「草双紙における流行語の位置」
 『近世文芸』第68号(平成10年6月)所収
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黄表紙の中には、赤本・黒本青本・黄表紙という変遷を意識した『御存商売物』『草双紙年代記』『稗史億説年代記』などの作品がある。天明二年刊『御存商売物』(北尾政演画作)では、「青本」(黄表紙)は流行の先端をゆくものとして、またそれとは対蹠的に「赤本」「黒本」は青本の流行を妬む時代遅れなものとして擬人化されている。作品中「大木の切口」「鯛の味噌ず」「四方のあか」といった流行語(注1)は「赤本」「黒本」と結びつけられ、それぞれの特徴を端的にあらわすものとして用いられている。天明三年刊『草双紙年代記』(岸田杜芳作、政演画)では、物語の前半を赤本および黒本青本の時代、後半を黄表紙の時代とに大きく分け、各場面を年代順にそれらの作者の作品に擬するという手法を用いている。黄表紙とそれ以前の草双紙が画文ともに対照的に描かれているが、本作でも幾つかの流行語が黒本青本と結びつけられている。享和二年刊『稗史億説年代記』(式亭三馬画作)では、より詳細に草双紙の変遷が描かれているが、やはり「ありがた山のかんがらす」など多数の言葉遊びの流行語が、赤本や黒本青本に習慣的に用いられる語として挙げられている。このように黄表紙の時代には、既存の黒本青本が前時代のものとして意識されるようになる。そして黒本青本を象徴する語として、流行語が趣向に取り入れられている。よって草双紙の変遷を考える上で、これらの語が作品がどのように用いられ、またどのように認識されていったのかを明確にする必要がある。
 右に挙げた諸作品に先立って、安永七年刊『辞闘戦新根』(恋川春町画作)では、「大木の切口太いの根」「どらやきさつまいも」「鯛の味噌ず」「四方のあか」「一ぱいのみかけ山のかんがらす」「放下師の小刀のみこみ印」「ならずの森の尾長鳥」「てん上みたか」「とんだ茶釜」という九種の流行語が擬人化され、草双紙を代表させる主要な趣向として位置づけられている(注2)。この作品の梗概は「草双紙の氏神」と称する「大木の切口太いの根」以下の流行語が、最近自分たちが大切にされないのを不服とし、「とんだ茶釜」の讒言も聞き入れず、様々な方法で作者や鱗形屋とみられる板元を苦しめるものの、「坂田金平」「牛若丸」「はちかつき」などによって懲らしめられ、結果的に「洒落の世の中」の現状では、これらの流行語がなくては「草双紙の趣向あがったり」だとして、特別に許されるというものである。このように各語は、最終的には草双紙に不可欠だとされるものの、自称「草双紙の氏神」にしては、それほど大切にされていないものとして描かれている。
 では、流行語を趣向としたこの作品にみえる各語をたどることによって、その実態を明確にすることから初めてみたい。

