2005/1/17震災10年

震災10年。神戸出身の私にとっても決して無縁ではない事柄なのに、 どこか遠くに感じるのは、やはり、私がその惨状を自分の目でみていないせいだろうと 思う。

その朝、私はいつも通りに5時半に起き、お弁当を作っていた。 カタカタと小さなゆれを感じ、「ああ、また東北で地震があったのかなあ」と 思っていた。その直後、母から電話があった。

「今、すごい地震があった。でも怪我はしていないから。富美子(私の妹)には 電話が通じないから様子をみにいってくる。」

妹の家までは歩いて15分程度。でも、 いつもは車で行く。それだけ大きな地震であるなら、道路がどうなっているか わからないから、徒歩で行ってね、とだけ言って電話を切った。

後で母が語ったには、「神戸は地震はないという先入観があったから、この大地震は 関東で起こったと思った。だから、直美は死んだのでは・・とその瞬間は思っていた。」 そうである。つまり、母は私の無事が心配で電話してきたのだった。

そして、その電話の直後の余震で、テレビが布団の上に飛んできたとういう。 「もし、電話をしにいかないで、布団にもぐっていたら頭を直撃されていたと思う。」

危機一髪であった。

当時、両親は66歳と63歳。私は37歳で娘は13歳と9歳だった。小学生の娘二人を置いて 家をあける必要はないからという両親の言葉通りに私は横浜に残り、日々電話で連絡を とりながら様子を聞いていた。

妹がいうには「お母さんは余震が怖くて相当、神経がまいっている」とのことだったが 母は私には「大丈夫」と繰り返した。

私は10年という歳月を思う。もし、今、地震が起こっていたら、私はとりあえず 神戸にとんで行くだろう。それは子供たちがもう充分に留守番が出来るということとともに、 両親も、自分たちだけでがんばれるほどには、もう、若くないということである。 つまり、10年という歳月はそれだけの世代交代を行ったということなのだ。 この10年の間に神戸に暮らしていた私の祖母と伯父が亡くなった。そして、私の 若いいとこたちの間に3人の子供が誕生した。

家は基礎が傾き、壁がひび割れ、修理を必要としたが、幸いにも手を入れてそのまま 住むことが出来た。それになにより、友人、知人、親戚の中に死傷者はいなかった。 そのことが、両親や妹の立ち直りに大きく寄与したことは間違いない。

人はいつか必ず死ぬ。事故か天災か事件か病か・・それは運命としかいいようがない。 今、目の前にある小さな事を一つ一つ丁寧にこなしていくことしか私にはできない。 いや、もちろん、それさえ出来てはいない。でも、そうしていこうという努力は している・・つもり・・ではある。