平成15年(ワ)第705号国家賠償請求事件

原告鬼塚建一郎外20名

被告国

平成16年1月23日

鹿児島地方裁判所御中

原告 ****

意 見 陳 述 書

 

 

 

 

私は,原告番号1番の****です。私は,昭和15年7月31日に鹿児島県日置郡郡山町で・生まれました。父は,郡山町役場に私の出生届を出しました。ですから,私は,日本国籍を持つ日本の国民です。しかし,昭和34年,日本政府は私の戸籍を抹消し,私は,自分の祖国から死んだ人問として扱われることになりました。

 

終戦当時,私の父は軍人と教諭をしており二私達家族全員が,満州で暮らしていました。終戦時,私は5歳でした。昭和20年8月9日,ソ連軍が満州に侵攻してから,父とは別れ別れになり,私は,私の母親と弟2人の家族4人で,千苦万難の避難生活をさせられました。当初,私達家族は軍用車とトラックに乗って避難していましたが,すぐにソ連軍に遭い,車を奪われてしまいました。その後,大勢の婦人や子供が合流して難民集団となって,毎日,毎日,私達は,南の方に歩き続けました。

 

夜は,道路で寝たり,荒山や森林で寝たりしました。そのうち,食べ物もだんだん少なくなりました。避難生活を開始してから2ヵ月後,私の一番下の弟が栄養失調と病気になり,2歳の誕生日を迎える前に死にました。私の母は,私達子供のために自分は食べ物をあまり食べないという無理な生活をしたため,真冬の寒さに耐え切れず,飢餓と病気で,倒れてしまいました。そして,昭和21年2月中旬ごろ,6ケ月に渡るつらい避難生活の後,とうとう亡くなりました。私と2番目の弟は,母が亡くなったことから,中国人に預けられることになりました。私はこのようにして日本人残留孤児になりました。2番目の弟は,誰に引き取られたのかも分からず,生死も分からず,行方不明となっています。このように,つらい避難生活をした家族4人のうちで,日本に帰れたのは私だけでした。私も日本に帰るまでに40年の月日を要しました。

 

みんなが,言葉では言い表せない,とてもつらい思いをしました。

 

私にとって,中国で,言葉も生活習慣も全く違う中国人の家庭に入って生活することの苦しさやつらさは,想像を絶するものでした。私は,中国で,小学校しか出ておりません。しかも学校に通えたのは二年問だけでした。養父母は私に優しくしてくれました。しかし,養父母と私の間の言葉の壁が取れるまで,長い時間が必要でした。私は,小学校しか行けなかったので,周りの中国人から要らなくなった中国語の辞書をもらって,仕事の合問にくり返し読んだりして,独学で努力を続けました。そして,人民公社の社員となってからも,結婚や仕事で差別を受けました。私は,中国人の妻を迎えることができましたが,私の子供も,私と同じように,「小日本」「日本鬼子」と呼ばれて,いじめを受けることがありました。

 

 このように中国で40年間,一生懸命に生活する中で,私は母から教えてもらった日本語を忘れました。日本に帰ってきてからは,日本語が分からず,また日本語をゼロから覚えなければなりませんでした。自分の生まれた国で,言葉が通じないことは,私にとって,非常につらい毎日になりました。

 

私達が中国に残されたことは,私達のせいではありません。私達が日本語をうまく話せないことも私達のせいではありません。私達が,日本に帰国できた時には,私達ほとんどが,40歳台,50歳台になってからでした。今では私達の平均年齢は,60歳以上になっていると思います。こんな年齢になってから新しく言葉を覚えようとしても,それが大変難しいことであることは,誰でも簡単に理解できると思います。私達は母国の言葉で会話できない言葉の障害者であると言えます。この苦しさ,辛さは,是非とも分かっていただきたいと思います。ハンディを持った者,障害を持った者に対して,日本政府は援助や補償をしていますが,私達に対しても同じような配慮が必要とされています。

 

私は,日本政府が私達の帰国問題についてもっと熱心だったら,もっと早く日本に帰れて,今のようなつらい気持ちを味わなくてもすんだのではないかと思っています。終戦直後から日中国交回復を経て私達の帰国が実現するまで,中国残留邦人の帰国問題は,いろんな方面から,いろんな形で,協議されてきました。しかし,歴史を後ろから振り返って見ると,日本政府は,本当に私達のことを考えて真剣に私達の帰国問題に取組んできたのか,疑問に思わざるを得なくなる点が,あまりにも多すぎるのです。

 

私達残留孤児は,中国での成長過程で,日本人であることを理由として,多くの差別や偏見に直面して,生活や仕事を阻害されてきました。文化大革命時代は,私達の子供でさえ,「小日本」「日本鬼子」と言って差別されてきたのです。私達は,中国人の日本という国に対する反感や不満を1人1人が体で受け止めながら,日本に早く帰りたいという思いを募らせていたのです。

 

日本政府は,このような私達の思いを本当に理解していたのでしょうか。日本政府が,これまで残留孤児の帰国問題に真剣に取り組んできたというのであれば,例えば,なぜ日中国交回復後,私達の帰国問題は,民間団体がリードするような形で進んできたのでしょうか。私達が深く尊敬し感謝する山本昭慈先生は,日中国交回復後,すぐに政府に出向き,中国での残留邦人の調査と引揚げを速やかに始めるべきだと要請しましたが,政府は,進んで動こうとしなかったと聞いています。私達の調査を始めたのも政府ではなく,山本先生を始めとする民間の団体だったのです。これまでに世界の歴史の中で,1万人もの子供が異国の土地に置き去りにしたまま,それを何十年も長期間放置したりした国があったでしようか。

 

 私達が,中国での生活を全て投げ打って,日本に帰って来たのは,日本で,生活保護をもらいながら,周囲の誰とも会話せずにひっそりと生活するためではありません。私達は,長年,中国に遺棄されたままになっていた日本人として,自分の祖国で人間性を回復し,人らしく生きるために帰って来たのです。それが,私達,中国残留孤児の長年の夢だったのです。

 

しかし,私達の現実は,私達の夢と違っています。私達が願っているのは,ただ,老後に不安を抱えて生活したくない,質素であっても何の気兼ねもなく養父母の墓参りができるような,精神的に窮屈でない自分らしい生活がしたいというだけのことです。このような私達の要求が妥当でなく,高望みだと言うのであれば,その時はどうぞ教えて下さい。私達は,これまでにいろんな要請行動を行ってきましたが,もう裁判以外に道がないので,この訴訟を提起しました。私達は,正義の判決を待っています。

 

 以上で私の意見陳述を終わります。