   a 大木の切口太いの根

 今回収集した用例をみると、「とんだ茶釜」以外の語にはほぼ同様の傾向がみられるが、その中で最も特徴的なのは「大木の切口太いの根」である。この語句は、「根」を添える言葉遊びのひとつであり、全体で「ふとい」の意をあらわす。「根」は「太い」以外の語とも結びつき、「…の根」の形で語調を整えたり、意味を強めたりする(注3)。その中でも「太いの根」となっている例が多く、今回調査した六百五十五作品の内(注4)、「…の根」の用例二十五点三十例中二十例を占めている(注5)
 「大木の切口太いの根」はこの「太いの根」に「太い」から連想される語を添える形である。「大木の生え際」を添えた形もあるが、これも併せて用例を挙げると以下の通りである。
 @明和元年刊『金売橘次分別袋』鳥居清倍または清満画。鱗形屋。
   うぬがしうちは、大ぼくのはへぎはでふといのねときてゐる
 A安永元年刊『沙門大黒舞』清経画。鱗形屋。
   ひこちやにせふとはきついはりこみ、大はへぎはときたそ
 B刊年不明『話加減〓薬』清経画。鱗形屋。
   大ぼくのはへぎはてふといのねときた
 C安永四年刊『三人禎者真敵打』清経画。鱗形屋。
   大ぼくのはへぎはでふといのねときた
 D安永六年刊『金父母』深川錦鱗作、清経画。鱗形屋。
   われも大ぼくのはへぎはてさてもふといのねときたは
 E同年刊『南陀羅法師柿種』朋誠堂喜三二作、春町画。鱗形屋。
   うぬふるいせりふだか、大ほくのきり口ふといのねときた
 F安永七年刊『熊坂伝記』清経画。鱗形屋。
   われらは大ぼくのはへぎはでふといのねといふせかいだ
 G同年刊『夢中海原』清経画。鱗形屋。
   ほんのたいぼくのはへぎわてふといのねときた
 H同年刊『辞闘戦新根』春町画作。鱗形屋。
   こうふみつけられては、あたまか大木の切口いたいのねだ
 I天明二年刊『御存商売物』政演画作。鶴屋。
   くろぼんは、しよせんたひぼくのきりくちくらひでは、けちをつけることはおもひもよらずと
 J天明三年刊『草双紙年代記』杜芳作、政演画。泉市。
   くろぬしめが、あのかつはやのはけといふつらていろ事とは、大木のはへきはふといのねときた
 K天明四年刊『従夫以来記』竹杖為軽作、喜多川歌麿画。蔦屋。
   丈阿がそうしに、大木の切口でふといの根ときて、がてんかくなどゝ申は、いたつての古ぶんじて
 L天明四年刊『吉原大通会』春町画作。岩戸屋。
   すい瓜のきり口丸寿の字はどうふだ。大木のきり口よりきびしいのねだろう
 M享和二年刊『稗史億説年代記』三馬画作。西宮。
   ○赤本時代の詞くせを早く覚ゆるうた△大木のはへきはときてふとじるし、てんとふといの根じやふてらこい
この語句は明和初年から天明、享和のころまでの長期にわたってみられるが、用例数はわずか十四例で、「草双紙の氏神」にしては使用頻度が高いとはいえない。また、黒本青本から黄表紙までの広範囲に用例がみられるが、個々をみてみると、次第にその位置づけが変化している。
 赤本・黒本青本では@『金売次分別袋』以来、基本的には「太い」の言葉遊びとして用いられている。特に鱗形屋板で鳥居派の絵師の作品に用例の多くがあり、黒本青本以来の画作者である清経の作品では、黄表紙時代に入っても踏襲されている(ABCDFG)。ところが黄表紙の時代に新たに登場した作者の作品では、従来とは異なった意識で用いられている。まずE『南陀羅法師柿種』では、鱗形屋板で清経画の作品にこの語が盛んに用いられている時期にも関わらず、「古い科白だが」という前置が付されている。K『従夫以来記』では、丈阿と結びつけ、古文辞と掛けることで時代遅れであることが示唆されている。L『吉原大通会』では「太い」の意の洒落としては機能せず、「西瓜の切口丸寿の字」の比較対象として挙げられている。M『稗史億説年代記』では、完全に前時代の語として位置づけられている。このように、この語は元来の「太い」の流行語としての機能は次第に失われ、代わりに古めかしい言葉、前時代の黒本青本特に鱗形屋の作品を連想させる言葉として概念化されていくのである。
 また、この語句は「大木の切口」と「大木の生え際」の二つの型に分かれている。「大木の切口」型の初出は安永六年刊『南陀羅法師柿種』である。安永七年刊『辞闘戦新根』、天明四年刊『吉原大通会』でも「大木の切口」型が用いられており、春町はこの語を「大木の切口太いの根」の形で認識していたと考えられる。この考え方に従えば、鱗形屋の黒本青本には「大木の切口」型の例があるはずだが、現在のところこの型の用例はみられず、元来は存在しなかったものと推測される。「大木の切口」型は、喜三二や春町の他、竹杖為軽・京伝といったいわゆる黄表紙作者の作品でも用いられているが、これは喜三二や春町といった作者が何らかの理由で「大木の切口」型を用いたのを、後の一部の作者がそのまま踏襲したものとも解せる。よって「大木の切口」という語句に関しては、流行語が草双紙に取り入れられたものではなく、作者が新たに作り出したものと考えた方が自然だといえよう。このように黄表紙の時代に入ってから生み出された「大木の切口太いの根」は、一部の作者によって踏襲されることにより、結果的に黒本青本を象徴するものとして次第に固定化していくのである(注6)

   b どらやきさつまいも

 「どらやき」「さつまいも」は一対で扱われることが多い。『辞闘戦新根』に「寝惚先生の詩集にも出」とあるが、明和四年の『寝惚先生文集』(大田南畝著)には「読絵草紙」として、「銅鑼焼甘藷」をはじめとする幾つかの語が挙げられており、すでに明和ごろには、これらの語が草双紙と結びつくとする見方があったことが窺える(注7)。また、「大木の切口太いの根」と同様に、鱗形屋板で鳥居派の絵師の作品に用例の多くがみられ、九点中四点を占めている(表1)。黄表紙での位置づけにも、変化がみられる。安永六年刊『花見帰嗚呼怪哉』(深川錦鱗作、春町画)では「山海の珍味は言うに及ばず、鯛の味噌ずに四方のあか、どらやきさつま芋は古しとて」とし、同年刊『南陀羅法師柿種』でも「お礼にはどらやきさつまいもの類はよしにいたして、日本で名高いひきの屋のどらやきを差し上げましやう」とし、「ひきの屋のどらやき」に及ばないものとして位置づけられている。同年刊『三舛増鱗祖』(春町画作)は鱗形屋の宣伝を兼ねた作品なので、同書肆の伝統的な黒本青本を連想させる表現のひとつとしてこの語が挙げられているとも解せる。寛政四年刊『桃太郎発端話説』でも、黒本青本を連想させるために取り上げられた流行語の一例として挙げられている。以上のように「大木の切口太いの根」とほぼ同様の傾向がみられる。

