「中国残留孤児」の鹿児島地裁での意見陳述


以下の意見陳述書は、鹿児島「中国残留孤児訴訟」で、鹿児島地裁あてに提出された「残留孤児」の陳述書です。帰国者がおかれた状況がよくわかるので、ごらんください。名前のところはふせてあります。

平成16年(ワ)第705号国家賠償請求事件
原告鬼塚建一郎・外20名
被告国

意見陳述書

2004年8月18日

鹿児島地方裁判所御中
原告****

私は1945年冬、黒龍江省阿城市で父と別れました。当時、約5歳でした。約というのは、私の真実の生年月日はわからないからです。中国のどこで生活していたかは全く分かりません。父は店の店員をしていたようなかすかな記憶があります。母は、その2年ほど前に子供を産むとき難産で亡くなった記憶があります。ソ連軍が攻めてきて、私の記憶の中では戦争が始まったという感じで、鉄砲の音のする中を父と弟と3人でそれまで住んでいたところから汽車や車を乗り継いで、黒龍江省阿城市に来た記憶があります。父は日本に帰るに際し、私と弟を連れて帰りたいと希望していたようですが、季節が厳冬の時期で、食べ物もなく、私と体力が弱っていた弟を連れて帰ることは困難と思い、子どものいない養父母に私を預け、養父母の弟に弟を預けていきました。帰国するということでしたが、実際に帰国できたかどうかはわかりません。弟は、その後、すぐに病気で亡くなりました。父は、私の本名等、手がかりとなるような書類もなにも残していきませんでした。ただ、養父母の弟の話によれば、「**」という名字だったようにその後聞きました。

私は、子どものいない養父母に育てられました。養父は私が預けられた当初は、馬車を使って人を乗せて運ぶ体事を個人で営んでいましたが、2年ほどして、皮や麻でものを作る会社の従業員になりました。生活は豊かではありませんでしたが、養父母は私を愛情をもって育ててくれました。学校は、小学校を卒業しました。私は、小学校卒業した1955年8月から、映照像館(写真屋)で働きました。1956年1月には、事業会社のほとんどが国営化されたのに伴い、私が勤めていた会社も国営の映照像館になりました。1958年に同じ会社に勤めていた夫と結婚し、子どもを3人もうけました。私が日本人であることは、私も周囲の人たちもみな知っていました。そのため、いじめを受けたことはありますが、特にひどい差別を受けることはありませんでした。夫は私が日本人であるということで、会社での地位が上になれませんでしたが、夫はそのことを私に言いませんでした。そのことは、周りの人から聞いていました。

夫は1973年に癌で死亡しました。それまではそれなりの生活をしてきましたが、9歳、11歳、13歳の子供をかかえ、私たちの生活はかなり苦しい状態になりました。私は日本に帰りたいという気持ちを強く持っていましたが、1972年日中の国交が開放したとはいえ、私にはとてもかなえられない夢としか思われませんでした。そのうち公安当局を通じて、厚生省から連絡がきました。私は帰りたいと書きましたが、その返事はありませんでした。しかし、1986年6月やっと、訪日調査で日本に来ることができました。しかし、父は養父母に姓名も言わず、なんの手がかりもなかったため、肉親を探すことはできませんでした。中国に帰った私は、夫も死亡しており、どうしても日本へ帰りたいという気持ちをどうすることもできませんでした。1988年に、周囲の人に帰国したいという意思を伝えた方がいいと勧められ、日本領事館に何回も手紙を出したりしました。1990年7月、中国での仕事も定年の50歳で辞め、養母も「貴女が生まれた国に帰ったほうが幸せだ」と言ってくれました。

1991年3月6日に私はやっと帰国することができました。初め、福岡の帰国者センターで日本語等を学びました。3人の子どもは、18歳を超え、既婚でもあったため、一緒には帰れませんでした。福岡の帰国者センターで、もう少し日本語を学びたかったのですが、子どもたちを呼ぶためには一日も早く日本での生活ができるようにしなければならず、身元保証人の***:さんの紹介で、1991年7月1日鹿児島の企業に就職しました。給料は1日6,000円でした。子どもたちは、勤め先の社長の身元引受で、1992年3月、三人とも帰国することができました。2000年9月、私は60歳で定年になったので勤務先を退職しました。

現在、厚生年金月額2万7,500円、生活保護4万2,OOO円、約7万円で生活をしています。住居は県から保障されるものの、これだけの収入では十分な生活はできません。特に、病院での受診に制約があって困りますし、中国にも里帰りをしたいのですが、あまり行くことが出来ません。私は、言葉も自由に話せないということで、周りから日本人として認められないという思いがあり、現在も差別を受けているという感情があります。

もし、私がもっと早く帰国できていれば日本語の勉強ももっとできて、自由に日本語を話すことができ、他の日本人と同じように仕事を探し、同じように仕事ができるようになったと思います。私がこの訴訟で訴えたいことはもっと早く帰国して普通の日本人と同じような生活を送りたかったということです。裁判官におかれましてはこの私達の切なる思いをくみとっていただくことを強く望みます。