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なぜ富川房信なのか
 現在の文学史では、草双紙は赤本、黒本青本、黄表紙、合巻と、ほぼ年次的に展開されたと認識されています。これらの呼称は表紙の色など本の体裁に拠るものです。ただし、青本と黄表紙については、表紙の色は同じで、刊行当時の呼称は共に「青本」でした。黄表紙とは、「青本」の内、安永4年(1775)以降に刊行されたものを一括して指し示すために後に付けられた呼称です。
 では、なぜ安永4年で両者が区別されるのでしょうか。言うまでもなく、それは、安永四年刊『金々先生栄花夢』の誕生をもってそれ以降の草双紙の在り方が大きく転換されたとの認識に基づいたものです。
 その認識を決定づけた原因として考えられるのが、天明元年の大田南畝の黄表紙評判記『菊寿草』の存在です。これは安永十年(天明元年、1781)正月刊行の黄表紙47部を役者評判記に見立てて位付けしたものですがその序文に以下のような一節があります。

それ鱗はこけ也。こけはすなはち不通なり。今天下に大通の道行はれ、こけはさら/\入用なし。上は北条 のおれき/\、下は汝らごときの町人、貴賎上下ひつくるんで、皆大通へみちびかんと、こけやううろこは此 方へせしめうるしと出かけたり。しかれども汝が家はふるき家にて、源のより信の御内にまいりては、から紙表紙一重へだてゝ、竹つな金平の用をもきゝ、花さき爺が時代には、桃太郎鬼が島の支度を請負、舌きり雀のちうを尽し、兎の手がらの数をしらず。そのゝち代々の記録をつかさどり、青本/\ともてはやされ、かまくらの一の鳥居のほとりに住居し、清信きよ倍清満などゝ力をあはせ、年/\の新板世上に流布す。しかるに中むかし、宝りやく十年辰のとし、丸小が板、丈阿戯作の草紙に始て作者の名をあらはし、外題の絵を紅摺にしていだせしを、その比はまだ錦絵もなき時代なれば、めづらしき事に思ひ、所々より出る草紙の外題、みな色ずりとなりたりしが、汝ばかりは古風を守り、赤い色紙に青い短冊、たいのみそずにによもの赤、のみかけ山のかんがらす、大木のはへぎはでふといの根、がてんか/\位のしやれなりしも、思へば/\むかしにて、二十余年の栄花の夢、きん/\先生といへる通人一変して、どうやらこうやら草双紙といかのぼりは、おとなの物になつたるもおかし。

これは世界を鎌倉にとって、草双紙の沿革を示したものです。丸小板の丈阿の署名がある作品や同時期の他の板元の作品に関する言及はあるものの、全体としては「鱗」つまり鱗形屋の話をしています。ですから、これは鱗形屋を中心に据えた草双紙観を示しているのであって、他の板元の作品を含めた草双紙全体に対する認識を示したものとはいえません。
 しかし、この「二十余年の栄花の夢、き/\先生といへる通人一変して、どうやらこうやら草双紙といかのぼりは、おとなの物になつたる」という描写は、「青本」の中から「黄表紙」を特別なものとして別個に扱うという今日の文学史上の認識と通じるものがあります。
 このような文学史観が今日にまで通用してきたことから考えてみると、黄表紙を「青本」ではなく「黄表紙」と位置付けるに足るだけの文学性の違いが両者にはあり、当時の人々がそれを十分認識していたことは確かでしょう。
 ただし、大田南畝や恋川春町が先駆けて鱗形屋の赤本および黒本青本を当世風でない、時代遅れなものの象徴として作品の趣向に用いた後、様々な黄表紙作者によってそれが踏襲され、次第に実際の赤本および黒本青本の在り方とは異なるかたちで黄表紙の中でのそれらの姿が象徴化されていったということを考慮すると、安永4年『金々先生
栄花夢』以降は全て黄表紙で「おとなの物」、それ以前は子供のものという認識を素直に受け容れるには躊躇せざるを得ません。
 実際、宝暦・明和期以来黒本青本を手掛けてきた画作者は安永4年以降しばらくは新板を刊行していますし、再摺や改題本の刊行もなさ
れていたようです。人々にとって、いかにも黒本青本らしい内容を持った草双紙は決して遠い存在ではなかったことも想像できます。
 そこで、大田南畝をはじめとするいわゆる黄表紙作者たちが作り出した鱗形屋を中心とした草双紙観を離れて、その他の黒
本青本に目を向けることによって、また別の草双紙の在り方がみえてくるのではないかと考えて、本研究は「富川房信」に着眼しています