音楽雑感〜日記風
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2003年1月30日(木) バッハのシンフォニア〜練習のヒント

 バッハのインヴェンション(2声)なんて、別に難しくない、などと言う子供は時々いるんですね。ところが、シンフォニア(3声)の方は、そう簡単にはいかないのです。人間は同時に二つのことは考えられない、と言うけれども、考えてみれば、右手と左手が違うことを弾けるというのは不思議ですよね。小さい頃(5歳か6歳だったか)、ピアノを弾いていると、おばあちゃんに褒められたことがありました。「あんた、すごいね、だって、右手と左手と違うこと弾いてるんでしょ?」 子供心にも、「ユニゾンを弾く方がよっぽど難しいと思うけど・・・」と思った記憶がありますが(笑)、それにしても、確かに両手が同時に違うことを弾くというのは、難しいことのように思えます。でも、子供だってみんな平気で左手が伴奏を、右手がメロディーを弾いたりしています。私の仮説では、人間は同時に二つのことまでは考えられるのではないか?(笑) と思っています。これが、3声のシンフォニアとなると、話はまったく別です。実は、シンフォニアが難しいのは、ただ一声部が増えるからではないのです。同じ声部を、たとえば左手から右手に渡したりする(逆もある)のが難しいのですね。耳を良く使って、そして指の感覚も熟練しなければ、きれいに旋律がつながって聞こえないのです。15曲のインヴェンション(2声)には、実はこの両手の「手渡し」の技術が要らないのです。右手が一声部を、左手がもう一声部をという具合に、すべてがきれいに分かれているのですね。これが、インヴェンションがまだ簡単な理由なのです。

 ところで、フーガも3声とか4声とかありますが、私の友人のピアニスト(外国人)の話ですが、彼の先生の指導法は、バッハの平均律を勉強する時に、彼がまだ子供であったにもかかわらず、すべての声部を一つずつ暗譜させて弾かせたというのですね。それをやらされたと言っていました。日本でも、そのような指導を受けたという人を聞いたことはありますけれども、私自身はやったこともやらせたこともありません。確かに気合の入った練習方法だとは思いますけれども、一声部ずつ弾くと、途中でお休みもけっこうありますし、だいたい残りのほかの声部を想像しながら、または頭の中で歌いながら一声だけを弾きつづける、ということにものすごい神経をすり減らされるのです。部分的に、ある声部を弾きながらほかの一声を歌う、というのは練習になりますから、これには賛成です。私がそれより大切だと思う練習は、先ほど言った「手渡し」の部分です。ここを徹底的に取り出して練習するのが効果的なのです。一つの手で弾いているように聞こえなければならないのですね。「手渡し」がない部分は、実はそれほど難しくはないのです。同時に多声部を弾いて、しかも反対の手への手渡しが途中であったりして、そこでアーティキュレーションを正しく弾いたり、すべての旋律を歌ったりするのが難しいわけです。ちなみに、ホロヴィッツなどの演奏を聴いていて、ときどき手が3本あるように聞こえるのは、この「手渡し」が上手いからなのですね。

 シンフォニアは、第1番からこの「手渡し」が頻出するわけで、初めてこの曲を、何の予告もなしに子供のときに弾かされた私は、最初のうちかなり面食らいました。しかも、第1番は特に難しいのですね。勉強する順番をよく考えなければなりません。それから、インヴェンションとシンフォニアが難しいと思われるもう一つの特徴は、長く持続するトリルが出てくることでしょう。これがなければインヴェンションもかわいいもんなんですけどね。このトリルは、本当は自由に弾くべきなのですが、初心者には数を合わせて弾くのがやはり近道なのです。ところが、その“合わせる”ことが、至難の技に思えるほど難しいのです。難しいトリルは、バロックや古典派の楽曲に多いのです。スカルラッティーなども、トリルが多いから上手く弾けないという人は多いですよね。それにしても、ベートーヴェンに頻出する“二重トリル”は、一体あれは何なのでしょうね。3番のコンチェルトの第1楽章のカデンツァ最後の部分の、あの「二重トリルを弾きながら残った指でメロディーを弾く個所」がありますね、もうあそこまでいくと開いた口がふさがらない人もきっといるでしょうね。(笑) あの楽譜を何の予告もなしに見たときも、ショックを受けました。こんな難しいこと書かなくても、ほかにも書き方があるでしょう!って、確かに言いたくなるパッセージではあります。
 そうですねー、トリルの克服についても、今度考察してみたほうが良いかもしれませんね。“悪魔のトリル”とはよく言ったものです。



