陳 述 書

鹿児島市*丁目*番*号

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私は、****です。自分の本当の名前は知りません。1986年の残留孤児肉親探し調査の一員として来日しました。ただし、何も手がかりがありませんでした。1989年1月3日、日本に帰国定住し、現在***に住んでいます。

 

私の身元、父母の状況に関しては私には全く記憶がありません。養父から私が拾われたときの状況を聞きました。当時1945年秋頃、私と母と兄、弟4人で逃げているとき、ソ連兵が追いかけてきて、捉えられる寸前で母は絶望的になり、ソ連兵に捕まえられる前に私たちの首を絞めて殺そうとし、その後自殺しようとしたところで、ソ連兵に鉄砲で撃たれて母親はなくなりました。その時の傷は今も私の首に残っています。当時私と兄は付近にいる中国人に助けられ、日本人収容所に連れて行かれ、生まれたばかりの弟は亡くなりました。養父は、私と兄を収容所から引き取り扶養してくれました。兄は1年後病気になり治療も受けることもなく病気で亡くなりました。

 

 養父が、兄から聞いた話では、実父は自殺したと聞いたということです。幸福な家族の中で生き残ったのは私1人でした。養父母に頼りましたが養母が病弱で、養父は良く出張し、小さいときから暖かみのない家庭と、世話をしてくれる人がいない生活をしていました。

 

 成長に伴い、自分が日本人であることを知り、養父母に収容された当時の自分白身を知りたくなり、そして両親のことも知りたくなりました。私の夢は自分の名前が知りたかった。両親の名前も知りたかった。人間の基本的な権利さえなかった。これは人生最大の不幸でした。

 

 1960年養母が病死し、養父が再婚したため、私は家を出て仕事を始めました。仕事と勉強を両立させ4年間努力しました。師範の卒業証書を貰いました。1960年から1989年帰国直前まで、学校教育の仕事をしていました。

 

1961年に結婚し、子供が2人います。結婚後は短いながら一生の中で安定した期間でした。1983年ごろ夫は、突然の病気でこの世を去りました。私と未成年の子供2人が残り、私の運命は再び苦痛の底に落ちました。これは、私の一生の中で再び訪れた悲劇です。

 

1985年春頃、日本人残留孤児の肉親探しのことをはじめて知り、すぐ日本の厚生省に手紙を送り連絡を取り、中国外事部から孤児の査証を貰いました。1986年冬、第13回肉親探し調査団に参加し来日、私が最低限望んだのは、私の名前を知ることでした。その夢と希望は訪日調査で、完全に絶たれました。

 

1987年末、帰国定住を申請し、その結果、私と娘が帰国することができるが息子は結婚しているために国費では一緒に帰国できないとのことでした。1989年3月4日、息子夫婦と生まれたばかりの孫を残し、私と娘は来日し定住しました。小さいときから孤児の苦痛を受けた私、夫も亡くし、せめて息子と娘3人で一緒に寄り添い暮らしていきたかったのです。しかし、日本政府の誤った決定で、3度目の家族の離散、息子との別れになり、私は再び孤独になりました。帰国後、友達もいない、親族もいない、毎晩虚しい部屋の窓から外を眺めていました。ほかの家は、家族だんらんなのに、私は、娘と2人きりです。

 

 離れ離れの息子のことを、いつになれば一緒に暮らせるのか考えていました。帰国後3年ほどは、毎日泣いていました。少しでも息子が日本にこられるように、私と一緒に生活するために当時の生活指導員と相談しました。指導員の話では、もしあなたが仕事をしなければ、息子の身元保証人の資格ができない。身元保証人がいなければ、日本に来ることができない。これは、日本の法律です、といわれました。指導員の話を聞き私はようやくわかりました。

 

 日本政府は私たち残留孤児を数十年、ほったらかしにし、さらに子供たちのことも全く考えてないことでしょう。私たちの困難を考えたことはない。援助をしてもらえない。私は仕方なく決心し、自分の家族を自分の力で守りたいと思いました。

 

平成2年8月****にある整形外科病院の炊事婦の仕事に就きました。1年後、保証人の資格を貰い、息子が日本に来られる様に走り回りました。休憩時には市役所に行ったり、入国管理局に行ったり、私はようやく覚えたいくつかの単語を使い、必要書類の準備が出来、喜び勇んで、入国管理局に行ったのですが、職員の方からの話では、中国から送られてきた書類を日本語に翻訳するようにと言って返却されました。当時、その場で大声で泣きそうになりました。

 

でも、これは日本の法律で、仕方なく会社の同僚にお願いし、翻訳をしてもらいました。そして、再び心配しながらも書類を提出しました。息子をずいぶん長く待たせたのですが、ようやく息子の入国許可が下りました。

 

 平成4年春、息子一家が来日し、一家だんらんをすることができました。普通の人々には・自分の祖国で家族で暮らすのは当たり前のことですが、しかし私は、普通の日本人よりも何倍も、何倍も努力しなければならなかったのはなぜでしょうか?