  表1 どらやきさつまいも

刊年 題名 画作者 板元
宝暦 十二 寺子短歌 鳥居清倍または清満画 鱗形屋
明和 七 契約石宝殿 鳥居清経画 鱗形屋
不明 駒軍象戯始 鳥居清満画 鱗形屋
安永 五 上下の番附 鳥居清経画 鱗形屋
安永 六 南陀羅法師柿種 朋誠堂喜三二作、恋川春町画 鱗形屋
安永 六 花見帰嗚呼妖哉 深川錦鱗作、恋川春町画 鱗形屋
安永 六 三舛増鱗祖 恋川春町作・画 鱗形屋
安永 七 辞闘戦新根 恋川春町作・画 鱗形屋
寛政 四 桃太郎発端話説 山東京伝作、勝川春朗画 蔦屋

   c鯛の味噌ず・四方のあか
 これらもまた対で用いられることが多い。「四方のあか」は三十九点にみられるが、その内「鯛の味噌ず」と対の例は十一点にみられる(表2)。『寝惚先生文集』に「鯛味噌津四方酒」とある点からいっても、黒本青本の用例が多数あってもよいはずだが、いわゆる黒本青本作者の作品の用例は安永四年刊『富突始』(清経画、鱗形屋)のみで、他の語句のように鱗形屋の作品の用例が集中するといった傾向はみられない。ただし酒と酒肴を組み合わせた例に範囲を広げると、「うさぎに根深を入て、吸い物をこしらへて、四方のあかと出掛けたい」(安永元年刊『明石松蘇利』清経画、鱗形屋)「鯛の焼味噌でたきすいを出しませふ」(刊年・画作者不明『源太夫』鱗形屋)など、鱗形屋板の作品を中心に多くの用例がみられ、黒本青本についていえば、「鯛の味噌ず」と「四方のあか」の組み合わせは、酒と酒肴と組み合わせる例のひとつに過ぎない。それに対して黄表紙では、「四方のあか」の組み合わされるのは必ずといってよいほど「鯛の味噌ず」で、これらは一対のものとして固定化されている。また、安永六年刊『花見帰嗚呼怪哉』では先掲の通り古いと評され、天明八年刊『悦贔屓蝦夷押領』(春町作、政美画)に「昔ならば鯛の味噌ずに四方のあか一ツぱいのみかけ山といふ場だ」とあることなどから、黄表紙では単なる言葉遊びの流行語としてではなく、時代遅れ奈語句だという意識の下で用いられたと解せる。これらのことは、実際の黒本青本とは別に、黄表紙の中で独自に黒本青本を連想させる表現というものが形成されたことを示していると考えられる。

   表2 鯛の味噌ず・四方のあか
刊年 題名 画作者 板元
安永 四 富突始 鳥居清経画 鱗形屋
安永 五 化物大江山 恋川春町作・画 鱗形屋
安永 六 親敵討腹皷 朋誠堂喜三二作・恋川春町画 鱗形屋
安永 六 花見帰嗚呼妖哉 深川錦鱗作、恋川春町画 鱗形屋
安永 七 辞闘戦新根 恋川春町作・画 鱗形屋
安永 九 時花兮鶸茶曾我 芝全交作、北尾重政画 鶴屋
天明 二 御存商売物 北尾政演作・画 鶴屋
天明 三 楊柳桜草 宿屋飯盛作、勝川春林画 不明
天明 四 吉原大通会 恋川春町作・画 岩戸屋
天明 八 悦贔屓蝦夷押領 恋川春町作、北尾政美画 蔦屋
天明 八 鎌倉太平序 恋川春町作・画 鱗形屋

   d 一ぱいのみかけ山のかんがらす

 この語句は「一杯のむ」の意で、「山」を添える言葉遊びのひとつである。「山」を添える言葉遊びは古くから見受けられ、単に「山」を添えるものの他「ありがた山のほとゝぎす」「のみこみ山桜」「ありま山」など、様々な形で赤本から末期の黄表紙にいたるまで盛んに用いられている。ただし、黄表紙の用例の中には、時代遅れな語として、また黒本青本と結びつく語として用いられた例がみられる。「古けれど一ぱいのみかけ山のかんがらす」(安永八年刊『七人芸浮世将門』清経画、鱗形屋)(注8)「ちとひきかけ山のと言ふも久しいものさ」(安永九年刊『桃太郎宝噺』北尾政美画)「しめかけ山のかんがらすは古いによって」(天明元年刊『当世大通仏買帳』芝全交作)「一ぱいのみかけ山の古いことだがみそさゞい」(天明三年刊『悪抜正直曽我』春町画作)「これはありがた山吹くと洒落るも久いしいやつさ」(天明八年刊『会通己恍惚照子』京伝作、政演画)などとあり、時代遅れでありきたりな流行語として挙げられる例も目立つ。また、寛政四年刊『桃太郎発端話説』や享和二年刊『稗史億説年代記』でも「山」を添える流行語が黒本青本と結びつくものとして多数用いられており、この語についても他の語と同様の傾向がみられる。

   e 放下師の小刀のみこみ印

 この語句は「印」を添える言葉遊びのひとつで、「のみこんだ」「承知した」の意である。「印」を添える語も「山」の場合と同様、赤本から末期の黄表紙にいたるまで、多数の用例がみられる。「放下師の小刀」は「のみこむ」から連想される語句で、八点に用例がみられ(表3)、他の語と同様に、鱗形屋板で清経画の作品が、用例の多くを占めている。安永九年刊『千秋楽鼠の娵入』(鳥居清長画)では「放下の小刀も久しいもんだ」とされ、寛政四年刊『桃太郎発端話説』でも黒本青本を連想させる語として挙げられており、黄表紙での用いられ方についても他の語句と共通する。

