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     はじめに

 大東急記念文庫蔵『登無多茶釜』は二冊物の黒本青本である。この書名は貼付された書題簽によるもので、『大東急記念文庫書目』には『化物とんだ茶釜』という書名で掲載されている。柱題は「とんだちやがま」、画作者は富川房信で、板元は不明である。見返しには「宝暦十三年未歳」と墨書されている。
 『改訂日本小説書目年表』には、宝暦十三年の新板として『新版化物とんだ茶釜』(二巻、富川房信画、村田版)が、さらに明和七年の項にはその改題再摺として『化物とんだ茶釜』が挙げられている。『大東急記念文庫書目』に見える『化物とんだ茶釜』という書名はこの記載に拠るものと考えられるが、この問題については疑問の余地がある(注1)。『国書総目録』には、同書名の本が国立国会図書館と東洋文庫(岩崎文庫)に所蔵されるとしている。そのうち国立国会図書館本は内容の全く異なる別本であり、柱題も「ちやかま」となっている。原題簽を欠き、「化物とんだちやがま」と打付書がある(注2)。岩崎文庫本については同本といえるが、やはり原題簽を欠き、題簽の意匠や商標等から題名、刊年および板元を特定することができない(注3)。
 そこで、物語の内容からその刊年を探ってみたい。
 本書の梗概を以下に記す(物語の展開に即して適宜AからIの記号を付す)。
 A 道楽寺の薬鑵和尚は談義に役者の声色を交ぜ、後家や蓮葉な娘を眠蔵に引き込んだが、それが露顕し、寺を追い出される。仕方なく辻談義で生計を立てることとなる。(一丁表)
 B ある日和尚は酒に酔って道に迷い、美しい女に行き会う。その女と道連れになり、ついて行き、女とその乳母の歓待を受ける。しかし、実は二人とも狸で、和尚はそうとも知らず、馬の小便を酒と思ってしたたかに飲み、女と添い寝すると思い、草原で寝入る。和尚が寝入る中、姿をあらわした狸は和尚に金玉をひっかぶせる。目を覚ました和尚は狸にばかされたことに気づき、狸たちを追いかける。二匹の狸の内、一匹が逃げ遅れて草むらで茶釜に化け、それを見つけた和尚は喜んで持ち帰る。(一丁裏〜四丁表)
 C 和尚は覚えていた咽に魚の骨が立ったのを抜くまじないを利用して生計を立てるために、看板を出し、薬を三十六包作る。ある屋敷から若殿が河豚の骨を咽に立ったために呼ばれた和尚は、薬を一服用いた上でまじなう。骨は即座に抜け、痛みも直ったので、和尚は褒美に金子十両をもらう。(四丁表〜五丁裏)
 D その頃茶教亭自賢斎という茶の湯の宗匠の娘お香という美しい女がいた。そのお香を深井嘉右衛門の息子嘉十郎が見初める。(五丁裏)
 E 和尚は魚の骨を抜く薬を売り歩く以外に、その弁舌にまかせて嫁取り婿入りの仲人や家屋敷の世話などを引き受けていた。お香との結婚を八人から申し込まれた両親は返事に困り、当分縁組みは見合わせるとした。そこで嘉十郎は和尚に仲人を頼む。
 F 茶人となった和尚は、自賢斎宅を訪れ、お香と嘉十郎との縁組みをまとめようという企みの下、嘉十郎を弟子にしてほしいと頼む。しかし実は、お香には人目を忍び、深い仲にある自賢斎の門弟亀井大助がいる。
 G お香が催す初雪の茶の湯に、和尚は嘉十郎を伴い、茶教亭を訪れる。そこに亀井大助が白装束に無紋の上下で現れ、親の許しがないためにこの恋がかなわぬので、最期にお香を一目見て切腹すると言う。自賢斎は大助の心底を感じて娘との結婚を許す。当てが外れた嘉十郎は頭を掻き、和尚は残念がる。(六丁表〜九丁表)
 H せっかく仕組んだ婚礼口を外し帰宅した和尚は、嘉十郎の機嫌を直そうと家に招き入れ、先日野原で拾った茶釜で茶を沸かす。すると、茶釜が動きだし、熱さに堪えきれなくなった狸は、山へ飛んで逃げる。このことから「とんだ茶釜」という。(九丁裏・十丁表)
 I 亀井大助の切腹騒ぎは実はお香と夫婦になるための計略であった。夫婦になることができた二人は、幾千代かけて栄える。(十丁裏)
以上の梗概を参考に、本書にみられる幾つかの問題について考えたい。

