| 2002/08/08 | 文化と言葉を超えて |
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どこの国の映画を観ても、人間の表情が表す感情は同じです。悲しみも怒りも喜びも
戸惑いも。小さな疑問がふと心をよぎった、とか、ふとその言葉に心を惹かれたとか・・
そんなささいなことでさえ、しぐさや、視線や、微妙な表情から読み取れます。
せりふはそれを助けるものです。私が大好きなERなどは、そのあたりがとても良く出来ていて
たとえば、ベントンという、優秀で、しかしある面エリート意識を持っていた黒人医師が
その母親を亡くしたシーンでは、ひいたカメラが、窓際に立つ、その医師のシルエットを
とらえます。当時、まだ恋人ではなかったその女性の前で、なんとか平静を取り繕うとしながらも
話をしながら、無意味に彼はからだを前後にゆらし、両手をだんだん、だんだん、大きく
ぶらぶらさせ始めるのです。悲しいのに悲しいと素直に言えず、でもそれがそのしぐさに
現れていて、彼女が優しく抱きしめるその様に涙しました。
文化や言葉が違い、分かり合えない部分もたくさんあるには違いないのですが でも、その感情は人間はみんな同じなのではと思えてなりません。 まだまだ争いの耐えないこの世界ですが、日本国内でさえ、つい明治維新のときでさえ 薩摩だ長州だと争っていたのです。地球温暖化等の危機がもっとせまってきたら 一丸となって立ち向かわなくては共倒れになってしまうそんな時代も遠くないかもしれません。 そんな時には、文化と言葉を超えて、理解しあうかもしれない。 なにかを失わなくては、何かを得られない。人間とはそういう生き物かもしれない。 と、時々思います。 |