布施辰治記念セミナー

2000年11月13日に韓国・ソウルで「布施辰治記念セミナー」が開かれ、それに参加しました。

そのセミナーの式次第は以下のようなものでした。韓国側の文書を翻訳したものです。


布施先生記念国際学術大会開催

日本人 シンドラー! 日本最高の良心を持った人である布施(布施辰治1880−1953)先生は、かつて朝鮮独立運動と貧乏で飢餓の中にあった朝鮮人たちのために東奔西走したが、とうとう日帝当局の憎悪をかって二度(東京多摩刑務所3ヶ月)(地方刑務所13ヶ月)投獄された。それに加えて先生の三子 杜生(当時京都大学生〕氏まで獄死された悲運を体験されたのである。

このような朝鮮の恩人! 布施先生の人道主義、国際平和にかなう業績を、韓日間ででもっと研究・発展させせるために、下記のような韓日の学者を集めて国際学術セミナーを開催することになった。

当初、9月6日で予定していたが、やむを得ない現地事情によってて韓日間で再度協議し、11月13日に延期されることになった。布施先生誕生120年、二週甲を期して、気持のある多くの方たちの参加と、声援を期待するものである。

場所  国会議員会館小講堂
日時  2000年11月13日  11:30〜13:00  午餐(国会議長参席)
               13:00〜13:30  来賓祝辞
               13:30〜14:00  経過報告
               14:00〜17:30  発表
                17:30〜18:00  総合討論

発表者 日本評論社     大石 進社長(布施先生孫)
    名古屋市立大学   森 正 教授
    国民文化研究所   李 文昌所長
    順天郷大学校    李 圭秀助教授
    布施先生記念事業会 鄭 峻泳会長






布施辰治記念セミナーの様子


「布施先生記念国際学術大会」(於・韓国ソウル)に出席して

森正(名古屋市立大学)2000・11・20記

一 韓国での布施辰治顕彰運動

 布施辰治(1880年一1953年)は、弁護士を本業としながら広く社会運動家として活躍した、日本近現代史における傑物である。人権擁護を核とする活動は、日本人のみならず、植民地の民衆にたいしてもむけられた。これについては、2000年8月7日付け中日新聞に私が書いた「布施辰治弁護士 日本人シンドラー」を参照していただきたい。

 その布施を顕彰する市民運動が韓国ではじまったのは、昨年1999年秋にソウルで開催された世界NGO大会のさいである。韓国の東亜日報は、早速10月15日付けでその運動を紹介している。もっとも、私が顕彰運動を知ったのは、今年の3月2日付朝日新聞「ひと」欄によってである一そこでは、運動の発起人である鄭ジュン泳さんが紹介されていた。年齢は私より2歳年上の50歳である。

 実は、私はその少し前に、韓国文化放送の60分番組「発掘・日本人シンドラー 布施辰治」(2月29日放映)の取材に協力したのだが、顕彰運動のことは聞かされなかった。いまにして思えば、番組作成に至る経過を聞くべきだったが、その運動に刺激されてテレ局も動いたのだろう。その意味では、運動の一つの成果といってよいだろう。付記すると、Korea Herald紙も3月7日付けで運動を紹介している。

 これも前掲の朝日新聞で知ったことだが、鄭さんは、ソウルの旧西大門刑務所(植民地時代に多くの政治犯を収容)保存運動の推進者だった。刑務所保存と布施辰治顕彰、つまり、(1)日本による朝鮮植民地化の爪痕を後世に伝えること、(2)日本人のなかにも立派な人物がいたことを後世に伝えること、この二つの使命感に燃えている鄭さんに会ってみたいと思っていた。布施辰治研究が私のライフワークだからである。

 私の意志が通じたのか、布施の孫にあたる大石進さん(日本評論社社長)経由で鄭さんから便りが届く。9月6日にソウルで「布施先生記念国際学術大会」を開催するので来てほしいとのことだった。結局、先方の事情で大会は11月13日に延期されたのだが、その日は、布施辰治生誕から120年の節目の日であったことを特記しておく。

二 鄭唆泳さんとの出会い

11月12日朝、名古屋空港からソウルにむかう。大石進さん、金英娥さん(通訳)といっしょである。同行を志願した小栗実さん(鹿児島大学)は同じころに関西空港を飛び立ったはずである。
 
約1時間30分、降り立った金浦空港には、すでに小栗さんが待っており、出迎えの鄭ジュン泳さん、朴榮一さんと感激の出会いを果たす。鄭さんの二種類の名刺には、それぞれ「布施先生記念事業会」「歴史教訓実践運動市民連合」とある。朴さんは、歴史上の人物である朴烈氏(大逆事件で死刑判決→無期懲役に減刑、日本敗戦後に釈放。布施辰治が弁護人)の息子さんである。高校卒業まで日本に住んでいたので日本語が堪能、50代に入ったばかりの年齢だろうか。ガチツとした体格をしている。

