「見えるということ 3」

劇団四季の演目で「蒼い鳥」を15,6年も昔でしょうか、テレビで放送したものを まだそのころは外出がままならない子育て真っ最中だったので、録画して何度も見ていました。 テレビだから、時々部分でアップにしたり、画面をひいたりしますよね。 その時、何度も見ていて気付いたのですが、舞台というのは幾人もの役者が一つの舞台に 乗って、そして部分でも、全体でも、計算しつくされた動きと構成で動いています。 ところが、実際に劇場に行って見ているときは、この「あらゆる部分が計算されている」のに 自分がその時見ていられるのは「舞台の一部分」でしかないのです。

映画では「見るべきところに視点をもっていかされる」のに舞台では 「みるべきポイントは細部にわたってあるのに、一点しか見ていられない」

これが、舞台の方が、感情移入するのがむずかしい理由ではないかと思うのです。 それが証拠に舞台は同じ演目を回数重ねて見ると、心により深く響いてくるように なってくるのです。・・・少なくとも、私はそうでした。

舞台も映画も絵画も本も、私は心が震えるような感動を味わいたくて出かけます。 本物の魅力を持つものでも、受ける側にセンサーがなければ味わえないことも あるのだろうなあと思ってます。絵は音も動きもないのでかなり気合をいれないと 見えてきません。小学生のとき、新聞の絵画展紹介で、スペイン絵画のキリストの 絵を見たときの衝撃は今でもはっきり覚えています。キリスト系幼稚園に通い 言葉だけでしっていたキリストのいろんな場面を目で見たときの感動です。 子供だったのに、その特集を切り抜いてノートに貼りました。不鮮明な新聞の印刷だったのに 私のその頃のピュアな?心にはガンガンに響いてきました。大人になって知っていることは 増えたのに、あのような感動がなくなってしまったのが悲しいなあと思います。