鹿児島市の石橋現地保存をもとめて


 鹿児島市を南北に走る甲突川(こうつきがわ)には、江戸時代末期に名工=岩永三五郎 の指揮によって設計・建設された五石橋がかかっていた。桜島や城山とちがって、あまり 観光コースにはいっていなかったため、ご存じない方も多いかもしれないが、美しい三〜 四連のアーチをもった石橋だった。いくつかの石橋は、建設後、百年たってもなお、まだ 車の往来につかわれていた。
 ところが、県や市は、この歴史的建造物が「交通のネックになっている」として、解体 を主張してきた。市民にはこの石橋への愛着は強く、市もとうとう現地で保存に方向を変 えつつあったとき、あの大豪雨(一九九三年八月六日)が襲ったのだった。新上橋(しん かんばし)、武之橋(たけのはし)が流出した。
 鹿児島市に多くの被害をもたらしたこの八・六水害の原因について、多くの専門家は、 無計画な団地の造成、森林の伐採などの要因を指摘しているが、行政当局は「石橋が氾濫 の一因」とした。そして、「流域住民の生命と財産を守る」を口実に、五年間に二二三億 円もの治水事業費を重点的に投入する河川激甚災害対策特別緊急事業(いわゆる檄特)の 導入を決定した。行政当局は、住民が災害からまだ十分に立ち直っていない水害直後に、 「早く導入を決めないと、予算がとれない」として、この激特導入によって甲突川の川底 を掘り下げるために、石橋の撤去・移設の方針を打ち出した。
 石橋の移設とは、解体して、別の公園の中に「復元」するというものだが、これには多 くの人からも、「石橋を陸にあげてしまって文化財保護といえるのか」「はたして復元が できるのか」との批判が強い。
 行政当局は住民の意見も聞くことなく、石橋の撤去を強行した。残った三つの橋のうち 、まず玉江橋(たまえばし)が撤去された。次に、市内の中心部にある高麗橋(こうらい ばし)の撤去に着手した。そこで住民は「撤去は住民投票にはかってからにしろ」と『高 麗橋撤去についての市民投票に関する条例』を制定しようという直接請求運動にのりだし た(高麗橋は鹿児島市の管轄のため、市議会にむけて)。地方自治法に基づいて、条例制 定を求める直接請求が行われたのは、鹿児島市で二六年ぶりのことであった。
 条例案は一六カ条からなり、第一条は「高麗橋の保存及び治水対策について、市民の意 思を明らかにするための公平かつ民主的な手続きを確保し、もって市政の円滑な運営を確 保すること」を目的にかかげている。そして、この目的を達成するため「高麗橋の撤去( 移設のための解体を含む。)に対する賛否についての市民による投票を行う」ことを求め た。(第二条)。
 市は「直接請求と解体工事は別問題」と署名運動を無視して、撤去工事をすすめた。そ のため、住民は「条例案の結論がでるまで、工事を中止してほしい」と要求して、高麗橋 の撤去工事現場に一〇日間あまりすわりこんで、工事の不当性を訴えた。ところが市の要 請で座り込んでいた住民を警官隊が排除した。そして、署名運動がすすめられている最中 に撤去が完了してしまった。
 条例制定を求める直接請求は、成立要件である有権者の五〇分の一(七九三四人)をは るかに越える二万四二三〇人の署名が集められた(うち二万三一五八人分の署名が有効と 認められた)。鹿児島市議会では三月議会を延長して、審議が進められた。議会では参考 人制度をはじめて活用して、請求代表者から意見を聞くなどしたが、結局、四月一三日に 総務文教委員会で否決、四月一九日に本会議で条例案を否決した(賛成は共産のみ)。
 高麗橋の現地保存はならなかったが、この住民運動は鹿児島に新しい地方自治への動き を感じさせた。「お上におまかせ」の意識が強いなかで、住民の側から、総合治水・街づ くりの積極プランを提示していったことはきわめて重要だと思われる。
 いよいよ、残る西田橋(県文化財=藩主が参勤交代のさい通った、五石橋の中では最も 格の高い橋)現地保存をめざす「決戦」がはじまる。

              (『法と民主主義』二九九号、二八頁、一九九五年六月)