平成16年(ワ)第705号国家賠償請求事件

 

原告鬼塚建一郎・外20名

被告国

意 見 陳 述 書

平成16年10月27日

 

鹿児島地方裁判所御中

 

原告 ****

 

私は、中国に50年近くいた残留孤児です。私は、平成元年7月15日に、努力の末、日本に帰国できました。私の中国名は「李桂和」日本名は「****」です。現在63歳です。

現住所は鹿児島市***丁目*番****号です。

 

満州当時は、私と母親は船で中国瀋陽市に渡り、私の記憶では当時新居は、和平広場付近の一戸建ての家で、父親、母親、もう1人おばさんがいました。父親は、たびたび家

に居ないときが多くありました。

 

当時、父親は黄色い服を着ていたようでした。たまに、私と母親を森林のたくさんある場所に遊びに連れて行ってくれました。私にとって「私の一生でもっとも短い夢のような」楽しい思い出です。ある日、突然私の知らない1人の青年男性が私を、あるお金持ちの家に連れて行きました。

 

そのとき私は、泣きながら「おかあさん」と叫びました。当時幼い私は、母親たちがどこに住んでいるかなど、母親たちがどこに行ったのかさえわかりませんでした。その日から、私は父母の無保護での悲惨で不幸な境遇での生活する少年時代でした。

 

まず、初めて行った家はお金持ちで、車・局もある家で、奴隷奉公でした。私は、家人にたたかれないようにまた、食事をもらうために、無理やり豚の世話をさせられました。

 

間もなく冬が来ました。マイナス30数度の寒い中、洋服も靴も靴下もなく、手足が凍傷になっても誰も気にはしてくれる人もいませんでした。また病院に行く事などありえませんでした。

 

毎晩とても寒い氷のように冷たい車づくりの簡単な家に寝ていました。身体の寒さや、手足の凍傷での痛みは、心まで凍るような痛みでした。そのとき、私は、とてもお母さんに会いたいと思いました。なぜお母さんは会いにこないのかなぜ病院に連れて行ってくれないのか、また、毎日お母さんにいつかは会えるという希望を持って、就寝していました。朝、眼が覚めたらやはりお母さんがいない、温かい家庭も私の世話をしてくれる人も私を病院に連れて行ってくれる人もいないという現実でした。凍傷のため、足の指数本、左手指が半分なくなりました。

 

中国のことわざに<世には、お母さんが一番、お母さんのいる子供は宝の如く、お母さんのいない子供は草の如く>ということわざは的を射ていると思います。手足の指の欠損を見るたびに当時、父母がそばにいたらどんな暮らしをしていても、私の凍傷を見ないふりなどしなかっただろうと思います。

 

それからこの家の家人は私の凍傷の指を見て「使い物にはならない」と家から追い出しました。私は行き先もなく途方にくれているとき、年老いたおばさんが私を抱き上げ自分の家に連れて帰ってくれました。おばさんはわたしを娘のようにかわいがってくれ、そのとき少し人の温かさを感じました。しかし戦争洗礼を受けてばかりで、おばさんの暮らしは苦しく病気にかかっても治療する事もできなかったのです。おばさんが亡くなる直前に息子さんに私を世話するよう託しましたが、しかし息子さんは軍隊の仕事が忙しく私を別の家に預けました。その家は子供がたくさんいました。私に対してよく暴力をふるい、食事も食べさせてもらえず私のことを<小日本>と呼でいました。私は虐待に耐えられずこの家をでました。

 

このときから私は流浪する可哀想な孤児になりました。以前はどんな苦しい生活でもどんなに寒くても一応家がありましたが、流浪孤児になってからはもっとつらい苦しい暮らしになりました。昼は、子供たちと「物乞い」をしていましたが、戦争後の中国国民の生活も苦しく、「物乞い」をする人も多く、時々もらえないときもありました。そうすると数日食事を食べられないのです。夜はボロ家に寝たり、人家の軒先に寝たり、とにかく雨風が防げるところならどこでも寝ました。身体が寒くなるたび、お腹がすくたび、どんなにお母さんに会いたかったことでしょう。お母さんに抱っこしてもらいたかった、それならどんない寒くても、お腹が空いていたとしても温かく感じると思います。きっと耐えられたとおもいます。

 

幼い私が、あの寒さ、餓鬼の人間の生活するような環境の中で生き残り最後に生きて日本に帰国できたことを、私の養父母に感謝をしたいです。

 