 

まず、言葉の問題、仕事をしていなければなれない保証人の条件、日本に来て約1年で就職した病院でのなれない厨房仕事、献立を見ても、聞いてもわからない道具や、食器の名前、本当に別世界の感じでした。いそがしいときは、名前を呼ばれて、これをしなさいと指示されてもあわててしまいわけがわからず、もう一度聞くと「もういい、いそがしいから」といわれ、恥ずかしい思いもしました。

 

作業をしたいけれどもできない、辞めようかどうしようか自分にもわからなくなりました。毎回厨房に入るたびどきどきしながら、もし作業が、聞いてもわからなかったり、見てもできなかったら、どうしよう、又他の人に迷惑をかけると心配しました。

 

毎日緊張しながらとても辛かったのでした。他の人に迷惑をかけないよう、一生懸命努力し他の人が嫌がる仕事を自らしました。毎日仕事開始30分前には、他の人のために準備し仕事をしていました。一生懸命調理に関する専門用語を勉強しました。毎日他の人より何倍も精力的に働休みもほとんどありませんでした。それから、私が中国で受けた教育、生活習慣、日本の礼儀と全く違うところが沢山ありました。問題の考え方が違い、その中で仕事を続けるには、どうしても誤解がありま丸私の苦痛の中では誤解されることが一番大きいです。自分の意思を言葉で表現できない、あせるばかりでやはり言葉で表現できない、言葉を話せない障害者と同じです。

 

この心情は誰にもわからないと思います。誤解されないようにどんなに慎重にしていても、それでも誤解された場合、自分で苦しんで、悩んで、悔やむばかりです。

 

なぜか、私は時々夜も眠れなくなるほど精神的な負担が重くのしかかります。こんなとき、誰か私の気持ちを代弁して欲しいと思いました。又、同じ日木人に私のことを理解して欲しい、しかし誰もいない私は孤独の世界におちいりました。

 

私は就職し、生活保護に頼らないで生活をしてきました。自分も自立し関係機関が私のことについては、たずねることもなくなりました。しかし実情は、経済的に政府には頼ってないですが、就職し日本社会に飛び込んだものの就職前より困難が多く、だからこそいろんな面で、ささえて欲しかったのです。政府、各関係はそれをしてくれず、冷たく感じ、これが帰国以来最も忘れられないことです。

 

目の前のさまざまな困難と、重圧、時々会社を辞めてしまおうと思ったりして、生活保護で生活をもう一度したいと思うこともありました。私の就職の理由は息子の来日のためでしたが、先生の話では、生活保護というのは日本の国民の税金で生活することでこれを受けるのは日本人にすれば恥ずかしいこと、もし仕事をしなければ生活保護がもらえないと教えられました。

 

私は、息子のためでもありますので仕方なく我慢して定年まで仕事を続けました。わたしはとっても苦痛でした。初めから親族と何度も離れ離れになったこともあり、その苦痛と帰国後の辛さやさびしさ、重圧で私の体と精神が病気になりました。ストレスが原因と私は思っていますが乳がんと診断され手術を受けました。ただしこのことについては家族のため自分の自尊心のため私は後悔をしていません。

 

私の最も後悔していることは、又再び生活保護を頼って生活しているこの運命です。

私が生活保護を申請するときは、福祉課の人が質問・調査をし、本当に我慢ができないことでした。

 

定年退職後、約11年半支払った年金だけの年金では生活をすることは、不可能です。しかし、この制度は日本の法律で決まっていることです。

 

今日、私は病気を抱えながらこの法廷に立っています。私が訴えたいのは、数十年の日本政府に捨てられた孤児です。私は、祖国に帰国後も、私の子供を中国に置き去りにし私と同じつらい思いをさせました。私が受けた体験を同じ日本全国の人達に理解してもらいたいと思います。

 

そして、政府には私たちに対して、しっかりとした政策と援助をお願いしたいと思います。私たちがこれから先もつらい思いをしないですむように、現在の状況を改善して欲しい。これが私のお願いです。

 

裁判所のご理解をよろしくお願いします。

 

2004(平成16)年10月27日