比較憲政史(小栗)プリントA
近代憲法の誕生から議会制民主主義へ
−イギリス憲法の歴史と現在―
(1)市民革命期の憲法
革命の成果としての「権利章典(Bill of Rights) 」(1689年)
17世紀のピューリタン革命および名誉革命の成果をまとめた
そのさい、革命推進派によって活用されたのが「マグナ・カルタ」(1215年)=国王と貴族との対立のさい、国王が貴族の諸特権を確認する文書を承認したのがこれ。中世的な自由を認めた。「国王は何人の下にあるべきものでもないが、神と法の下にあるべきである」。たとえば、貴族の権利を守るために以下のような規定があった。
「自由人は、その同輩による合法的な裁判または国法によるのでなければ、逮捕・監禁・差押・法外放置もしくは追放をうけ、または法によって侵害されることがない。」(マグナ・カルタ39条・『人権宣言集』(岩波文庫・34頁)
この「マグナ・カルタ」を用いて、スチュア−ト朝に対抗しようとしたのがエドワ−ド・クック(最初、コモンロ−裁判官のちに議員になる)。クックは「権利請願」(1629年)の採択に活躍。
(2)イギリス革命の展開と憲法
1629年 「権利請願」−国王の強権発動と法律によらない強制公債に対抗(『人権宣言集』(55頁)
1640年 12年間、議会が招集されなかったが、財政不足に悩む国王はとうとう議会を招集。議会側は、議会を3年に1回はかならず開会する法律などを国王にみとめさせた(長期議会)。
1642年 宗教的な対立、軍隊指揮権をめぐる対立から内戦発生
1649年 議会側の勝利、国王チャ−ルス1世が処刑される。
1653年 「統治章典」−イギリスで唯一の成法憲法典。
1660年 王政復古
1679年 人身保護法(『人権宣言集』(63頁)
1688年 名誉革命 国王ジェ−ムズ2世を追放し、新しく国王を招聘した。
1689年 「権利章典」議会側が国王に約束させた文書。いまでもイギリスの現行法である。(『人権宣言集』(78頁)
内容・議会主権の原則の確認(国王と庶民院、貴族院の三者の共同意思が王国の最高の法となる)
・国会の同意なしに法律を停止することの禁止
・宗教裁判所の廃止
・国会の同意なしに税を徴収することの禁止
・国会の同意なしに平時に常備軍を募集・維持することの禁止
・請願権
・自由な選挙
・議会での自由な審議の保障
・議会の頻繁な招集
・人身保護の徹底(人身保護令状による自由の確保)
1701年 「王位継承法」(『人権宣言集』(90頁)
・裁判官の身分保障を定める(「罪過なきかぎり」身分が保障される)
(3)イギリスにおける近代立憲主義の特色
・中世立憲主義からの形式的な連続性の維持と内容の近代的な性格
・身分制議会から近代議会へ
すでに11世紀に議会の原型がつくられている
1265年 貴族のほか、騎士と都市市民の代表で会議
14世紀には二院制ができたとされている。
市民革命を経て、外見的には同じようでも、議会主権が確認され、近代議会となる
・「聖俗の貴族および庶民」の権利の確認という中世的な形式で、人権の保障が確認された。
・この経験を理論的にまとめたのがジョン・ロックである。
自然権 契約にもとづく政府 抵抗権の考え方
『市民政府論』(岩波文庫)
(4) イギリスにおける議会制民主主義の確立
@ 国王の実質的な権限の喪失
・1707年以来、国王の法律裁可拒否は行われなくなる。
・18世紀前半に大臣による行政権の掌握が実体となる。
1715年 ウォルポール 「最初の首相」
「内閣」は一体で、おなじ議会の党派から選ばれるようになる。⇨二元主義型議院内閣制
・1782年 ノース首相が庶民院の問責決議をうけて辞職
・1832年 庶民院でホイッグ党(のちの自由党)が多数なのに、国王がトーリー党(のちの保守党)の首相を任命しようとしたが、失敗
⇨一元主義型議院内閣制へ
(2)普通選挙の実質的な確立
・1832年 第1次選挙法改革=「腐敗選挙区」をなくし、有権者を50%程度増やす。
・1838年 チャ−チスト運動「人民憲章」
・1867年 第2次選挙法改革=一定以上賃貸料を払う賃借り人にも選挙権
・1872年 投票の秘密を保障する記号投票制の実施
・1883年 腐敗防止法による選挙費用規制
・1884年 第3次選挙法改革=極貧者、使用人、親と同居している成人、女性をのぞいて選挙権をみとめる
・1918年 21才以上の男性、30才以上の女性に選挙権
・1928年 21才以上のすべての国民に選挙権
・1948年 事業所投票権・大学選挙区の廃止
(3)貴族院の弱体化
1911年 国会法
・貴族院は内閣を倒すことができない。
・予算がかかわった法案は庶民院が優先。
・予算がかかわらない法案は、庶民院の5年以内の任期中に、連続三会期にわたって、庶民院で可決され、その後二年経過したときは、貴族院の反対にもかかわらず、法律となる。(1948年法で、連続二会期、一年経過に改正)
(5)現代憲法への展開
(1)イギリスにおける社会保障
1908年 無拠出制老齢年金(社会扶助)
1911年 国民保険法(健康保険と失業保険)
1934年 失業法(失業保険と失業扶助)
1942年 「ベヴァリッジ報告」(この計画にもとづき、大戦後の45年から48年にかけて家族手当法、国民保険法、国民業務災害保険法、国民保健サービス(NHS)法、国民扶助法、児童法などの一連の法律によって社会保障制度がつくられた。
この制度では、全国民が対象とされ、均一額の保険給付と均一額の保険料を原則とした。とくに注目されたのは、病院を国営とし、医療費を無料にしたことである。(柴田嘉彦『世界の社会保障』新日本出版社)
(2)女性の社会進出と男女平等の実現
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