朴さんの車でヨイド観光ホテルヘ直行する。鄭さんが、韓国と日本の国旗をあしらった学術大会の特大のバツジを私たちの胸につける。ままよ、「郷に入れば郷に従う」か!? バツジには「朴烈烈士抗日闘争記念」などと書いたリボンが三本ぶらさがっている。昼食(韓国料理)・歓談のあと、西大門刑務所(現、西大門刑務所歴史館)の見学に出る。主な交通手段は地下鉄である。韓国の地下鉄はホームまでかなり深いし、日本の地下鉄より広軌でそのために車両が幅広くてゆったりしている。

1919年の独立蜂起を記念した独立宣言碑を見学し、西大門刑務所歴史館へとむかう。日曜日のせいか、子どもたちがかなり見学にきている。獄舎7棟その他が手を加えずに残され、展示物・映像・蝋人形などを配置することで、当時の生々しさを伝えている。朝鮮人の悲鳴があちこちから聞こえてきそうだ。日本による併合が1910年、朝鮮全土に刑務所を設置するが、その数は33にのぼる。独立運動家をはじめ、植民地支配に不都合な朝鮮人を根こそぎぶち込んだはずだ。死刑場もきわめてリアルな状態で残されていた。そこで、何百・何千の人たちが処刑されたのだろうか。侵略国の人間の一人として胸を締めつけられる。かつての王宮(景福宮)の中にそびえ立っていた朝鮮総督府が解体されたことを考えると、鄭さんらの運動は意義深い。

景福宮見学のあと、観光客の多い仁寺洞(インサドン)でお茶を飲み、韓国料理を楽しむ。東洋的(?)な飲み物のメニューが多い喫茶店は、独特の雰囲気があったし、私が飲んだ「梅茶」もなかなかの味だった。料理も上品な味だった。物静かな大石さんとは対照的に、小栗さんのボルテージは上がる一方で、「ビール!! 生がき!! 焼肉!!」とうるさいこと。さすが「ぼくは盛り上げ役」と自称するだけのことはある。これには、地元の金さんも戸惑ったのではないだろうか。

8時30分ごろ、別のホテルに宿泊する小栗さんと別れ、私たちも帰路につく。かなり冷え込んできている。空気が乾いている。これが大陸の晩秋なのだろう。

三 学術大会の開催

11月13日、学術大会の日である。朝食のあと、大石進さん、小栗実さんと三人で、ホテルのすぐ横を流れる漢江(ハンガン)の河岸を散策する。「北」を水源とする雄大な川である。ふと、その顔も知らない戸籍上の曽祖父の人生を思う。20世紀初頭に鴨緑江流域(現在の北朝鮮)で木材関係の商売を営み、かの地に骨を埋めている。

11時40分ごろ、朴榮一さんの車で会場へむかう。鄭_泳さんが会場で首を長くして待っているとの連絡が入ったのに、「主役のみなさんが慌てることはない。待たしておけばいいんですよ」と、遅めの出発である。会場の国会議員会館は国会議事堂のすぐ横にある。議事堂への道路の検問で、朴さんは運転席から顔を出して「セミナー!!」と野太いひと声、守衛(警官?)はさっと敬礼して、「どうぞ」というポーズをとったのには、いささかびっくり。実は、朴さんは退役エリート軍人なのである。

朴さんに導かれて議員会館へ入ると、鄭さんが慌てふためいて「急いで急いで」と、手招きしている。それもそのはず、12時から「相見礼・午餐」ということで、国会議員や日本大使館の参事官らがすでに着席して待っている。片や朴さんはといえば、相変わらず「まあまあ、そう慌てなさんな」という感じなのである。

型通りの名刺交換をして、国会議員の李洛淵さんの挨拶がある(40代? 日本語が上手)。すぐあとに学術大会があるのに、食卓にはキムチが何種類も並んでいる。日本では考えられないが、キムチ好きの私はもちろん手を伸ばす。

食事のあと、日本大使館の猪狩正道さんが、「布施さんのような立派な方がいたことに感激しています」と、話しかけてくる。旧植民地での大使館員には、韓国・朝鮮人の恩人と顕彰されている日本人布施辰治の存在は、とても輝いて見えることだろう。私は、「傑物ですよ。すごい人です。国際的なスケールの人ですよ」と答えた。

国会議員会館小会議場は、全体の造りと座席や天井の照明など、なかなか重厚な雰囲気である。会議場の入り口には、植民地朝鮮での布施辰治の活躍を伝える新聞記事などを掲示した衝立が配置されている。時間の経過とともに聴衆が増えてくる。典型的な民族服の老人もいる。学生とおぼしき青年層がかなりいる。演壇の上には、布施の顔写真とともに、「日本人Schindler! 国際平和主義者! 朝鮮解放の恩人! 布施先生記念国際学術大会」と書かれた横断幕が掲げられている。

