| 2007/9/30 | 声音の思いやり |
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今から三十年前、結婚した頃、母に電話するときには気を使った。「元気な声」で電話するように、気を使っていた。娘の幸せに敏感な母は、別に何もなくても、少しでも声のトーンを落とすと「何かあったの?」と心配するからである。 私は大学在学中にお見合いをし、卒業式の1週間後が結婚式だった。新居は東京の練馬区にある社宅。4階建てで「○○マンション」と名前はついていたけれど、小さなキッチンに四畳半と六畳の和室が二つ。うなぎの寝床のような小さなかわいい部屋だった。重い鉄製のドアをあけた向こうにある半畳の「たたき」だけが「玄関」スペースで、がたぴしした木の引き戸がついた下駄箱の上が黒電話の置き場だった。私は受話器を取り上げ、神戸の実家の電話番号を回す。呼び出し音が2回「プルル、プルル」と鳴るのを聞いた後、受話器をおろす。この「合図」を聞いた母が折り返し神戸から東京へ電話してくれる。これは、当時高かった長距離電話代を心配した母が、切り盛りする家計が小さな私を気遣って提案してくれたアイデアだ。私はその母の思いやりをありがたく受け、呼び出し音を2回鳴らしては受話器を置く。 甘い新婚生活の間は良かった。が、一年後に長女を妊娠したころから、夫が何故か競馬に凝りだした。毎週金曜日からスポーツ新聞の競馬予想欄を眺め、赤鉛筆、青鉛筆でチエックに余念がない。当時は土曜日は半ドン。帰宅するときには土曜日のスポーツ新聞片手で、また黙々と競馬のお勉強。日曜日の午前中も同じ。日曜日の午後、くいいるように競馬中継を見た後、荻窪にある主人の実家に出かける・・。そんな週末が続いていた。お見合いで結婚した夫には遠慮もあったし、「真面目な人」という印象も手伝い私は夫に何も言えないでいたが、会話のない週末を狭い社宅で過ごすのは寂しく虚しかった。 更に数ヶ月の時が流れ、だんだんと競馬の負けがこんでいるように思え不安だった。「私はお腹も大きいし、不安な気持ちでいるのはいやだから、そろそろ競馬をやめてほしい」と頼んでみたが、「そんなに無茶をしているわけじゃないから、ほっておいてくれ」と言われれば、それ以上強く意見することもできなかった。 ある日曜日、母から宅急便の大きなダンボールが届いた。中に、何が入っていたのか、具体的な物が何故か思い出せない。ただ、神戸には帰らず東京での出産を決めていた娘のからだを気遣った、女親らしい配慮の行き届いた、細々したものがたくさん入っていた。隣の和室では夫が相変わらず競馬新聞に見入っている。キッチンのビニールの床に座り、箱の中身を広げているうちにどんどん涙で目が曇り、荷物の一番上に置いてあった母からの手紙を読むころにはすっかり悲劇のヒロインのような心境になっていた。 「お母さんにお礼の電話をしなくっちゃ・・」。涙が乾くのを待ち、深呼吸をし、ついでに「あ〜、あ〜」と少し発声練習もしてからダイヤルを回し呼び出し音を確認して受話器を置く。折り返しかかってきた電話に、「あっ、お母さん?さっき荷物届いたよ。ほんと、ありがとね!うん、私?順調、順調。」と思いっきり元気な声。電話を切った後、「うまく演じられたこと」にほっとした。 その後、夫の競馬熱もいつのまにかおさまり、四半世紀以上の時が流れ、母の七十歳の誕生日も数年前に過ぎた。長距離電話代もすっかり安くなり、最近ではお互いに電話代を気にせずに思いっきり長電話ができる。ありがたいことだ。ここ数年、母が電話に出てくるときの声がさすがに「おばあさんに」になってしまったなあ・・と少し寂しく思っていたのだが、ある日、とても若々しい声で出てきた。 「あら、今日はなんだか声がとっても若くて、10年前に若返ったみたいよ。」というと、お客様がみえているとのことだった。 それ以来、母は私がいつ電話をしても、とても元気で若々しい声で話すようになった。 母が、そうしているのは「母自身のため」でももちろんあるのだが、でも、私のためでもあることを私は知っている。 かつて私がそうしてきたように、母は私を気遣って元気で明るいトーンで話すようにしているのだ。「顔」が見えないぶん、「声音」に敏感になれる・・。電話にはそんな効用がある。 今春、私の娘はオランダに仕事で渡った。今ではパソコンを通じてテレビ電話が可能だ。娘は普段は簡単なメールしか寄こさないが、何か悩み事があるときはweb電話に私を呼び出す。webカメラの前で、娘はおもいっきりふてくされた顔を私に見せる。これはこれで、安心なのが母心。不思議なものだ。 ともあれ、母が元気な声で電話に出てくれることがありがたい。メールもwebカメラも携帯電話も本当に便利で今はこれらなしの生活は考えられない。でも「受話器の向こうの声音」に細心の注意を払う電話ならではの「思いやりの心」。これはいつまでも失いたくない大切なものの一つだ。
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