| 2004/12/14 | 共感 |
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先日、スウエーデンの男性アカペラ合唱を聞きにいった。
音楽や踊り、民族衣装や色彩。そういうものは その土地の風や湿度や景観に色濃く影響されている。 これは当たり前のことなのだが、私は若い頃、そのことに気付いてはいなかった。 理由は簡単だ。日本の中のそれも神戸という小さな街から、22歳になるまで ほとんど足を踏み出すことがなかったからだ。 風や湿度や陽射しや・・そんなものは、いくら写真集や映画でみても 実は伝わっていなかったのだということを、私は30も後半になって 経験した初めての海外旅行で肌身をもって知った。 通りすがりの旅行者としてでさえ、それははっきりと分かった。 さて、話しは最初に戻るのだが、その合唱団が歌うスウエーデン民謡は メロデイーが日本人にとってはないように感じられ、ただただ不思議なリズムを あまり幅のない音程の中で刻んでいるように聞こえた。 一緒に聞きにいった長女はあきらかに退屈していたし、正直に告白すれば 私も多少退屈していた。それは退屈という言葉はあてはまらないかもしれない。 私は行ったことのない、スウエーデンという国の風を、その声から感じ取ろうと 努力してみたのだが、うまくいかなかった。 後半、その合唱団が「雪の降る町を」と「いつか来た道」を日本語で歌ったとき、 初めて彼らの声の美しさをはっきりと認識することができた。 そして、そのとき私が感じたのは、彼らが日本のメロデイーを日本語で 「歌ってくれている」「日本に一歩近づこうとしてくれている」というような 感覚だった。日本の歌を、ここまで美しい日本語として表現してくれている 彼らに、何故か感謝したいような、そんな気持ちになった。 前半が終わったときに「よくわかんない」とつきはなすように言った長女に、 「いろんな国の文化を受け入れようとする気持ちがなくちゃだめ」と私は 半ば自戒も込めて、一言、説教した。 帰宅後、コンサートに行くと報告していた友人から「どうだった?」と メールが来た。私はただ単純に「前半のスウエーデン民謡はしっくりこなかったが 後半の日本語の歌は、やわらかい声がはえて良かった。」と返事した。 そうするとしばらくしたら「相手の文化を理解しようとすることこそ大切。がんばれ」と 返事がきた。なんと、私が娘に説教した言葉と同じではないか。 私が軽く、表面をなぞるように報告した文面から、友人は私が実は心の中で 歌を聴きながらずっと感じていたことを指摘してきた。 私が友人にある種の「共感」を覚えたのはいうまでもない。 それは、何か基本となるところでの「共感」というようなもので、 聞いてきたばかりのハーモニーを思い出させるようなものだった。
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