2003年1月28日(火) バッハのインヴェンションはなぜ難しい?

 ところで、「難しい曲」ってたくさんありますが、「弾けない」という悩みは尽きません。難しくない曲だって、やはりそう簡単には弾けません。指が「動かない」とか、「回らない」とかいろいろありますが、はたして何が難しくて弾けないのかを、その都度“分析”する必要はあるでしょうね。ピアノを30年以上もやってきた私であっても、例えば手が冷たかったら全然弾けませんし、曲を覚えていなかったら、やっぱり弾けません。そんなことでも、すぐに自信喪失するものです。まあそういうのは別にして、一応ここでは、ピアノをそれなりに続けてきた人を対象にしてお話ししてみましょうか。

 弾けない理由は、実はたくさん存在するわけではなく、いくつかに分けられるのですね。
まず、“指が届かない”、というのがあります。これは、実はけっこうあって、言われてみないと分からないことでもあります。日本人にとってはネックにもなっていることの一つです。ピアノの鍵盤の幅が決まっている以上、オクターヴの幅は、手の小さい人大きい人に関係なく決まっているわけなのです。和音などが、実際届かないパッセージは、多くの人に有り得るはずです。“ギリギリ”つかめている和音は、3回に1回ははずすのですが、何故はずすのか、その理由は練習が足りないからではなく、手が小さいからということがあります。“届かない”ことが理由で弾けない場合、いくらさらってもダメです。(笑) 解決法は三つしかありません。すなわち、反対の手で取ることが可能か、無理ならアルペジオで弾くか、それも無理なら音を省くしかないのです。(もう少し高度になると、すごい方法があるのですが、ここでは書きません。^^;) ちなみに、分散和音的なパッセージや、一見普通のパッセージにも、手の大きい人ならやっぱり楽だという箇所はいくらでもあります。手の小さい人は、両手の使い方が逆にもっと器用にならなくてはいけないですね。
 次に“指が回らない”というのがあります。これはですね・・・^^; テクニックをつけるしかないのですけども、運動神経がもとからあまり冴えてない人もいるのですね。そういう人は、遅いテンポで演奏するしかないのです。そして、それで良いのです。弾けない箇所は、ゆっくりのテンポで練習して、その練習の延長線上に弾けるようになったテンポで弾けば良いのです。ただ、指が“強く”なると、不思議なことに“速く”も動かせるようになるということはあります。これは本当です。だから、指が弱いと自覚するする人は、鍛えて強くなったら、突然何でも楽に弾けてくるということがあります。
 それから、“とにかくどうしても弾けない”、というのもあります。これはですね・・・実は、「指使いが悪い」ということが一番多いのです。弾けない理由の“第一位”は、たぶん指使いが良くないからなのです。だから、逆にいうと、指使いが完璧であれば、あとは練習していけば必ず弾けるのです。良い指使いを教えることのできる先生は、良い先生なのです。これは、楽譜には書いていないことが多いのです。ただ、その“良い指使いがすぐに分かる”、というのは、これは長年の熟練によることでもあります。

