帰国者の裁判所あて意見陳述書


以下の意見陳述書は、鹿児島「中国残留孤児訴訟」で、鹿児島地裁あてに提出された「残留孤児」の陳述書です。帰国者がおかれた状況がよくわかるので、ごらんください。名前のところはふせてあります。


平成15年(ワ)第705号国家賠償請求事件
原告鬼塚建一郎外20名
被告国

意見陳述書

平成16年8月18日

鹿児島地方裁判所御中

原告 ****

尊敬する裁判長、裁判官の皆様

私は、****と申します。推定年齢62歳です。
私は、1991年3月6日、中国遼寧省撫順市露天区9委19組から祖国に帰国しました。帰国当時48歳でした。

今日、神聖な裁判所で意見陳述の機会を与えて頂き、感謝にたえません。

私は、戦後中国の地で幸いにも生き残り、戦時死亡宣告制度に見られるような政策により日本政府から見捨てられた中国残留孤児の地位にありました。日木政府の植民地政策や棄民政策という不正義によって犠牲となった私の青春を返して欲しくて、この訴訟を提起しています。私は、未だに身元が判明せず、自分のルーツが分かりません。この苦しみは喩えようのないものです。現在も、日木政府の支援政策の不十分さのために養親の墓参りにも帰れない苦しい日々を送っています。戦後から現在まで、私たち残留孤児の塗炭の苦しみを裁判官の皆様に是非理解して頂きたいと思います。

まず、この場を借りて、私の祖国帰国のため一生懸命暖かな手を貸してくれた日本の各民間団体及ぴ各界の方々に心から感謝を申し上げます。何よりも、中国で私を引き取り育ててくれた優しい養父母がいなければ、私はこの場にいなかったでしよう。育ててくれた養父母のことは、一生忘れません。

私は、1945年、2〜3歳ころ、当時のことはまったく覚えていませんが、撫順市南駅付近で養父母に日本人の両親から300元で買われだそうです。養父によれば、私はそのとき2週間、泣き止まなかったそうです。その後、養父母は心血を注ぎ、私の面倒を見てくれました。私は、養父が亡くなった1966年、私が21歳のときに、亡くなる直前の養父から私が日本人であることを聞かされました。

さて、私が物心ついたころ、養父母の家には、車、電話、馬車もある比較的豊かな一暮らしでした。しかし、1949年新中国設立、翌年に、養父母は全財産を没収されました。当時、私は小学校2年生でした。1953年、養母が交通事故でなくなりました。その後は、私と養父の2人暮らしでした。1960年には、私は高校を卒業し、音楽が大好きだったので、しん陽音楽学院に進学したいと養父に相談しました。しかし、受験できませんでした。養父が強く反対したからです。受験できなかったのは、私が日本人であることが原因だと、後で分かりました。そのため、私は、夢を捨てて、撫順日報に就職しました。

その半年後、私と養父は資本家だったことから、肉体労働による思想改造のため、新ピン県木奇鎮という山奥に強制的に移転させられました。銃を突き付けられ、泣く泣く強制移転させられました。後で分かったことですが、私が日本人だったことも一因でした。私と養父は、農業のことが全く分からず、苛酷な重労働に耐えながら、頑張りました。しかし、そのような中で、養父は肝臓ガンを患いました。病院で看てもらったときは手遅れでした。病院の帰りに私は養父と一緒に食事をしました。そのとき、養父は、私が日本人であること、日本人の両親から買ったことなどを話してくれました。私は、そのとき、自分が日本人であることを知り、養父に、両親のことなど色々尋ねました。しかし、養父は儒教思想が強く、私に「*」の姓を引き継いで欲しいと願い、私の日本人の名前など一切教えてくれませんでした。養父は、亡くなる直前に私が日本人の子であるとの遺書を遺し、1966年に亡くなり、私は、天涯孤独となりました。