   表3 放下師の小刀…
刊年 題名 画作者 板元
明和 七 瀬川結綿 鳥居清経画 鱗形屋
安永 元 忰褒医 鳥居清経画 鱗形屋
安永 元 沙門大黒舞 鳥居清経画 鱗形屋
安永 五 上下の番附 鳥居清経画 鱗形屋
安永 七 辞闘戦新根 恋川春町作・画 鱗形屋
安永 七 参幅対紫曾我 恋川春町作・画 鱗形屋
安永 九 千秋楽鼠の娵入 鳥居清長画 松村
寛政 四 桃太郎発端話説 山東京伝作、勝川春朗画 蔦屋

   f ならずの森の尾長鳥・てん上みたか

 これらについても、用例の多くが鱗形屋板で鳥居派の絵師特に清経の作品にあり、黄表紙中に黒本青本と結びつく語として挙げられる例がみられる点において他の語と共通している(表4・5)

   表4 ならずの森の…
       「尾長鳥」の他「みそさゞい」「大天狗」などを伴う語を含む。
刊年 題名 画作者 板元
不明・赤本 鼠のよめ入り 不明 不明
不明 七小まち 不明 鱗形屋
安永 四 富突始 鳥居清経画 鱗形屋
安永 五 上下の番附 鳥居清経画 鱗形屋
安永 七 辞闘戦新根 恋川春町作・画 鱗形屋
寛政 元 奇事中洲話 山東京伝作、北尾政美画 蔦屋
寛政 三 人間一生胸算用 山東京伝作、北尾政演画 蔦屋
寛政 四 桃太郎発端話説 山東京伝作、勝川春朗画 蔦屋
寛政 八 怪席料理献立 望月窓秋輔作 榎本屋

   表5 てん上みたか
       「てん上をみる」「てん上をみてこます」などの語を含む。
板元
明和 元 妖敲込 鳥居清倍または清満画 鱗形屋
明和 七 契約石宝殿 鳥居清経画 鱗形屋
明和 七 東西こん/\ちき 鳥居清経画 鱗形屋
安永 元 明石松蘇利 鳥居清経画 鱗形屋
安永 元 悪源太忿怒霹靂 鳥居清経画 鱗形屋
不明 悪源太平治合戦 鳥居清重画 鱗形屋
不明 柳にまり 鳥居清満画 鱗形屋
不明 煙草恋中立 鳥居清倍画 鱗形屋
安永 四 水車智恵篁 鳥居清経画 鱗形屋
安永 四 善知鳥物語 鳥居清経画 鱗形屋
安永 四 金紙屑 鳥居清経画 鱗形屋
安永 五 上下の番附 鳥居清経画 鱗形屋
安永 六 月星千葉功 鈴木吉路作、恋川春町画 鱗形屋
安永 七 辞闘戦新根 恋川春町作・画 鱗形屋
安永 七 〓染黄八丈 幾久作、鳥居清経画 西村
安永 七 熊坂伝記 鳥居清経画 鱗形屋
安永 七 夢中海原 鳥居清経画 鱗形屋
安永 八 浮世奢判官 呉増左作、鳥居清経画 伊勢治
天明 二 昔咄し虚言桃太郎 伊庭可笑作、鳥居清長画 岩戸屋
天明 三 草双紙年代記 岸田杜芳作、北尾政演画 泉市
天明 八 鎌倉太平序 恋川春町作・画 鱗形屋
寛政 四 桃太郎発端話説 山東京伝作、勝川春朗画 蔦屋
寛政 八 信有奇怪会 十返舎一九作・画 岩戸屋
寛政 八 怪席料理献立 望月窓秋輔作 榎本屋

   gとんだ茶釜
 この語は『辞闘戦新根』に登場する流行語の中で、異色な存在である。この語は「驚いた」の意で、語源には幾つかの説があり、『辰巳園』をはじめ諸書で論じられているが、笠森お仙の評判と明和七年のお仙の出奔騒動によって明和ごろ流行したことは確かなようである(注9)。九点にこの語句がみられるが、『辞闘戦新根』を除くと、明和八年から安永六年までの、清経や富川房信といったいわゆる黒本青本作者の作品に限られている(注10・表6)。清経の作品が多いため、一見他の語と傾向が似ているが、その内鱗形屋板は二点のみで、黒本青本の用例がほぼ鱗形屋板に限定される他の語とは、傾向が異なる。房信は鱗形屋との関係が薄く、先に挙げたような言葉遊びの流行語をほとんど用いないが、この語については三点で用いており、その点からも異質であることが分かる。以上のことから『辞闘戦新根』で「わたくし近ごろ評判衰へしゆへに申ではなけれども」と自らが語るように、この語句は一時期の流行語で、鱗形屋板の黒本青本に盛んに用いられている他の流行語とは性質を異にしているといえる。そして、この「とんだ茶釜」を他の流行語に相対する登場人物として取り上げているということは、作者春町が他の語を単なる言葉遊びの流行語としてではなく、黒本青本を象徴するものとして意識していたことを示していると考えられる。

