「君が代」「日の丸」への敬意強制は、「内心の自由」に反する

                 小栗 実(鹿児島大学教員・憲法学)

 学校では卒業式・入学式の季節になりました。99年8月13日に、与党が多数で広範な反対を押し切って「国旗・国歌法」を制定しました。その「国旗・国歌法」が施行されてはじめて、卒業式・入学式を迎えたこともあり、昨年の3、4月には、全国各地で「君が代」「日の丸」へのさまざまな敬意強制の実態が明らかになりました。同時に、そうした強制に対する市民の抵抗もいろいろな形でなされました。

 長年、「日の丸」「君が代」なしに卒業式・入学式をおこなってきた学校で、掲揚・斉唱が昨年になってはじめて強行導入された例も多くありました。卒業式での「君が代」斉唱のさい、誰が着席して歌わなかったかなどについて生徒に聞き取り調査した中学校さえ現れました(広島県)。その中学では、生徒二人が「思想調査をされた」と弁護士会に人権救済を申し立てています。入学式でも、北海道・大阪・広島・福岡などで「君が代」斉唱に抗議した教員や斉唱を強行しなかった校長が処分されています。

 そのほかにも、広島県の教員採用試験では「日本の公務員として国旗・国歌を子どもたちにどう教えますか」などという「思想調査」まがいの質問が行われたり、岐阜県知事が「国旗国歌を尊重できない人は、日本国籍を返上していただきたい」(のちに発言撤回)と発言したりしました。「君が代」「日の丸」が一種の「踏絵」のようになっている感さえあります。

 「国旗・国歌法」はたしかに制定されてしまいましたが、その内容は「国旗は、日章旗とする」(第1条)、「国歌は、君が代とする」(第2条)と定めているだけで、一人ひとりの個人に対して、遵守することを義務付けてはいません。人権保障の点からみて、「遵守義務」を規定できなかったのです。日本国憲法は第18条で「思想・良心の自由」を掲げています。だから、「日の丸」「君が代」をどう受け止めるかについては、一人ひとりの個人が、自分の生きざまや人格に応じて、自分の思想・良心にてらして、考えるものであって、公権力が一方的に押し付けてはならないはずです。一人ひとりの個人ごとに、国に対するそれぞれの「愛し方」があって当然と考えられます。ですから、「君が代」の斉唱を、処分をちらつかせて、無理やり強制すること自体が、憲法に反するものです。

 「思想・良心の自由」に関連して、憲法学では「沈黙の自由」という考え方があります。「自分が言いたくないことを無理やり言わされることはない」という意味です。「君が代」斉唱の強制も、この「沈黙の自由」の侵害といえるのではないでしょうか。

 

「日の丸」が、とくに15年戦争のときに果たした役割に注目して、拒絶・嫌悪を感じる人がいることはごく当然なことで、国民主権・平和主義を原則とする日本の、学校や官庁で掲揚をすることがふさわしいかどうか、構成員の間で十分に議論され、合意がはかられて当然でしょう。いま、議論も十分になされないまま、多数者によって決定されて掲揚が強行されるのは、少数者の考え方や表現の確保を最大の目的とする人権保障の理念からしても、大きな問題点をもっています。

      『まちづくり8/6ニュース』81号、2001年2月25日