 このほかに、基本的な手の使い方、腕の使い方、力のかけ方・抜き方のこつが分かっていないと、どうやっても先に進めない場合もあります。これは、根本的な問題なのですが、意外に後回しにされてしまうことでもあります。実は、大事な問題なのですが。ただ、あまり小さな子にはすぐにはできないことなので、実際はかなりの年齢になってから(16〜18歳以上)、気がついて、または指摘されて身につく人もいます。そして、その時代に奏法がはっきり変わってしまう人もいます。特に、“本当の脱力”ということに関しては、プロのピアニストでも常に研究を重ねている人もいるようで、なかなか奥の深いものでもあります。

 さて、バッハのインヴェンションや平均律が難しい理由は、上に挙げたのとはちょっと違います。それは、“暗譜をするのが難しい”ということとも関係があるのですが、楽曲の作りが複雑で、中身が濃いとも言えるからなのですね。ポリフォニーとは、無意識に指を動かしていては、弾けないものなのです。2声であれば、2つのことを同時に考えなければならないのですが、「人間は同時に二つのことは考えられない」とか言われていたりして、その矛盾をどうするのか。さらに、3声のフーガ、4声のフーガとなると一体全体、頭はどう使われているのか、という問題があります。上手いピアニストの演奏を聞くと、同時に多声部を聴き分けているようにも聞こえるし、一体どうなっちゃっているのでしょうね。そういうことができるようになるためには、秘密がありそうです。続きは、また書きましょう・・・。



2003年1月26日(日) ポリフォニーと天才作曲家

 ピアノ学習者には、バッハのインヴェンションやフーガに代表されるような「ポリフォニー音楽」には、いつ頃から触れるのが良いか、という問題がありますね。バッハのインヴェンション(2声)はよく難しい、と言います。シンフォニア(3声)は、さらにもっと突然に難しくなります。これを子供が弾けるのか、という問題です。ポリフォニーに自然に入れる教材というものも、あまり数がなくて苦労するのですね。かと言って、すぐにバッハ、というわけにもいかないのですね。だいたい、バッハの作品だけが極端に難しいのです。つまりバッハが特別な天才だったと言われればそれまでなのですが、でもピアノを勉強する人にとっては、ある程度体系的な学習ができなければ困ってしまうわけです。

 フーガなんてものは、だいたい頭が良くなくては書けないものなのですね。たくさんの声部をそれぞれ独立させて動かして、しかも和声的にもきれいに音楽が流れていく。そんな神業的なことは、そう簡単にできるものではありません。私自身も、実は子供の時には作曲もしたりして遊んでいましたが、高校生くらいになって、「バッハのフーガってどうしてこんなに素晴らしいのだろう、自分にも書けそうだ」と思って、「よし、フーガを書こう!」と突然学校の授業中に思いつき(確か地学の授業だった)、隠れて五線紙を取り出して書き始めてみました。まずテーマを作って、重ね合わせていくわけですが、すぐに上手くいかなくなってしまう。何度やってもダメなのですね。見事なものができない。テーマにも、フーガが成り立つようなものと、どうしたってフーガにならないようなものもあると、後になってから気がついたりしたわけですが。とにかく自分の頭では、そんなに簡単にできるものではありませんでした。自分は才能ある作曲家ではないなと半分あきらめたのもその頃です。メロディーとハーモニーがきれいならそれで良い曲が作れるではないか、と言われそうですが、やはり次元が違うのですね。