     流行語「とんだ茶釜」について

 梗概で示したように、狸が金玉を坊主にかぶせる、逃げた狸が茶釜に化け、坊主がそれを持ち帰る(B)、拾った茶釜で坊主が茶を沸かすと茶釜に化けていた狸が正体を現す(H)といった場面から、本書はいわゆる「ぶんぶく茶釜」を題材としていることが分かる。本書ではさらに茶釜に化けた狸が飛んで逃げるのを「とんだ茶釜」という流行語と結びつける趣向が取り入れられている(H)。この語については諸書で論じられているが、太田南畝の『半日閑話』には、以下のように記されている。
○とんだ茶釜 明和七年庚寅二月、此頃とんだ茶がまが薬鑵に化けた、と云詞はやる。按るに、笠森お仙他に走りて、跡に老父居るゆへの戯れ事とかや
右のように「とんだ茶釜」は、評判の美女笠森お仙に由来する流行語である。幕府の御家人倉地甚左衛門に嫁入りしたため(注4)、明和七年二月にお仙の出奔騒動が起こり、「とんだ茶釜が薬鑵に化けた」という形がさらに生まれた。ただし、「とんだ茶釜」という語自体はもっと古くからあり(注5)、この語だけをもって本書を明和期と結びつけることはできない。「とんだ茶釜が薬鑵に化けた」という形は明和七年以降に登場するものなので、「薬鑵和尚」が主人公である本書はそれ以降に刊行されたものとも解せるが、流行語として用いられたものでないので、再考の余地がある。
 また、これまで調査した内、本書以外で「とんだ茶釜」が作品中に用いられた草双紙には以下のようなものがある(注6)。
  刊年不明『化物とんだ茶釜』(富川房信画)※国立国会図書館蔵
    ぜんだいみもんとんだちやかまだそりやでたは(五丁表)
  明和八年『〓報色道助力』(鳥居清経画、鱗形屋)
    あのつらでいろをせうとはとんだちやがまだ(三丁表)
  安永元年『金時狸の土産』(鳥居清経画、村田屋)(注7)
    これがほんのとんだちやがまだ(二丁表)
  安永元年『分福茶釜功薬鑵平』(鳥居清満または清経画、鱗形屋)(注8)
    とんだちやがまがやくわんとばけたのじや、がてんか/\(八丁表)
  安永二年『木曽四天王化物退治』(富川吟雪画、奥村)
    とんだちやがまややかんがはけておなまやうだ/\(十一丁裏)
  安永四年『大伴真鳥振袖児手柏』(富川吟雪画、松村)
    いちみはまさしくまんはちだとおもつたがこりやとんだちやがまだ(九丁表)
  安永五年『養老瀧続後編唐文章三笠の月』(鳥居清経画、松村)
    こりやおもしろいとんだちやがまだ(四丁裏)  
  安永五年『往古新今桃登酒雀道成寺』(鳥居清経画、松村)
    とんだちやがまだかのばゞにいきうつし(二丁裏)
以上のように、これまで調査した限りでは明和七年以前と確定できる用例はみられない。これはこの言葉が明和七年二月の笠森お仙出奔騒動後、明和八年の新板以降に盛んに用いられたことを示しているとも解せる。また、後に「吟雪」と号を改めた本書の作者富川房信の作品に複数の用例がみられ、この語を好んで用いたことがうかがえる。

      『風流茶人気質』との関係について

 先に述べたように、本書は分福茶釜を題材として、流行語「とんだ茶釜」を趣向に取り入れていることが確認できるが、次にはこれらの要素から外れる部分、すなわち梗概に挙げた、主人公の薬鑵和尚の人となり(A)、咽に魚の骨が立ったのを抜くまじないの話(C)、茶教亭自賢斎の娘お香の縁組みの話(D〜I)がどこからきたものであるのかが問題となる。
 ここでは、右に挙げた各場面について、大東急記念文庫蔵『登無多茶釜』および岩崎文庫蔵『とんだちやがま』(筆者注、以下『とんだ茶釜』と記す)明和七年正月刊行の浮世草子『風流茶人気質』(永井堂亀友作、京都野田藤八ら板)との関係について考察し、両書の関係について確認してみたい。