当時、中国は文化大革命の最中で、私は、自分が日本人であることを他の人に知られたら生命がないと心配し、心の奥底に隠すしかありませんでした。それからは、養父母の死、残留孤児からまた孤児になったこと、農村の慣れない生活などなど、不安と辛さに耐える日々でした。昼は仕事をし、夜は眠れない長い長い夜を過ごしました。そのため、私は、僅か数ヶ月の間に、未だ20歳という若さで真っ黒だった髪が今のような白髪に変わりました。もし、当時妻と結婚していなければ、私はどうなっていたかわかりません。養父が亡くなって、3ケ月ほどして、私と同じく強制連行された中国人の妻に出会いました。妻は養父を亡くした私に優しくしてくれました。妻の両親や家族は、私が日本人であることを知っていたので、私との結婚に大反対をしました。でも、優しい妻は、私と一緒に暮らすようになりました。その後も、私は、自分が日本人であることをずっと考え続けました。

中国には、「落葉帰根」という諺があります。人は必ず生まれたところに帰るという諺です。私は、この諺のとおり、日本に帰りたい、私の肉親に会いたいと考える毎日でした。私は、生産隊で約4年間会計の仕事を任されていましたが、その後、遼寧省交通庁道路工事に募集があり、応募し、測量の仕事を得ることができました。

1972年、日中関係に大きな変化がありました。田中角栄首相が訪中され、日中の国交が回復しました。そして、中国残留孤児について協議がなされました。この時、私の心の奥にしまい込んでいた扉が開くような感じになり、その時から、私は日本の肉親探しの道を歩き始めました。私は、早速、撫順市公安局外事課を訪ねました。私は、肉親探しや帰国について色々質問し、養父の遺書も見せました。それから公安局の方が私のことを徹底調査され、その結果、私が中国残留孤児であることが確定されました。私は、公安局から残留孤児の証明書をもらい、瀋陽総領事館に間い合わせるように教えてもらいました。私は、喜び勇んで領事館に行き、当時の総領事官小川さんに面会しました。そのとき、小川さんは、直接厚生省に連絡をするように言われただけでした。

私は、小川さんに言われたとおり、厚生省に手紙を書きました。1973年の春のことでした。厚生省からは、直ぐに返事が来ました。その手紙には、私の整理番号が2429番であること、次に手紙を書くときは必ずこの番号を書くこと、そうしないと返事はこないこと、根気よく待って欲しいことが書かれていました。その後も、私は、何回も何回も手紙を厚生省に送りました。一体いつ日本に帰れるのか、どうすれば帰国手続ができるのか、手紙を出し続けました。しかし、返事は、いつも「待ってください」ということだけでした。空しく時間が流れて行きました。

希望が空しく失われ、10年以上が経過した1987年のある日、撫順市公安局から1通の手紙がきました。私が待ち望んだ、第16回肉親探し訪日調査団に参加出来るという知らせでした。私も感激し、家族も皆大変喜びました。肉親に会えるかも知れない、待ち佗びていた日本に帰れると期待に胸を膨らませ、訪日の準備を整えて出発の日を待っていました。そこへ公安局から1通の手紙が来ました。出発前の打ち合わせのつもりで、喜び勇んで公安局に出かけたところ、担当者から「今回の肉親探しの訪日調査団への参加を取り消されました」と告げられました。大きなショックを受けました。原因を尋ねても、日本政府からの指示で中国政府とは関係ないと言うだけでした。私は納得できず、瀋陽総領事館に行って事情を聞きに行ったところ、厚生省に尋ねるように言われ、尋ねたところ、私に親族が見つかったので、肉親探しには参加できないと言われたのです。見つかった親族に身元保証人となってもらい帰国するほかないと言われました。そのことを聞いて私は気を失いました。