   表6 とんだ茶釜
刊年 題名 画作者 板元
明和 八 色道助力 鳥居清経画 鱗形屋
安永 元 功薬鑵平 鳥居清満または清経画 鱗形屋
安永 元 狸の土産 鳥居清経画 村田屋
安永 二 木曽四天王化物退治 富川吟雪画 奥村
不明 化物とんだ茶釜 富川房信画 不明
安永 四 振袖児手柏 富川吟雪画 松村
安永 五 唐文章三笠の月 鳥居清経画 松村
安永 五 桃登酒雀道成寺 鳥居清経画 松村
安永 七 辞闘戦新根 恋川春町作・画 鱗形屋
天明 元 当世大通仏買帳 芝全交作、北尾重政画 鶴屋

 以上のように、『辞闘戦新根』に取り上げられた流行語のほとんどは、用例の所在から黒本青本の中でもとりわけ鱗形屋の作品で盛んに用いられた語であるといえる。このような言葉遊びの流行語(注11)何らかの形で用いられる作品は、黒本青本全体では三百一点中七十八点で約二割半にあたり、これらの語が登場する作品一点あたりの頻度は約一・六回である。これを鱗形屋板と他の板元とに分けてみてみると、その差は大きい。用例のみられる七十八点の内、鱗形屋板は三十七点で、今回調査した鱗形や板の黒本青本百二十六点の約三割にあたる。また、一点あたりの頻度は約三回である。それに対して、他の板元の作品では、用例がみられるのは百七十五点四十一点で約二割にしかあたらない。一点あたりの頻度についても約一・二回(注12)と、鱗形屋板の場合に比べ著しく低くなっている。『辞闘戦新根』では、これらの流行語は鱗形屋の草双紙に属するとは明記されていないが、挿絵にみえる商標(三丁表・五丁裏)からも鱗形屋と結びつく語として意識されているのは明らかである。天明元年の南畝の黄表紙評判記『菊寿草』の序文で、鱗形屋が「汝ばかりは古風を守り」一貫して用いた語として「鯛の味噌ず」「四方のあか」「のみかけ山のかんがらす」「大木の生え際太いの根」「がてんか〓〓」の語が挙げられている。今回の調査結果も、この南畝の見解を裏付けるものである。天明三年刊『草双紙年代記』でも、こういった流行語は全て鱗形屋板で鳥居派の絵師の作品として設定される場面で用いられている。それに対して同じ黒本青本の場面でも、房信画作、丸小板で丈阿作(注13)の作品として設定される場面では、流行語の類は一切用いられていない。このように実際の作品の傾向を踏まえた上で流行語が用いられており、各場面を設定毎に描き分けるという本作の意図を効果的にあらわすものとなっている。
 しかし、黄表紙の中には『御存商売物』『桃太郎発端話説』『稗史憶説年代記』のように、黒本青本全体を象徴するものとしてこれらの流行語を用いている例も少なくない。しかし実際の用例をみると、黒本青本の中で言葉遊びの流行語を盛んに用いているのは専ら鱗形屋板である。これは最も多くの黒本青本を世に出した鱗形屋やその作品を、黒本青本全体を象徴するものとして概念化されるにいたった拠り所として、これらの諸作品に先立って刊行された『辞闘戦新根』を想定することが可能かと思われる。


    二

 
 「大木の生え際太いの根」をはじめとする言葉遊びの流行語が、鳥居派の絵師が画工をつとめる鱗形屋の作品に多用されていることについてはみてきた通りである。そこで次に鱗形屋板におけるこれらの語の用いられ方を検討してみたい。
 鱗形屋板の黒本青本は、他の板元に比べ、全体的に流行語が登場する頻度が高いが、その中でも繰り返して何種類もの流行語が用いられているのは、宝暦終わりから安永にかけて刊行された「鳥居清満画」ないしは「鳥居清経画」の作品である(表7参照)。清満・清経といった鳥居派の絵師の作品には、通常作者の名は記載されておらず、従来それらの作品は画工が物語の創作も兼ねたと解されてきた。
 しかしながら、「鳥居清経画」となっている作品を、今回調査した流行語によってみてみると、署名をすることのない作者が存在した可能性を考えることができる。表7および8は「鳥居清経画」の作品を鱗形屋板と非鱗形屋板、作者名の記載の有無によって分類し、先程同様の傾向がみられた「どんだ茶釜」以外の八種の流行語とそれぞれに類する言葉遊びの語、および『菊寿草』で鱗形屋と結びつけられている。「がてんか〓〓」に範囲を広げて、該当する用例の所在と数とを一覧ににしたものである(注14)

   表7 「鳥居清経画」鱗形屋板 
     @作者名なし

刊年 題名 …根・大木の… どらやきさつまいも 鯛の味噌ず 四方のあか …山 印・放下師の小刀 ならずの森の… てん上みたか等 てんかがてんか
明和元 菊花千金猛 1 2 4 2
春霞清玄凧 1 1
明和七 近江国犬神物語 1 2 1
殺生石水晶物語 1
契約石宝殿 1 1 2 2 1
潮竈川原院
東西こん/\ちき 1
瀬川結綿 2 1
色道助力 1 1
安永元 明石松蘇利 1 1
忰褒医 1 2 2
沙門大黒舞 1 2 4
恋藤巴 1
功薬鑵平 1
悪源太忿怒霹靂 1 1 3
膏惚薬 1
色里通
不明 初心書
おなら 1
八わたしらず 1 1
つわものてから 1 2
をんなむしや
しんすい 1 1
話加減〓薬 1 2 2
安永四 水車智恵篁 1 2 1
善知鳥物語 1 2 2
富突始 1 2 2 1 1
金紙屑 1 1
吉原饅頭 1 3
三人禎者真敵打 1 1 1
安永五 盆踊濫觴
初笑福徳噺 1
上下の番附 2 2 2 1 1
夜明茶呑噺
芭蕉花 1 1
永七 酒呑宝易占 1 2 1
熊坂伝記 1 1 1 1 2
夢中海原 1 4 1 1 2
柳之夫婦侖 1 1 1
七人芸浮世将門 2