  (一)咽に魚の骨が立ったのを抜くまじないの話
 まず、『とんだ茶釜』四丁表から五丁裏の場面とほぼ同様の話が、『風流茶人気質』巻之四中の一話「薬九そう倍から上に成奇妙な咒を仕合た御馳走の膳の向へ附た壱封」にみえるので、両書を比較してみたい。
 『風流茶人気質』では、主人公は薬鑵和尚ではないものの、「関東の出家落」である僧が、
出家はふさはぬ故何ぞ外の口すぎにかゝる事をと心懸られしが。此僧とかく咽に魚の骨の立たを抜まじなひをよふ覚居らるゝ故これをふと思ひ出し
と医者を始める。一方、『とんだ茶釜』では、主人公薬鑵和尚は、
しゆつけはふさわぬゆへほかの事てくちすぎせんとくふうしてさいわいのどにうをのほねのたつたをぬくまじなひをおぼへているゆへふとおもひつきかんばんをいだされける
と咽にささった魚の骨を抜くまじないが登場する。薬の作り方についても類似しており、『風流茶人気質』では、
饂飩の粉を五六文がのとゝのへてきて。是に三文が丹土を細末してまぜ合せ。みの紙三枚六文で買て三十六枚に切。件の粉を少しつゝ包で薬卅六服こしらえ。まじなひでは銭が上らぬ故。魚の骨は覚えたまじなひでぬく前に此薬を飲ます
としているが、『とんだ茶釜』でもほぼ同様に、
うどんのこなにつちをさいまつしてまぜあわせみの紙三まいを三十六にきりてその粉をすこしつゝつゝみのどにうをのほねのたつたをぬくめいほう
としている。薬の価格は『風流茶人気質』では「二十四文」、『化物とんだ茶釜』では「廿四銅」で同額である。また、『風流茶人気質』では、主人公が薬を売り歩いていると、
大店からしきりによふ故はいつて見れは。重愛の一人息子十一二に成小児が鯒の骨をたて苦しみける故。ぞうけでなで或は風仙花のたねをうす味噌で煮て用ゆれども中々抜ず。
という場面に出会い、主人公はまじないを用いて骨を抜き、「金拾両」をもらう話がある。『とんだ茶釜』にも、
さる御やしきのわかとのふぐじるすいたまいしに、のどにふぐのほねをたてくるしみたまいしゆゑ一家中おどろきざうげでなであるひはほうせんくわのたねをみそでにてもちゆれどもなか/\ぬけず
という場面に出会い、やはり主人公まじないを用いて骨を抜き、「金子十両」をもらう話がみえる。
 また、『風流茶人気質』に、僧が「坊主の身で遊所通ひ野郎狂ひに身を打て師匠の金をぬすみし故。丸裸で寺をおいはらはれます様な悪性者」の息子がいること、そのせいで自身も落ちぶれたことを語るが、この息子の人物像は『とんだ茶釜』の薬鑵和尚のそれと重なる。

