| 2008/3/8 | N氏の軌跡 |
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「おばさん、僕、来ちゃったよ。」 ケンタッキーに住むおばは空港から突然電話をしてきた甥に驚かされる。一九七九年、一ドルは二九〇円の時代だった。ハワイまでの観光ビザで強引にロサンジェルスへ。「どうしてもアメリカで勉強したい。」子供大好き、サッカー大好きの二三歳のNは自分の可能性を信じていた。なんの根拠もない。でも、僕はやれる。 Nの生家は横浜で「車屋」を営んでいた。アメリカ軍の将校たちが乗るビューイックやベンツを修理できる横浜で唯一の工場だ。将校の子供たちと遊び、フットボールチームでボールボーイをして英語を覚えた。家業を継がせたい両親。アメリカへ行きたい息子。高校卒業後、YMCAでキャンプリーダーをしたり、運送業のバイトをしたりしながら渡航のための費用をためる。その中で、次第に「子供」「教育」「スポーツ」が自分の中のキーワードとして大きくなっていく。学費にはまだ手が届いていない。でも、行けばなんとなかなるはず!勘当同然の渡米だった。 着いて一週間目から中華料理屋で皿洗いのバイトを始めた。生活費をかせぎつつ、英語力を磨く。ネイティブの発音を身につけ、留学ビザでプロサッカーチームに入る。就労ビザ申請中とはったりをきかせた。皿洗いの時給二ドルが、サッカーのリーダーとして時給十ドルに、やがて一試合の出場で五百ドル稼げるようになった。大丈夫。これで学費を自分で調達できる。通うのはルイビル大学。ここでレクリエーション・セラピーを専攻した。 一見、無謀とも思える波乱万丈の青春だが、何か確固たるベースがあるように感じられた。「人が好きなんです。僕の基本はそこにある。」Nはそう言う。その「人が好き」という気持ちはアメリカにいても日本にいても皿洗いをしていてもサッカーをしても、何をしていても変わらない。そこが原点となって彼の世界は広がっている。「アドベンチャー・プログラム」に出会ったのは「レクリエーション・セラピー」の野外実習のキャンプ場だ。裁判所が行っていた不良少年の更生プログラム。Nは請われてそのプログラムを手伝うようになる。渓流下りやロッククライミング。危機的状況の中で「力を合わせ、信頼しあう」ことを知り、未経験の怖さを乗り越えることで新しいステップを踏み出すプログラムだ。 現在、彼はこの「アドベンチャー・プログラム」を日本に持ち帰り、日本全国、主に教師達を指導する。まだ日本でキャンプリーダーをしていた青年時代、同じように子供大好きで理想に燃えていた先輩たちが、希望を抱いて就いた教師という仕事に疲れていく姿を何度も見た。何かが違うのではないかと感じていたあの頃の気持ちがまだ忘れられないと彼は言う。日本の教育のグランドデザイン。それが今の夢でもある。 「僕は子供の頃、チビッコギャングでね、自宅でもある自動車工場の中で好き放題いたずらしていましたよ。溶接の職人さんが使うバーナーのノズルを手裏剣に見立てて遊んだりね。でも、大人になった今ふりかえると分かるんだ。自分がどんなに周りの大人に大切に見守られてきたかということがね。」 大人が人生を楽しむ姿をみせることが子供の生きる力になる。Nはそう考えている。楽しむというのは刹那的な享楽を意味するのではない。たとえそこが家であろうと屋外であろうと、極端なことを言えば病院の中であろうと、今そこで生きている時間を自分で、どう高める力を身につけるかということだ。 「僕は今五四才ですがね、本当に楽しい人生だった。きっとこれからも楽しいと信じています。」もう既に大人になっている人も力をもらえるような、そんな力強さを感じた。
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