その後、私は、10日間に1回厚生省に手紙を書き続けました。暫くして、厚生省から、私の頭髪10本を送付するようにとの書類が送られてきました。私は言われたとおり頭髪10本を厚生省に送りました。当時は、身元判明者は、日本の身内に身元保証人となってもらい手続をしないと日本に帰国できませんでしたが、結局、親族と考えられた人は私の親族ではないことが判明し、私は、仕方なく、ひたすら待ち続けたのです。

そして、漸く1988年12月ごろ、公安局から第19回肉親探し訪日調査団に参加する通知書が届きました。私は疑心暗鬼になり、参加できなくなる可能性はないのか、公安局に尋ねました。分からないとの返事でした。しかし、このときは幸いにも何事もなく進み、私は、1989年2月24日、初めて祖国日本の土を踏むことができました。日本に帰れると思い始めた時から17年の歳月が過ぎていました。

しかし、14日間の調査の結果、私は未判明中国残留孤児とされました。当時46歳でした。当時の厚生省の方は、帰国後も政府が継続して肉親を探してくれると言いました。しかし、実際は、そのとき以降現在まで、政府は、私の肉親探しをしてくれませんでした。最初で最後の私の肉親探しの旅は終わったままです。

私は1989年3月10日訪日調査から中国に帰った後、日本帰国定住の申請をしました。その年の終わりになってしばらく、帰国許可が下りました。

ところが、私には妻と子ども四人がおり、私は、皆一緒に帰国できるものと思っていましたが、帰国の許可が下りたのは、妻と長女昌子を除く3名の子どもだけでした。当時22歳の長女昌子は、帰国を許可しないとされたのです。それは、昌子が仕事を持っており、自立能力があるので、許可できないということでした。家族五人が先に帰国定住して自立してから長女昌子を呼んで下さいと書いてありました。

しかし、私は、長女昌子を中国に一人残すことはできないと思いました。その当時中国社会はとても不安定であり、独りぼっちとなったときの長女昌子のことを思うと、親として下欄で、自分と同じような孤児には絶対にさせたくないと思いました。それで、私は、皆で帰国できるまで、色々な努力をして家族全員揃って帰国許可のでる日を待ちました。2年間は、私たち家族には、またまた毎日不安沈痛な日々が続きました。そして、漸く私達の努力が稔り、家族全員揃っての帰国ができることになったのです。

そして、1991年3月6日、48年育った中国、遼寧省撫順市から祖国にようやく帰ることが出来ました。尊敬する裁判長、裁判官様、私が帰国できたのは、既に48歳を過ぎていました。それでも私も帰国後は一生懸命日本社会にとけ込もうと努力しました。しかし、物覚えも悪くなり、日本社会にとけ込むのには無理のある年齢となっていました。無力です。もし国交回復直後に日本に帰れたならば、当時の年齢も若く、現在みたいにならないで日本語ももっと上手に話すことができ、日本の社会にも馴染んだことと思います。非常に長い間待ち続けた結果、私の青春はついえてしまいました。

確かに、私たちはある意味、幸運の子供です。異国の地での中傷、劣悪な環境で50年働きました。老いてようやく自分の祖国「日本」に帰国することが出来ました。

ただ、老後の生活が不安です。全く保障がありません。さきほども述べましたが、私は、生活保護で生活しているので、養父母の墓参りにさえ行くことができないのです。普通の日本人であればできる家族旅行もできません。日本国民の権利である義務教育9年間も受けることも出来ませんでした。経済的余裕も能力も全くなく、福祉からもらえる生活保護費での生活は、暮らしていくだけで精一杯です。今、現在、普通一般の人で50年働いたならば、年金はどのくらい貰えるのでしょうか?

私は、中国で必死に働いてきました。命がけで働いて来たのです。福祉課の人は、私たち中国残留孤児が中国にいる間の未納分の保険料を支払えば年金をもらえると言いました。漸悦に堪えません。

尊敬する裁判長、裁判官の皆様、私たちに対して普通の日本国民と同じ権利と公正なる判決を希望いたします。有り難うございました。

以上