  (二)茶教亭自賢斎の娘お香の縁組みの話
 『とんだ茶釜』で五丁裏以降の話題の中心となっている、茶教亭自賢斎の娘お香の縁組みの話についても、以下に挙げる『風流茶人気質』巻之三中に同様の話がみえる。
嫁入の仲人から身上をひろげた美味忘れぬ茶の湯の付逢あてにして居る宗匠の娘
(第一話)
茶の宗匠へ入門する銀持の息子殿が六か敷狂言の趣向
(第二話)
都の町に并のなひ娘の器量和らかな肌ゑは雪の中の茶の湯
(第三話)
『とんだ茶釜』については先に記した通りだが、『風流茶人気質』についてもその梗概を以下に記す。
 茶教亭自賢斎という実直で義理堅い茶の湯の宗匠とその妻お楽には、お香という十七になる美しい娘がいる。門弟の歴々から嫁にもらいたいとの申し出が八人にも及び、両親はどちらにも嫁入りさせても「からみうらみ」があると、全ての縁談を断る。
 婚礼の仲人をして近年めっきりと身代を上げた袋物を商う大橋屋仲兵衛は、この話を聞き、縁談を取りまとめ祝儀物を得たいと、一年前から自賢斎の弟子となり茶の稽古をしている。
 今年の冬こそ物にしたいと思っていたものの、お香はいっこうに縁付く様子はない。そんな折、宝町通で一番の大店富井亀蔵が息子亀治郎の嫁にお香を望んだが断られ、仲兵衛に相談にやってくる。仲兵衛は一年後の冬には仲立ちしようと約束をし、亀蔵から二百両の金を借りる(以上第一話)。
 しかし、縁談は首尾よく進まず、富井亀蔵の手代忠兵衛が仲兵衛宅を訪れ、立腹し、早く縁談をまとめるように要求する。仲兵衛の妻お縁が忠兵衛を懐柔し、仲兵衛は、亀治郎が自賢斎の門弟になった上でお香と深い仲になれば縁談もまとまるだろう、つまり亀治郎を「色事しのやつし形に仕入」れた「狂言」を打とうと提案する。
 ある日、お香は今度雪が降ったら、初雪の茶の湯がしたいと両親に申し出る。自賢斎はそれを許す。
 仲兵衛は、自賢斎の元へ亀治郎を連れて行き、師弟の契りを結ばせ、次の機会をうかがう。
 一方、お香の母お縁も虫の付かぬ内に嫁入りさせたいと、ひそかに内蔵屋金右衛門の息子金多郎に話を持ち込む。金多郎は喜んでその話を受ける。
 ついに初雪が降り、翌日に初雪の茶の湯が催されることとなる。共に機会をうかがっていた仲兵衛と亀治郎、そして金多郎が客に選ばれる(以上第二話)。
 翌朝、初雪の茶の湯が催されていると、突然数寄屋の外に白装束に無紋の上下姿の丸吉屋大治郎があらわれる。大治郎が告白するには、長い間お香を想い続け、両親が縁組みを申し込んだがよい返事がもらえず、お香にも告白したが親の許さぬ恋は叶わぬと断らた、この上はお香への想いを断ち切るために切腹するしかない、死ぬ前に一目お香の顔を見に来たという。この話を聞いた自賢斎は二人の結婚を認め、早速に祝言を挙げさせる。
 実は二人は一年前から人知れず深い仲となっていた。実はこの「狂言」の本当の作者はお香と大治郎だったのである(以上第三話)。
以上の梗概をみても分かるように、主人公が「大橋屋仲兵衛」となってはいるものの、『とんだ茶釜』とほぼ内容が重なる。自賢斎と娘お香については両書ともに人物名が共通している。『風流茶人気質』中の内蔵屋金右衛門と息子金多郎に当たる人物が『とんだ茶釜』には登場しないが、他の登場人物については固有名詞は異なるものの、それぞれ対応関係が成り立っている。
 作品中の細かい表現についても、重なる部分が多い。『風流茶人気質』ではお香を、
二親たちの寵愛器量は広ひ都にまたとなひ美き生れ付。女の芸能万に達し殊に茶道は家の職分口伝残らず芸古済で。料理何かの物好奇迄よく。いかどの様なはれな座敷に出しても。心遣ひなひ娘
と評している。『とんだ茶釜』には、右の前半部に当たる表現がみられる。
きりやうはひろいみやこにまたとなきうつくしさ女のげいのうにたつしことにちやのゆのみちはくでんのこらずけいこしてはつめいなり
お香との縁組みを申し込んだ人数は両書とも八人で、大橋屋仲兵衛は「仲立当座帳」「婚礼極帳」「礼金銀請取帳」、薬鑵和尚は「仲人祝儀□(入カ)帳」という大帳をそれぞれ所持している。初雪の茶の湯の際、『風流茶人気質』では、お香が、
寒夜もおいとひなされずにお早うからお越し下されお嬉しう存ます
と客に挨拶するが、『とんだ茶釜』では、同じ挨拶をお香の母がしている。そして、お香の恋人が白装束に無紋の上下で、もしお香を女房にもらったならば、「夏は朝顔冬は雪のあしたの茶の湯をして。夫婦むつまじう」暮らしたかったと告白するのも両書に共通している。『風流茶人気質』の作中に「なんとしたぐりはまをさかさまにした吸物の吸れぬ首尾」という表現がみられるが、『とんだ茶釜』にも「やくわんおしやうしくみしからくりぐりはまとなりし」という類似表現がみられる。
 以上のように、登場人物名が重なる点、物語の内容がほぼ一致し、なおかつ細かい表現について共通点がみられることから、『化物とんだ茶釜』は『風流茶人気質』に直接取材したことが明らかである。

