| 2004/11/28 | 定理 |
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今日は表参道のいつもの美容院へ行ってきた。
お天気も良く、風もなく、街を少しぶらぶら散歩する。
時節柄、結婚式も多く、しゃれたチャペルやレストランの前に 幸せそうなカップルとそれを祝福する人々が、にこやかな微笑と共に たむろっている。 独身の娘にとって、結婚は一つのゴールだ。テレビの恋愛ドラマでも ロマンチックな映画の中でも、結婚は一つの「ゴール」として描かれる。 「赤ちゃんの無事の誕生」これも大変ありがたい一つのゴールだ。10ヶ月の 妊娠期間と痛みを超えて「腕に抱くことの出来る命」として現れる。 しかしまた、「ゴール」というのはその瞬間から「スタート」でもある。 遠い昔の自分を振り返ってみると、この当たり前のことにじつは「実感」 をもってきづいてはいなかったことを知る。 臨月を迎え、ふうふう言っていた私に義母は 「生まれてくるともっと大変だからね。今のうちにゆっくりしておきなさい。」と 声をかけてくれた。それでも、その時の私は「早くこの大変な状況をクリアして 赤ちゃんでてきてくれないかなあ。」と漠然と考えていただけで、出産は私の 実感の中では「ゴール」だった。しかし、産まれてきて初めてしるのだ。 それが長い長い「子育て」そして「子供との決して切っても切れない深い かかわり」のスタートだと。 そうなのだ。全て「ゴール」はその瞬間に「スタート」 となり、決して完結することはない。それはひょっとしたら 「定理」のようなものかもしれない。そう考えればやはり「死」も なんらかの「スタート」なのだろう。 夜毎、眠りに落ちるとき、私はある種の幸福感に包まれる。 そして、いつのまにか気付くと朝を迎え、新しい一日が始まっている。 私の人生がある種の幸福感に包まれながら幕をひき、 そしてきづくと、新しい何者かが始まっているかもしれない・・。 だれにも「証明」できないけれど、それが「定理」のような気がしてならない。
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