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大田南畝の随筆『一話一言』には、以下のような一節がある。
鱗(形)屋孫兵衛方絵草紙作者は、津軽侯内に居候吉兵衛と申候軽き者之作之よし。あだなをおぢいと申候。鯛の味噌づでよもの赤のみかけ山のかん烏などいふことば、此男のいひ出せし也と右藩中之人の話也(注1)。
これは、鱗形屋に「津軽侯内に居候吉兵衛」通称「おぢい」なる作者がおり、「鯛の味噌づでよもの赤のみかけ山のかん烏」などの言葉遊びの語句を使い始めたとするものである。 このような言葉遊びの語句は、安永七年刊『辞闘戦新根』、天明二年刊『御存商売物』、天明三年刊『草双紙年代記』、享和二年刊『稗史憶説年代記』などに見え、南畝自身も、天明元年の黄表紙評判記『菊寿草』の序文で「大木の生え際太いの根」「鯛の味噌ず」「四方のあか」「のみかけ山のかんがらす」などの語句を、鱗形屋が「汝ばかりは古風を守り」用いたものとして挙げている。これらの言葉遊びの語句は、前時代の黒本青本を象徴する語であり、同時代の文芸と密接な関わりを持っていた。
 黒本青本の場合、作者の署名がなく、画工の名のみ記されている作品が多い。よって『一話一言』の記事は、黒本青本の作者の問題を考える上で、重要な手掛かりとなるものである。しかしながら、この「津軽のおぢい」に関しては、従来『一話一言』以外に資料がなく、現在のところ、その実像は明らかにされていない(注2)。
 ところが、享和二年刊『狂歌左鞆絵』(注3)(尚左堂俊満序)の序文には、以下のような注目すべき一節がある。
たはれ詞に用るともゑは弓矢八幡誉田の鞆の絵にもあらす。もろこし人の觴をなかせし巴字にあらず、是はあさらけき鱗形屋かふる草紙に、津軽の人破笠翁か大木の切口ふといの根、とんと市川門之助か若衆かたときてゐる、紅魚のみそずで四方の赤、飲かけ山のかん烏とをどけ書たるを、安永のころ牛込の大人たはれ歌の名に用られしこそ此道中興開山には有けれ。
これは「牛込の大人」すなわち南畝について記したmので、彼の別号である「四方赤良」あ、鱗形屋の古い草双紙にみられた「紅魚のみそずで四方の赤」に由来したと説明するものである。言葉遊びの語句と鱗形屋の作品とを結びつけている点は、先に挙げた『一話一言』や『菊寿草』と共通しているが、今回掲出の『狂歌左鞆絵』では、その作者として新たに「津軽の人破笠翁」という人物が挙げられている。津軽という地名や老齢の男性であること、そして取り上げられている語句の共通性から、『一話一言』の「津軽のおぢい」と同一の人物を指すとも考えられるのだが、はたしてどうなのであろうか。
 「破笠翁」とは小川破笠 を指すと考えられる(注4)。俗称は平助、字は尚行で、寛文三年に生まれ、青年期に松尾芭蕉の門下に入って俳名宗宇を名乗った。五十代後半のころから漆工芸を始め、享保八年、六十一歳の時に津軽藩に召し抱えられてからは、厚い保護の下、今日「笠翁細工」ないしは「破笠細工」の名で個性的な作品を次々と製作したことでも知られる。二世市川団十郎との関係も深く、享保十五年刊の初世団十郎の追善句集『父の恩』に発句および彩色刷の挿絵を掲載している。また、翌享保十六年にも、津軽信寿の版刻した『独楽徒然草』にも発句と挿絵を掲載しており、江戸文壇との関わりの深い人物であった。延享四年六月三日、八十五歳で没した。
 晩年に江戸で津軽侯に仕えているという点では「津軽のおぢい」と条件が重なる。しかし、『狂歌左鞆絵』が破笠を「鱗形屋かふる草紙」の作者としている点には、いくつかの問題がある。
 まず、言葉遊びの語句が盛んに用いられている黒本青本の作品群との関係である。それらはおおむね明和から安永期の作品に限られており(注5)、延享四年に没した破笠が、これらの作品を執筆したとは考え難い。
 また、『狂歌左鞆絵』の「とんと市川門之助か若衆かたときてゐる」という表現についても問題がある。このように役者の名を出して男女の容姿を評する表現は、「あのあんちんとやら云山伏は、板東彦三か松本幸四郎ときている」(宝暦八年間『道成寺根元記』鳥居清倍または清満画。鱗形屋刊)、「そちがぶたいかほは、瀬川今路考ときてはいりが」(明和七年刊『潮竈川原院』鳥居清経画。鱗形屋刊)などがあり、この表現と鱗形屋の草双紙とを結びつけている『狂歌左鞆絵』は、事実と矛盾しない。しかしながら、二世市川門之助がこの名を襲名したのは明和八年、破笠の没後のことである。
 以上のことから、言葉遊びの語句を頻繁に用いた作品群の作者が小川破笠である可能性は低い(注6)。よって「破笠翁」すなわち小川破笠であるという『狂歌左鞆絵』の一節は、事実に即したものではなく、何らかのきっかけで後に生じた説であると考えられる。 それでは、なぜ「津軽のおぢい」と「破笠翁」は結びつけられたのであろうか。『狂歌左鞆絵』の序文を著した窪俊満は、南畝と天明三年以降交流を持っているので(注7)、言葉遊びの語句を頻繁に用いた鱗形屋の作品群の作者について、両者の間で話題に上ることは十分に考えられる。よって両者が想定していた作者が、それぞれ同じ人物を指していたという見方も可能である。しかし、南畝が挙げている「津軽のおぢい」には、実像が明らかでないものの、俗称が「平助」の破笠 とは別に、「吉兵衛」という特定の名が挙げられていることや、「右藩中之人の話也」と、その拠り所が記されている点も考慮に入れなければなるまい。もし南畝が「吉兵衛」が破笠だと認識していたのであれば、そのことを併記したと考える方が自然だと思われる。よって、両者が結びつけられた原因は、南畝も俊満同様「津軽のおぢい」を破笠と想定していたためだと考えるよりは、むしろ南畝の説を何らかの形で知った俊満が、「津軽侯」にいた「おぢい」という情報から、誤って破笠に結びつけたと考えた方が自然ではないかと思われる。
 いずれにせよ、他に資料がない以上、「津軽のおぢい」の記事の真偽については、保留しなければならない。しかしながら、南畝をはじめとする人々が、鱗形屋の黒本青本に頻繁に用いられた言葉遊びの語句や、その作品群の作者について関心を持っていたのは事実であろう。