      『とんだ茶釜』の刊年について

 以上のように、『化物とんだ茶釜』が『風流茶人気質』の影響を強く受けた上で成立されたと考えられることから、本書は『風流茶人気質』刊行の明和七年正月以降に刊行されたものと推定される。これは、明和七年二月の笠森お仙出奔騒動と、その際に生まれた「とんだ茶釜が薬鑵に化けた」という流行語と本書を結びつけて刊年を探った結果と矛盾しない。
 また、本書の画作者である富川房信は、安永元年の作品から「吟雪」の号を使用している。同年には「房信」の号も使用しているが、管見の範囲では、翌安永二年以降はこの号を使用していない。本書の画作者名は「房信」であるから、本書は『風流茶人気質』刊行の明和七年正月よりも後、安永二年よりも前に刊行されたものと考えられる。つまり本書の刊年は明和八年もしくは安永元年ということになる。
 明和八年もしくは安永元年の新板といえば、笠森お仙の出奔騒動のあった明和七年もしくは翌明和八年に刊行の準備がなされたのであるから、この事件を作中の趣向に用いるのはかなり時流を先取りしたものであったと考えられる。安永元年には、笠森おせんの事件とぶんぶく茶釜を組み合わせた『金時狸の土産』や『分福茶釜功薬鑵平』が刊行されているが、本書はこれらと同時期もしくは先んじたものと考えられる。
 さらに富川房信は前年刊行された浮世草子『風流茶人気質』を、主人公を笠森お仙の事件と絡ませて薬鑵和尚とすることでひと捻り加え、『風流茶人気質』中の数話を組み合わせることによって物語を展開させている。つまり「とんだ茶釜」という流行語はぶんぶく茶釜の世界と『風流茶人気質』の世界とを結びつける役割を果たしているといえよう。
 富川房信は宝暦期から安永期にいたるまで約二百八十種の草双紙を刊行しているが、その作品は多種多様である。これまでにも先行作品を利用した例が明らかになってきているが(注9)、本書については前年の流行語と新板という時流を先取る執筆姿勢がうかがわれ、富川房信という画作者の問題を考える上で、重要な資料のひとつになるものと考える。