     A作者名あり
刊年 題名 画作者 根・大木の… どらやきさつまいも 鯛の味噌ず 四方のあか …山 …印・放下師の小刀 ならずの森の… てん上みたか等 がてんかがてんか
安永六 金父母 深川錦鱗 1 2 2
黄金山福蔵実記 林生 2 1
夢中御利益 呉増左

   表8「鳥居清経画」非鱗形屋板
     @作者名なし
刊年 題名 板元 …根・大木の… どらやきさつまいも 鯛の味噌ず 四方のあか …山 …印・放下師の小刀 ならずの森の… てん上みたか等 がてんかがてんか
明和 二 鉢かつき嫩振袖 鱗富 1
初春歳玉始 鱗富
明和五 三世相袖鑑 丸小
娘独婿八人 丸小
魚鳥大合戦 鶴屋
糸桜女臈蜘 丸小
祖父婆 村田屋
〓曾我物語 丸小
浮世夢助出世噺 西宮 1
安永 元 狸の土産 村田屋
不明 川隔小瀬世話 松村
万歳天狗面 丸小
大幸浮世盃 不明 1 2 1
安永 四 初恋松竹梅 伊勢治
天晴梅武士 鶴屋
万代矢口渡 伊勢治
足柄山子持山姥 伊勢治
二面勢 西宮
安永 五 菅原伝授手習鑑 村田屋
唐文章三笠の月 松村
桃登酒雀道成寺 松村
恋娘昔八丈 西村 1
御伽百物語 伊勢幸 1
佐世中山我身鐘 村田屋
伊達紙子笈捨松 松村 2 1
桃太郎手柄咄 伊勢幸
安永 六 甲子待座鋪狂言 村田屋
君を松前 松村
糸桜本町育 西村
嗚呼孝哉 松村
恋濃弓張月 奥村
太平記 松村
買言葉 西村
安永 七 豆男栄花春 西村
四十七文字 西村
雷臍食金 奥村
善光寺 不明
縁草有馬藤 松村屋
天童若神子 西村

     A作者名あり
刊年 題名 板元 …根・大木の… どらやきさつまいも 鯛の味噌ず 四方のあか …山 …印・放下師の小刀 ならずの森の… てん上みたか等 がてんかがてんか
明和 四 太平兜人形 山本
安永 二 籬の菊 奥村
安永 四 絶道富士袴 奥村
十二支化物退治 伊勢治 1
春曽我歌舞妓姿 伊勢治
若縁色曽我 伊勢治
安永 五 木曾街道从義仲 伊勢治
今様女景清 鶴屋
敵討山吹流 伊勢治
皿郭武蔵鐙 伊勢治 1
豊歳銭塚之由来 伊勢治 1
万福長者玉 伊勢治
安永 六 三宝利生初竹 丸小
後日菅原鑑 伊勢治 1
扨茂其後白髪公時 鶴屋
相州白旗社 鶴屋
太平出世鉢木 伊勢治
往古昔猿之仇討 鶴屋
優美源氏鎧雛形 鶴屋 1 1
頼朝七騎落 鶴屋 1
花粧対兄弟 鶴屋 1 2
安永 七 筆累絹川堤 鶴屋 1
隅田川恋角文字 伊勢治
名玉里人談 伊勢治 1
帰花松之英 鶴屋 1
恋歌於万紅 伊勢治 1
〓染黄八丈 西村 2 1
安永 八 怪談豆人形 岩戸屋
大中黒名香勝凱 伊勢治
曲輪雀大通先生 岩戸屋 1
金平異国遶 岩戸屋 1
浮世奢判官 伊勢治 2 3
御物好薄雪染 伊勢治
初雪富士高根 伊勢治 1
卯花重奥州合戦 鶴屋