あれは、瀋陽解放前夜、私は流浪児童とはぐれ、たった1人でぶらぶら歩いていました。奉天市老道口まで歩いていきました。たくさんの人が死んでいました。私は怖くなり先にいけなくなっていました。一晩底に座り込み泣いていました。夜明けごろ40歳ぐらいの人が私を抱き上げ、派出所まで連れて行ってくれました。そこで、顔を洗ってもらい、洋服を着替えました。当時私は中国語がわからず、人が何を言っているのかがわからないため日本人の子供と認識され、それから私を現在の養父母の家に連れて行きました。私は、父母と別れてから4番目の家です。養父母とも苗字は「李」でした。私にも「李」という苗字を使えといわれました。名前もつけてもらい「李桂和」となりました。養父「李欣然」養母「李秀番」養父母は、とても優しい人でした。私に対してもとても優しかったのです。数年の苦痛と飢えと寒さ、虐待、悲惨な状況から養父母の家で暖かい家があり、ご飯もお腹一杯食べられ、しかも小学校卒業まで出してもらいました。父母のいる人にはこれは普通の体験なのでしょうが、私にとっては、「九死に一生」この暮らしは、天国のようでした。それなのに私は今までに受けた心の傷が深く苦痛が大きすぎその後の人生の中で肉体も精神も全て沈痛でした。よく突然いなくなった実父母のことを思うと涙が出ます。実父母がまだ生きているのならば、私の苦しみを知ったなら、私の障害のある手足の指を見たら悲しいだろうか、涙がでるのでしょうか、私がこんな悲惨な結末になったのは誰のせいでしょうか、誰が責任を取るのでしょうか。

 

1989年7月15日、私の突然失踪した実父母探しのために日本に帰国、私と一緒に夫「唐雲清」長男「唐敬東」次女「唐紅梅」、長女は結婚したため日本政府の規定で結婚した子供は、国費では帰国ができないため、長女を中国に残し4人で、帰国しました。1992年6月29日長女「唐麗華」一家3人は、自費にて日本に来ました。

 

帰国後、厚生省残留孤児対策室の方から父母関係の消息が全くなく十数年経過しているためわからず、私は落胆しました。さまざまな原因で私たちの生活そして精神的にも苦境に立ちました。

 

幼い頃の様にひもじい思い、しかられる、たたかれるのではないか、精神的に孤児時代に戻っているような感じがします。帰国後の入国手続と入籍手続のとき私ははじめて知りました。私は、日本生まれであり、本籍(戸籍)では死亡扱いになり除籍されていました。ようやく今になりわかりました。日本政府に見捨てられたのです。当時、私が中国にいるとき一生懸命生きていつか両親が迎えに来てくれると頑張っていました。今では夢のような出来事でしたが、政府は父母や親族に私を救助・探す機会さえ与えてくれなかった。もっと悲しいのは私を死亡した子ども扱いになっていることです。本来ならばようやく自分の家(国)に帰れたのに、温かみがなく、冷たく感じ、心の中で歓迎されていない、孤児として帰ってこないほうが良かったのではないかと思いました。

 

私たちが歓迎されていない感覚だけではなく、戸籍も除籍されました。それに私たちに対し不公正な政策、私たちは、話(日本語)ができないので、自分たちに合う仕事にも就けず、生活は生活保護で暮らしています。生活費は、日本人の最低限度基準です。私も、日本に帰国したばかりで経済力がありません。

 

生活レベルが低いです。たまに中国の養父母に会いに行ったり養父母のお墓参りに行ったりすると生活費を引かれてしまいます。日本政府は孤児たちの苦しみを理解してくれない、私たちの苦しみを考えたことがありますか、私は、幼い頃何もできず「物乞い」したりしました。また現在は、自分の祖国に帰り、老いて、身体が弱く、言葉ができないなどさまざまな理由で生活保護を受けています。でも生活保護を受けながらの暮らしは自尊心を傷つけ、精神的に苦しく感じています。私たちのこのような運命になったのは、誰のせいでしょうか、誰が責任を取るのでしょうか。

 

先ほども述べましたが、私は日本政府の植民地政策や棄民によって、幼児期に両親を失い世話をしてもらえる人がいなかったため人間としての生活をできず、私の身体も。精神も大きな傷を付け、日本政府の棄民政策によって私たちは孤児になり、長期にわたって、自分の祖国に帰れない、肉親も見つからない、私の後半の半生でようやく祖国に帰れたのに、言語の問題、身体の状況、更に日本政府の私たちに対しての同情の心がない政策や規定によって、私たちの実状況を全く無視し、ただの一般国民扱い、帰国者私たちの生活環境、生活条件は、苦境に落ち込んでいます。このことについて日本政府は責任を取らないといけないと思います。

 

日本政府に対し訴訟を提起しています。日本政府は、私たちに対し精神的、経済的に賠償し、それから私たちに今後の生活と人権の保障を法政策によって希望いたします。