注1 本書の内容と刊年に関する問題については、後述の通りだが、『改訂日本小説書目年表』に記載される村田という板元名の問題についてここで述べる。
 村田板の黒本青本について見てみると、宝暦期から明和初年までの作品については作中に商標(丸に「村」字)が見えないが(宝暦十二年刊『倭歌須磨昔』『男作三国志』、明和元年刊『風流酒煙草問答』『やぶ醫てんぢく物語』『振分がみ酒顛どうじ』等)、それ以後安永初年までの作品には作中に商標がみえる(明和五年刊『福白髪山の紙由来』、明和七年刊『昔噺祖父婆』、安永元年『金時狸の土産』等)。
 本書の刊年は明和八年もしくは安永元年と考えられるから、もし村田板であれば、作中に商標がみえるはずだが、本書に板元を示す商標はない。よって、本書を村田板とすることはできないものと思われる。
注2 本書は、源頼光が病に臥せる館で、四天王の渡辺綱と坂田金時が宿直の眠気覚ましをしていると様々に姿を変えた土蜘蛛の精があらわれて頼光に近寄ろうと、四天王を悩ますという、「蜘蛛の糸」(明和二年市村座初演「降積花二代源氏」一番目「蜘蛛糸梓弦」)と近似性がみとめられる。本書では、見越し入道をはじめとする化物たちが土蜘蛛に呼び出され、皆で頼光を悩ませようとするが、四天王に退治される。よって明和二年以降の刊行と考えることができる。また作中土蜘蛛が茶釜に化ける場面に、「とんだちやかま」の語がみえる。茶釜の他に薬鑵の化物も登場するので、明和七年二月以降の刊行とも考えられる。見返しに「明和七庚寅年」と墨書がある。
注3 『岩崎文庫和漢書目録』には、「題簽逸脱セルヲ以テ、版心ニアルヲ書名トシタリ。」とあり、表紙には「とんだちやがま」と書題簽が貼付されている。
注4 佐藤要人著『江戸水茶屋風俗考』(平成五年、三樹書房)による。
注5 『草双紙集』(新日本古典文学大系八十三、一九九七年、岩波書店)「狸の土産」解説(木村八重子執筆)によれば、「とんだ茶釜」という語自体は明和以前「延享三年刊の江戸名物題材の絵俳書『俳諧時津風』」にすでにみられる。
注6 拙稿「草双紙における流行語の位置」(『近世文芸』第六十八号、平成十年六月、)参照。
注7 東京大学霞亭文庫本の摺題簽(干支部分が削除されている)と同じ意匠の『福神 恋福引』(平成九年十一月『古典籍下見展観大入札会目録』NO.354)及び『昔噺五重錦』(同NO.458「黒本・青本・黄表紙 絵題簽貼込帖」所収)の題簽に、出板年を示す「辰」および「村」字の商標がある。鳥居清経画であることや笠森おせんが作中登場することも考え併せ、初板での刊行は安永元年と推定される。
注8 『叢』第十八号(平成八年五月、近世文学研究「叢」の会編)所収。
注9 これまでに明らかにされてきた富川房信(吟雪)の作品と先行作との関係については、以下のような例が挙げられる(括弧内は、それぞれの関係について指摘した執筆者と、掲載された誌名および書名である)。
宝暦十二年刊『僧正遍正物語』と浮世草子『契情蓬莱山』(勝亦あき子、『叢』第十八号)
明和元年刊『風流酒煙草問答』と仮名草子『諸国百物語』、浮世草子『新竹斎』および『さゝやき竹』(木村八重子、『日本古典文学大辞典』)
明和五年刊『ぢゝとばゞがあつたとさ大鳥庭雀』と上方子ども絵本『今昔雀実記』(内ヶ崎有里子、『平成二年度科学研究費による草双紙研究報告書』)
明和六年刊『但馬国紀崎郡盛継松』と浮世草子『怪醜夜光魂』(渡邊英信、『叢』第十三号)
明和七年刊『猿影岸変化退治』と読本『古今奇談繁野話』(木村八重子、『草双紙集』新日本古典文学大系八十三)
明和八年刊『浦嶋出世亀』と近松門左衛門の浄瑠璃『浦島年代記』(三好修一郎、『叢』第十七号)
同年刊『軍法白金猫』と『西行物語』(三好修一郎、『昭和六十三年度科学研究費による「江戸時代の児童絵本の調査分析と現代の教育的意義の関連の研究」報告書』)
同年刊『虚言八百根元記』と浮世草子『一角仙人四季桜』(舩戸美智子、「房信浦島物の一考察 ――『虚言八百根元記』『十六嶋千代之碑』の典拠をめぐって――」、『近世文芸』第五十五号)
刊年不明『歌徳明石潟朗天草紙』(富川房信画)と浮世草子『柿本人麿誕生記』(三好修一郎『叢』第八号)
安永元年刊『夜雨虎少将念力』と近松の浄瑠璃『曾我会稽山』(鈴木重三、『草双紙』岩崎文庫貴重本叢刊 近世編 第六巻)
安永二年刊『女敵討上代染』と近松の浄瑠璃『相模入道千疋犬』(細谷敦仁、『叢』第十八号)
安永四年刊『出世やつこ』と竹田出雲の浄瑠璃『出世握虎稚物語』(福田泰啓、『叢』第十八号)
同年刊『十六嶋千代之碑』と浮世草子『龍都朧夜語』(舩戸美智子、先掲論文)

「富川房信画『とんだ茶釜』考」
 『実践国文学』第60号(平成13年10月)所収。