 一見して表7鱗形屋板と表8非鱗形屋板とに、歴然とした違いがあることが分かる。まず、表7鱗形屋板では、何らかの形で洒流行語が用いられているのは四十三点中三十六点で約八割にあたる。また流行語が用いられる際、作品中で何度も繰り返される場合が多く、一作品あたりの頻度も約三・六回と高い。それに対して、表8非鱗形屋板では傾向が一変している。板元不明のものを含めて非鱗形屋板の作品は七十四点あるが、その内流行語が用いられているのは二十二点で、約三割にすぎない。一点あたりの頻度も約一・三回と鱗形屋板の場合の約三分の一である。ちなみに、鱗形屋と関係の薄い房信の作品について同様に分類すると、流行語が用いられているのは一一〇点中二五点で約二割、頻度も約一回と、さらに低くなっている。このように、流行語は広く黒本青本全体に頻繁にみられるものではなく、もっぱら鱗形屋の作品で盛んに用いられたものであることが分かる。
 「鳥居清経画」となっている作品の内、作者名のないものは、従来の考え方からいえば、清経作ということになる。しかしながら、鱗形屋板と非鱗形屋板の作品を作者名の有無によって分類し、流行語の頻度を比較してみると、両者の違いはさらに大きくなっている(表7@・8@)。表7@鱗形屋板の場合、流行語が用いられている作品は四十点中三十四点で八割半、頻度も約三・六回である。従来の考え方に従えば、表8@非鱗形屋板も表7@の場合と同様の傾向がみられるはずだが、実際には、板元不明の作品を除くと、流行語は三十七点中五点の約一割にしか用いられておらず、頻度も約一・四回と著しく低い。このように、同じ「鳥居清経画」であっても、板元によって流行語の用いられ方に歴然とした違いがあるということは、それぞれの作品の内容の傾向を決定づけるもの、つまり画工と作者が別であることを示していると思われる。これは、作者の署名がない黒本青本については物語の創作をその画工が兼ねるという、従来の常識に反するものである(注15)。もしこのような状況にあって、清経自身が作者であったとするならば、清経が鱗形屋には鱗形屋向きの、他の板元にはそれ向きの物語を執筆したことになるが、毎年清経が手掛けた作品の多さを考えると、これはあまりにも不自然である。また、流行語が多用される作品が一定の時期に集中している点を併せて考えても、これらの作品にはある特定の作者が存在していたと考えた方が妥当だと思われる。よって「鳥居清経画」となっている作品は、清経自身が物語を執筆したのではなく、各板元に属した署名のない作者が物語を執筆し、その挿絵を清経が担当したと考えた方が妥当ではないかと思われる。
 『寝惚先生文集』および『菊寿草』の著者である南畝は、すでに触れた例からも明らかなように、早くからこれらの流行語に注目していたようだが、『一話一言』巻八に、以下のような注目すべき記事を著している。
  鱗(形)屋孫兵衛方絵草紙作者は、津軽侯内に居候吉兵衛と申候軽き者之作之よし。あだなをおぢいと申候。鯛の味噌づでよもの赤のみかけ山のかん烏などいふことば、此男のいひ出せし也と右藩中之人の話也。
この記事によれば、鱗形屋には「おぢい」と呼ばれる黒本青本作者がおり、この人物が「鯛の味噌ず」「四方のあか」「のみかけ山のかん烏」といった流行語を使い始めたという。これによれば、少なくとも鱗形屋の黒本青本には、画工とは別に作者が存在していたことになり、鱗形屋には言葉遊びの流行語をふんだんに用いた、署名することのなかった作者が画工とは別に存在したという先程の推測を裏付けるものである。よって今回の調査でその存在が推測される鱗形屋の作者が、この「津軽侯内に居候吉兵衛」通称「おぢい」そのひとであったと考えることも可能だと思われる。
 ただし、この「おぢい」に関しては、管見の限り『一話一言』にしか記述がみられない。また「鯛の味噌ず」「四方のあか」「のみかけ山のかん烏」という組み合わせも、先に述べたように、黒本青本を象徴する語として南畝によって観念化された形とも解せ、「おぢい」の作品から直接抜粋したものとは限らない。よって、言葉遊びの流行語を頻繁に用いる鱗形屋の作者を「おぢい」と断定するのはためらわれる。しかしながら、今回調査した結果から、黒本青本には板元毎に署名することのなかった作者が存在していた可能性は高い。そして、鱗形屋には「おぢい」でないとしても、これにあたる作者が存在していたことは確かであろう。