1時過ぎから「開会式」ということで、布施先生記念事業会(鄭_泳)と日本側(大石進)の挨拶、国会議員(李洛淵)と日本大使館(猪狩正道)から祝辞がある。

15分ほどの休憩後、2時ちょっと前から学術大会がはじまる。聴衆は130人ほどか。日本側の報告は韓国語に翻訳されており、韓国側の報告とともに聴衆に配布済みだが、当日は、日本側は日本語で報告し、金英娥さんが韓国語に通訳することになった。

報告者と報告テーマをあげておく。大石進(日本評論社社長)「青磁の器」/森正(名古屋市立大学教授)「弁護士・布施辰治による朝鮮民族の人権擁護と敗戦後の評価」/李文昌(国民文化研究所会長)「朴烈金子文子大逆事件と布施辰治弁護士」/李圭洙(順天郷大学校助教授)「弁護士布施辰治の朝鮮認識」/鄭_泳(布施先生記念事業会代表)「布施先生と私」/司会・金雲鎬(慶煕大学大学院教授)

大石報告は、祖父の布施辰治が朝鮮でもらった青磁の器を生涯大切にしていたこと、自分を含めて布施家と朝鮮人の親交などを語ることで、日本人と韓国・朝鮮人の今後の友好を呼びかける、布施の親族ならではの説得性に富んだ内容だった。

私の報告であるが、主催者側が設定したテーマであり、学術大会の基本課題に直結する重いテーマだったが、すぐ横の司会者席から金雲鎬さんが、「先生の報告で、布施先生がシンドラーを超える人物だったことがよく分かりました」と、日本語で話しかけてくれたので、司会者として韓国語で同じような意味のコメントしたようである。ともかく、「期待に少しは応えられたか」と、ひと安心したしだいである。

韓国側の三人の報告については、韓国語が分からないのでコメントできないのだが、金英娥さんの感想では興味深い内容だったようである。李文昌さんは、数日前に身内に不幸があり喪中だのに来ていただいたとか。李圭洙さんは、かつて日本の一橋大学大学院で学んだ歴史研究者で、報告の日本語訳を約束してくれた。

報告のあとでハプニングがあった。聴衆(年配の男性)からの発言に鄭さんが反応して、結、20分ほどエキサイトする場面がつづいたのである。金英娥さんによると、その男性は、「布施先生を記念する意義ある大会の途中で多くの聴衆が退席してしまい、日本から来ていただいた方々に申し訳ない。遠くから来ていた人は仕方がないとしても、近くの人たちが帰ったのは民族の恥だ」などと怒り、「イエー! イエー!」(そうだ、そうだの意味)と、鄭さんが激しく応じ、顕彰運動への協力のあり方にまで言及したようだ。二人の興奮はそうとうなもので、「変に冷めた民族」の日本人とちがって、「熱い民族」であることを再認識させられた光景だった。

たしかに、日本側の報告後かなり多くの人たちが退席し、李圭洙さんの報告のときは、「手応えがなくてやりにくいだろうな」と、気遣う状態ではあった。ただ、遠隔地の慶尚北道聞慶(ムンギョン)や全羅北道光州(クアンジュ)からバス仕立てで来た人たちは、帰宅が夜の11時か12時というギリギリの時刻まで残っていたようなのである。聞慶は朴烈氏の、光州は金大中大統領の出身地である。

なお、学術大会終了後、私と大石さんは、朴魯秀さんと朴魯嚇さんから立派な書画をいただいた。まことに礼の国である。二人ともその道で高名な方々だそうだ。

私が頼もしく思ったのは、30人以上の学生たちが来ていたことである。司会の金雲鎬さんに尋ねると、「朝鮮大学の史学科の学生です」とのこと。朝鮮大学は光州にあるそうで、歴史関係の教員が連れてきたのだろうか。全員しっかりと聴いており、「この中から布施辰治を研究する人がでてくるかもしれない」などと、私は楽しい気分に浸っていた。ただし、その学生たちのあたりで、携帯電話の音が時々鳴っていたのは甚だいただけない。その点では、韓国の学生も日本の学生と同じということか!?