注1 『大田南畝全集』第十二巻所収。
注2 鈴木俊幸氏「板元と作者 −草双紙を中心に−」(『国文学解釈と鑑賞』平成六年八月号)、棚橋正博氏「草双紙の時代」(5)草双紙作者津軽のお爺」(『日本古書通信』第六十一巻第五号。平成八年五月)等。
注3 本書には、社中の配布本と市販本の二種がある。田中達也氏「窪俊満の研究(一)」(『浮世絵芸術』第百七号。平成五年一月)参照。
注4 小川破笠については『笠翁細工 小川破笠』(京都国立博物館。平成三年)をはじめ、灰野昭郎氏の論考による。
注5 拙稿「草双紙における流行語の位置」(『近世文芸』第六十八号。平成十年六月)参照。
注6 「破笠」を名乗った人物として、他に、小川破笠の門人であり、宝暦頃の人といわれる望月半山、および半山の門人であり、一説に酒井巨山といわれる子山が考えられる。ただし、両者の津軽藩との関係など、「破笠翁」にふさわしい人物であったか否かは、現在のところ未調査である。
注7 注3に同じ。

 『狂歌左鞆絵』の記事について御教示発表をお許し下さいました小林ふみ子氏に深謝いたします。

「「津軽のおぢい」資料」
 『実践国文学』第55号(平成11年3月)所収。