注1  これらの語を、森銑三氏は「通言」(『黄表紙解題』昭和四十七年、中央公論社)、水野稔氏は「黒本青本に新しい流行語としてしきりに草双紙に愛用された洒落言葉」(『黄表紙・洒落本の世界』昭和五十二年、岩波新書)、棚橋正博氏は「当時の流行語」(『黄表紙総覧』昭和六十一年、青裳堂書店)、小池正胤氏は「流行語」(「黒本・青本のゆくえ 黄表紙・合巻への投影」『黒本・青本の研究と用語索引』平成四年、国書刊行会)と称している。本稿ではこれらに従い、各語を「流行語」と称する・。これらの語が社会的に流行したか否かについては、いまだ明確に検証されてはおらず、この点については今後の研究課題とする。
注2  宇田敏彦氏「江戸時代の流行語」(『国文学解釈と教材の研  究』第四十二巻十四号、平成九年十二月)では、本作を「当代  江戸での流行語を画文ともども擬人化し、一編の趣向としたもの」と位置づける。
注3  「太いの根」以外の例としては、「てんと色の根ときているぞ」(宝暦十一年刊『大益天神記』画作者不明、鱗形屋)、「これはたまらぬ化物の根だ」(刊年および画作者不明『歌うら伝』鱗形屋)、「てんと美しいの根ときた」(安永七年刊『柳夫婦侖』清経画、鱗形屋)などがみられる。いずれも鱗形屋板の作品であり、表現も似ていることから「太いの根」と同様に「…の根」の言葉遊びと考えられる。また、安永六年刊『三升増鱗祖』にも「むご印むごいの根」の語がみえる。
注4  内訳は以下の通り。
       赤本四十八点、黒本青本三百一点、黄表紙三百六点。
注5  「太いの根」の用例の内、「大木の切口(生え際)」を伴わない例は、「太いの根」(宝暦十一年刊『大益天神記』、明和六年刊『鷹塚村旧跡』富川房信画、鶴屋、明和七年刊『契約石宝殿』)、「ふと印の根」(安永七年『酒呑宝易占』、天明四年『其昔龍神噂』春町画作)、「広口の投げ入太いの根」(同年刊『参幅対紫曽我』)、「太印太いの根」(安永九年刊『龍都四国噂』喜三二作)、「蓮池の蓮根で太ひの根無草」(天明四年刊『不案配即席料理』)、「牛の角切口太いの根付」(寛政四年刊『桃太郎発端説話』)である。
注6  瀬川如皐著『只今御笑草』序文(文化九年自序)でも「大木伐口ふとひの根と来た鱗形屋が新板、ふりにける哉五十年の昔噺」とあり、かなり後にもこの語が鱗形屋の黒本青本に属する語として認識されていたことが分かる。
注7  
 『大田南畝全集』第一巻所収(三五三頁)。該当部は以下の通り。
     読二 絵草紙一二首
   悪人太印太之根 石漆毎為跡式論 不是銅鑼焼甘藷事 山吹色可誑中元
   見初若殿忍姫家 礫打忠臣働命涯  鯛味噌津四方酒 一杯呑掛山寒鴉
  『一話一言』や『菊寿草』の記述から、右の「絵草紙とは、鱗形屋の作品を指すと推測される。
注8  流行語を盛んに用いる鱗形屋板で「鳥居清経画」の作品中で、流行語を時代遅れなものとして位置づけている非常に珍しい例。前年の『辞闘戦新根』の影響もあるとも解せる。
注9  『草双紙集』「狸の土産」解説(木村八重子氏執筆)によれ  ば、「とんだ茶釜」という語自体は明和以前「延享三年刊の江戸名物題材の絵俳書『俳諧時津風』」にすでにみられる。
注10  天明元年刊『当世大通仏買帳』(芝全交作)にもこの語がみえるが、これは流行語として用いられた例ではない。
注11  『辞闘戦新根』の九種の他、「根」「山」「印」を添える語など、それぞれに類する語を含む。
注12  板元不明の作品を除く。
注13  丈阿については、天明四年刊『従夫以来記』で「大木の切口で太いの根」「がてんか〓〓」と結びつけられている他に、享和二年刊『稗史憶説年代記』でも丈阿は「ナント子供衆がてんか〓〓の書入、此人より起こる」とされているが、実際にはこれらは鱗形屋と強く結びつくものであり、鱗形屋と関係の薄い丈阿の作品には、これらの語は特に見受けられない。これは、事実とは関係なく、丈阿が黒本青本を代表する作者として概念化されていたことを示していると思われる。
 「ナント子供衆がてんか〓〓」についても、実際の黒本青本と矛盾する点がみられる。また、「がてんかく」についても黄表紙では黒本青本と結びつけられる例が目立つが、その中には黒本青本にはみられない形を取る例が存在する。『稗史憶説年代記』の他、寛政四年刊『桃太郎発端話説』でもこの語を挙げているが、黒本青本には該当する例はない。「がてんか〓〓」という例は多くみられるが、安永六年刊『頼朝七騎落』(柳川桂子作、清経画)に「子供衆がてんか〓〓」の語がみえるのみで、現在のところ「なんと子供衆」とつく例はひとつもない。この「なんと子供衆」という読者への呼びかけは「当世流行の心学の師匠の口振りの真似」(『草双紙衆』「買飴帋凧野弄話」宇田敏彦氏語釈)であり、心学が流行した寛政期以降に黄表紙に持ち込まれた表現だと解せる。これらの例は、心学の師匠の口振りと、黒本青本以来の「がてんか〓〓」がある時点で混同された結果だと考えられる。この「なんと子供衆がてんか〓〓」という表現は、文化九年刊『武者修行鋭勇伝』(三馬画作)や天保十四年刊『運勢開談甲子祭』(為永春水作)にもみられ、黄表紙時代以降にもひとつの固定化された表現として受け継がれている。
注14  各流行語を、「根」および「大木の…」を添える語、「どらやきさつまいも」「鯛の味噌ず」「四方のあか」「山」を添える語、「印」を添える語、「ならずの森の…」となっている語、「てん上みたか」に類する語、「がてんかく」とに分類し、各用例のみられる作品についてその回数を示した。
注15  鳥居派の絵師が挿絵と併せて物語の作者を兼ねたとされる作品に、署名することのなかった作者が既に存在していた可能性については、佐藤悟氏「丈阿覚書」(『実践女子大学文学部紀要』平成二年三月)に指摘がある。
注16  『大田南畝全集』第十二巻所収(三四五頁)。鈴木俊幸氏「板元と作者 ―草双紙を中心に―」(『国文学解釈と鑑賞』平成六年八月号)では「おぢい」について「この隠れた作者は下級武士の内職としてありがちな筆耕であったと考えるのが自然」だとする。
 
〔付記〕 本稿は平成九年度日本近世文学会秋季大会(於天理大学)における口頭発表をもとにまとめたものです。今回の調査にあたり資料の閲覧を許可下さった都立中央図書館をはじめとする各所蔵機関に感謝いたします。また、発表の前後に、鈴木重三先生・木村八重子先生・中山右尚先生をはじめ諸先生方に有益な御教示を賜りました。心より御礼申し上げます。