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「富川房信」とは…
 富川房信は『菊寿草』にあるような鱗形屋板草双紙の変遷とは離れたところに位置する画作者です。房信は鶴屋や奥村といった様々な板元から作品を刊行していますが、草双紙に関しては、当時刊行の主流であった鱗形屋からは1作も刊行しておらず、鱗形屋の草双紙の変遷とは直接関わらないところで活動した人物だったといえます。確認しうる限りで、宝暦10年から安永6年まで作品を刊行しており、これはちょうど今日の文学史でいうところの、黒本青本全盛期から『金々先生栄花夢』登場間もない黄表紙草創期に当たります。
 草双紙の変遷を年代記仕立てにした、天明三年刊『草双紙年代記』(岸田杜芳作、北尾政演画)にも、鱗形屋板の黒本青本に続いて富川吟雪が挙げられており、黒本青本作者として占める位置が小さくなかったものと思われます。
 黒本青本には通常、絵師の署名だけがなされることが多く、作者の署名のあるものは少ないです。しかし、絵師が物語の執筆を兼ねたとは考え難く、黒本青本に板元毎に署名することのなかった作者が存在していた可能性が高いものと思われます。実際、後に丈阿をはじめとして、作者も署名するようになると、鳥居清経は柳川桂子、米山鼎峨といった作者と組んで作品を刊行するようになっています。それに対して富川房信は、現存する作品に関する限り、明和二年刊、丈阿作『白梅泰平〓』以外は全て、周りが作者名を伴う時期に入っても単独署名で作品を刊行しています。また、安永元年から富川吟雪の号を用い始めていますが、安永元年刊伊勢治板『敵討羽宮物語』(『敵討岩通羽宮物語』)の新板目録にも「作者絵師」として「房信事 富川吟雪」の名が挙げられています。後の例にはなりますが、安永5年刊の咄本『新落噺初鰹』にも「作者絵師 富川吟雪」という記載が見られます。作品の特徴についても、四天王物や化物種が多いなど、作品の題材にもある程度の傾向を読み取ることができますし、作中に用いる表現についても同様のことが言えます。以上のことから考察すると、全てではないにせよ、「富川房信画」「富川房信筆」とある作品は、その物語の作者を房信が兼ねたものと考えられます。
 そこで、今後は作品の一点一点を精査することによって、作者や再摺改題、後の草双紙への影響関係等の諸問題を明らかにしていきたいと思っています。