2006/11/30ネットの奇跡

 「専門医として意見を言わせていただくなら、お父様の受ける手術法は納得がいきません。私がセカンド・オピニオンになってもかまわないし、他の信頼できる神戸の医師を紹介することもできるし、東京で手術することが可能であれば、こちらの病院を受診していただくことも出来ます」受話器を握りしめ、暖かい話し声に安堵しながらも私は途方にくれた。すでに一ヵ月後に神戸の病院での胃がんの手術が決まっていた私の父。年老いた私の両親が、唐突なこの話にいったいどう反応するだろう。第一、今のこの事態が理解できるだろうか?当事者の私でさえ半信半疑なのに・・

 ことの始まりは、わずか一時間半前に届いた一通のメールだった。いや、もっと遡ればことの始まりは私が買った中古のパソコンだ。知り合いにゆずってもらった中古のパソコン。これでいったいに何がしたいのか、何ができるのか、いまだ自分でもはっきりしないまま私はインターネットに接続し、メールはなんとか使えるようになり、プロバイダーのサーバーを借りて知人の手助けを得ながら小さなHPも作ってみた。そのHPには「日記」と称してエッセイを綴っており、それは専業主婦の私が初めて持った自己表現の場所で「だれかに見てもらいたい」という気持ちもあった。かといって知人に公開するのも気恥ずかしかった私は、あるサイトで自己紹介の欄に自分のHPのアドレスを載せられることを知り、そこに登録した。そして、そのメールが届いたのは一時間半前だったのだ。

 「・・HPのエッセイ拝見しました・・」差出人のプロフィールを確認すると「外科医」とあったので「ご専門は何ですか?」と尋ねるメールを出すとすぐに返信があり「胃・食道外科です」とのことだった。私は「実は私の実父が来月胃がんで手術を受けることになっており、・・」と以下、簡単に病状・現状を書き送ったのだ。10分もしないうちに次に送られてきたメールをみて驚いた。「名前をあかすつもりはなかったのですが、専門医としてぜひお話いたいことがあります。現在、外来も手術もないので○○病院の内線○○番にお電話いただければ、私が電話で直接ご説明したいと思いますが・・」とそこには書かれていた。物騒なご時勢。しかし、父の体のこと。ネット上でつい一時間半前に「知り合った」ばかりの人に電話をしても良いのかどうか?しかし、名の通った大病院の電話番号であることは確認した。間違いない。私は何がなんやらわからないまま、その番号に電話をし、内線番号と医師の名前を告げつないでもらった。そして「あまりの偶然に無視できなくてメールしてしまいました。きわめて珍しい僕の専門分野だったものですから」という前置きの後、冒頭の言葉があったのだ。

 医師の話の内容は、しろうとの私にも納得のいくものであった。私は受話器を置いた手ですぐさま神戸の父に電話をした。父は70を越していたが、あたらしもん好きでパソコンにもなじみがあった。私が事情をあらまし説明し、その医師の名前を告げると父は電話口で驚きの声をあげた。「僕が癌告知を受け、ショックの中、本屋に行き、そこで最初に買った本の著者と同じ苗字だ。ひょっとしたら、その著者の息子さんではないだろうか?」そして驚くべきことには、事実、その著者は私にメールをくれた医師のお母様であった。

のぞみの個室で車椅子に乗って東京まで運ばれた父は病室の窓から見える見事な大銀杏の黄葉を静かに眺めていた。転院直後、神戸の医師からお借りした写真をみた東京の医師は「一期という診断でしたがおそらく三期には進んでいます。慣れない医師だと見間違うのですが・・こちらで改めて全ての検査をやり直します。」と私たちに告げた、予想しないなりゆきに私たちは呆然とした。しかし、同時に「もし、あのまま神戸で手術を受けていたら・・一期と思って開けるのと三期と思って開けるのでは手術の手順も全然違うだろう・・。連れてきて本当に良かった」と母と私と妹は病院の食堂で頭をつきあわせ、お互いに励ましあった。手術室を出た医師は「最善を尽くしました。しかし、一年以内の再発の可能性は高いです。」と私たちに話した。頭に毛糸の帽子をかぶり、まだ少し冷たい空気の中、父が元気に退院したのは桜の開花もまじかな3月の末だった。

 今も私たちは顔を合わせると、あの時の一通のメールから始まった奇跡について語り合う。今年も11月の「手術記念日」に私は医師に御礼のメールを送った。「術後4年目のお正月を今年も元気で迎えることができそうです」そう、あれから既に4年が経過した。父は常人と全く変わることのない生活を今も送っている。ネットの中に生まれた小さな出会いと医師の誠実に驚きと感謝の念が絶えない私たち一家である。