四 第一歩は成功

学術大会で残念だったのは、討論の時間がなかったことである。報道機関への働きかけも上手だったとはいえない。新聞記者が何人か取材していたようだが、後援団体の東亜日報の11月14日付け紙面に記事は見当たらなかった(大韓毎日は写真入りで報道)。また、前掲の布施辰治の番組を作った韓国文化放送は取材に来ていなかったように思う。日本関係では、共同通信社の記者が来ており、私も簡単に取材されたのだが、どこかの新聞に配信されたのだろうか。その他、私の頭の中にある市民運動論からして提示したい意見はいくつかあるが、それは別の機会にゆずることにしよう。

とはいえ、今回の企画は日本人と韓国・朝鮮人にとって歴史的に意義あることで、第一歩の踏み出しとしては成功だったといえよう。金大中政権の誕生という追い風を受けての鄭_泳さんら韓国側の運動にたいして、深く敬意を表したい。

私は次のような趣旨の言葉で報告をしめくくった。「鄭さんの言葉『布施弁護士のような日本人がいる限り、韓国と日本には未来がある』は、日本民衆への韓国民衆からの熱いメッセージだと理解しています。布施辰治の事績に学び、友情と連帯で結ばれた隣人関係を作り上げることが、究極の目標であるように思います」。今年6月の南北最高指導者の歴史的な握手という新局面の中、私たち日本人は、朝鮮半島の植民地化→南北分裂について、改めて自らの責任を厳しく問うことを迫られている。

多くの関係者との夕食会は楽しかった。とりわけ、鄭さん夫妻の笑顔が印象的だった。鄭さんが嬉しそうにいった.「森先生はもっと怖い人かと思っていました」。私は答えた。「私も同じように思っていたのですよ」と。

翌14日の12時過ぎ、鄭さんと朴榮一さん、小栗実さん(当日の夕方フライト)に見送られて、私たちは金浦空港をあとにした。2泊3日の中身の濃い旅だった。
『新状況通信』(大崎晴由 編集・発行)723号(2000年11月27日)に掲載



その記念集会の記事が、共同通信から配信されましたので、紹介します。

◎日本版シンドラーに光を  韓国で業績評価のセミナー

 【ソウル13日共同】戦前、戦後を通じて韓国・朝鮮人の人権擁護活動を展開し、韓国で「日本版シンドラー」と評価される弁護士、故布施辰治氏(一九五三年、七十二歳で死去)の隠れた業績に光を当てようと国際学術セミナーが十三日、ソウル市内で開かれた。

 生誕百二十周年に合わせて市民運動家チョン・ヨン・ジョンさん(61)らが主催し、日韓双方の研究者や市民、学生ら約百人が参加。
 布施弁護士は自由法曹団の創立メンバーで、三鷹事件や松川事件の弁護人にもなったが、治安維持法下の戦前から戦後の混乱期にかけて一貫して韓国・朝鮮人の人権擁護のため弁護活動をしたことは韓国でほとんど知られていなかった。
 この日は森正・名古屋市立大教授らがその業績と評価について発表。関東大震災時の朝鮮人大虐殺への抗議・告発、植民地下の朝鮮各地で身分差別廃止運動を支援したことなどを紹介した。
 六年前に布施弁護士の存在を知り「ナチス迫害からユダヤ人を守ったシンドラーを超える」と思った鄭さんは、昨年秋のソウルでの世界非政府組織(NGO)大会を契機に顕彰運動を始めた。鄭さんは「日本の植民地支配と闘った独立運動家を命がけで支えた日本人弁護士を礼をもって遇し、その精神を広めたい」と話している。



2004年10月13日の朝日新聞に、つぎのような記事がのりました。同様の記事が、時事通信、共同通信、「しんぶん赤旗日曜版」にも掲載されました。

◎「朝鮮版シンドラー」故布施弁護士に建国勲章 韓国政府
-------------------------------------------------------------------------------- 韓国政府は12日、日本の植民統治からの独立を訴える朝鮮人運動家らを弁護し、韓国メディアから「朝鮮版シンドラー」とも呼ばれる故布施辰治(ふせ・たつじ)弁護士に建国勲章を授与することを決めた。同勲章は朝鮮独立運動に寄与した人物に与えられ、日本人の受章は初めて。

 布施弁護士は1880年、宮城県生まれ。明治法律学校(現・明大)を出て弁護士になり、戦前の米騒動事件や戦後の三鷹、松川事件などで活躍した人権・社会派弁護士で、1953年に死去した。
 3・1独立運動(19年)の直前に東京で独立宣言を発表した「朝鮮青年独立団」の関係者や、26年に大逆罪に問われた朝鮮人運動家らの弁護に当たったことなどが受章理由になった。
 韓国では、ナチスの迫害からユダヤ人を守ったシンドラーになぞらえ「朝鮮版シンドラー」として評価する動きが広がり、民間団体を中心に布施氏への授章を求める声が高まっていた。
 孫に当たる大石進・日本評論社会長は「祖父が韓国の人たちの役に立ったことが認められ、うれしい」と話している。
 韓国の「布施辰治先生研究会」の鄭ジュン泳(チョン・ジュンヨン)代表は「朝鮮民族の痛みに心を配り、解決のために献身してくれた。授章は韓日関係の発展にも寄与する」と喜んでいる。