「見えるということ 1」

私が通っているダンス教室の窓からは運が良いと富士山が見えます。 大雨の後の夕暮れ時など、雲まで赤く染め、みんなが踊るのを止めてしばし 見とれるほど美しいです。でも、まあ8割方はその姿さえ見えませんし 霞のむこうにうっすらとシルエットを浮かべている程度の日があれば いいほうかも。

私は窓一杯に広がる富士山を見るたびに、とても不思議な気持ちになるのです。 確かに富士山はあそこに、あんなに大きく存在していて、それは一年365日 変わらないのに、ある日はその姿さえなく、ある日は歓声をあげるほど美しい。 人間の目という器官はなんとはかない能力しか持っていないのかと思うのです。

「だって、私は見た!」と主張しますが、「見える」ということ自体、実に あてにならないものだと思うわけです。

と、同時にもう一つ思うのは、富士山という実態は一つでも、光の当たり方一つで ことほどさように違って見えるということです。 私という人間の存在も、大多数の人にとっては日常の中で記憶にも留まらないで 過ぎていくでしょうし、ある人にとっては舞台の上でスポットライトを浴びて 輝く女優のように美しく見えるかもしれない。人間の目というのは不思議なもので 見たいと思うものにしか実は焦点があっていません。そのことを絵で表現したのが フェルメールだと言われているそうです。そうそう、映画と舞台の見え方について 気付いたことがあるので、明日はそのことについてお話しようかな。