がよくあります。 
多感期に出合った人達は何故か強烈に印象に残ってて、
何故か忘れられないのです。


実は、このホームページを立ち上げたのもこの人達と
もう一度連絡が取れたらなって、思ったのが最初でした。
                      
平成十一年 吉日


父さんの事

放蕩息子だったそうです。三十幾つまで金にもならない音楽の仕事をしていました。それもブルースなどと言う
日本人には馴染みの薄い、、、。
日本人のブルースを演る人やアメリカから来るブルースやソウルを演る人の世話をしていて、
当時の東京で一年間200〜300万位の少ない年収で生活をしていたそうです。

でも、仕事は楽しかったそうですよ。 個性的な人達や、外国の方と 日本中、あちこち周ったりで、、、。
家庭の事情でUターンしなければならなくなった時はとても辛かったって云ってました。
しかし、いつまでも昔の事にこだわっていられなかったそうで、気持ちを切り替えて一生懸命働いた様です。
十数年、一心不乱に働いて。最近、いくらか慣れたのか、パソコンばかりしています。(^。^)

食品会社の工場長なのだそうです。昔の事を考えると其の落差に思わず笑ってしまうそうですよ。
朝早くから夜遅くまで働いて、たまの休みはパソコンしたりライヴを演ったり、とても忙しそうですが
私達とも良く遊んでくれます、とても良いお父さん、、、、、と自分で云っている悲しい父です。
平成十一年 水無月