 ポリフォニーがすごい、と思った瞬間はほかにもありました。あるとき、モーツァルトの「ジュピター」をCDで聴いていました(確かそれはアバドの演奏でした)。最終楽章で、最初のテーマに戻る前に出てくるフーガの箇所がありますが、なぜかそのとき真剣に聴いていたのです。そして、そこのフーガを聴いた時、突然感動して涙が止まらなかったのですね。なぜかその時、すべての声部がクリアに聞こえてきて、その絶妙な調和の世界というか、この世ならざる大調和の世界というものを体験してしまったのです。天国というのは、たぶんこのような美しい世界なのだろう、と。もちろん、モーツァルトにして、そのような世界(“神の世界”と言うべきか)を音楽で現すことができたと思うわけですが、多くの人間がそれぞれに個性を発揮しながら、なおも同時に全体で大調和を保っている、というような世界が有り得るということを、素晴らしいフーガは教えてくれるのですね。それは、言葉では言い表せない感動なのです。私は、そんな感動体験があったからこそ、音楽を通して多くの人と幸福を分かち合えるはずだと信じているわけなのです。ポリフォニーが効果的に使われている音楽は、高度な音楽と通じていくものがあると思います。反対に、単純な音楽だけにしか触れていなければ、精神的な向上もある程度までしか望めないわけで、その意味では、ピアノ学習者も、あまり難しくはなく、しかし良くできたポリフォニーの教材を早いうちに導入するいうことは、とても大切なことかもしれませんね。しかし、そういう良い教材が少ないということが難点なのですけど・・・。



2003年1月21日(火) ポリフォニー音楽、そしてジャズ・・・

 超絶の世界「ロシア編」の演奏会へ来てくださった皆さま、ありがとうございました。(^_^)
しかし、大きな拍手がもらえるというのは、今さらながら嬉しいですね。私としては、こだわりのプログラムではありましたが、どんな反応をいただけるかは、やはり本番が終わってみないとわからないですから、準備にもものすごいエネルギーを使いました。一昨日は、お客さんの中にも、ロシア音楽の権威であられる方やプロの執筆者等が数人、またカプースチンの権威(?)という恐ろしい存在が数人、ラフマニアンの方々、カトワールやバラキレフの楽譜を持参してくる方など、大勢の手強い聴衆に囲まれて(文字通り“囲まれて”)、の本番となりました。プログラムがハードだったのに加えて、自分としても今回はおおいに勉強にもなりましたし、精神と肉体の修行(?)の場にもなりました。本当に皆さんありがとうございました。今回も特別にいろいろ取り計らってくださり、演奏会を成功に導いてくださった、カワイ楽器の関係者の方々に感謝申し上げます。

 ところで、私は、“音”(音符)の多い曲目ばかり取り上げる、などと言われることがよくあるのですが、自分では「音が多いから好き」な音楽などないのでありまして、どちらかというと、逆な発想ですが、「無駄のない音楽」が好きなのですね。「知的な音楽」とも言えます。ただ、「知的」と言うだけではもちろんダメで、音楽ですから、同時に「美的」に素晴らしくなければ、何かが伝わってくるものにはなり得ないでしょう。作品の中にたとえ主張があったとしても、それが美的に優れていなければ、音楽としては私は魅力を感じないのですね。芸術ですから、「整って」いなければならないわけで、その部分がまさに「クラシック音楽」の存在価値でもあると思います。良いメロディーでも、それだけではダメで、伴奏が巧みだったり、多声部になったり、和声進行に妙があったり、しかもすべてがきちんとした構成で全体の統一が取れていて初めて、一つの芸術作品となるわけです。カプースチンは、ジャズの音とリズムを素材にして、クラシックの世界でそれを実現した稀有な作曲家なのですね。ジャズは、リズムとハーモニーが命ですが、カプースチンはなんと偉大な“メロディーメーカー”でもあります。(これがカプースチンの大きな魅力でしょう!) 三拍子揃っているのですね。とても魅力的な音楽なのですが、いかんせん、弾けるようになるまでが大変です。テクニックの要求度は、最高級のものを求められますし、それと“暗譜”が大変なのです。

 なぜ、カプースチンの暗譜が難しいと感じるのかを考えてみたのですが、私が音楽を勉強してきた背景と関係がありそうです。私は、5歳からピアノをやっていることになっていますが、最初バイエルから入りましたし(笑)、子供時代はバロック音楽や、バルトークなどほとんど一切やっていないのですね。田舎で育ったということもあるのでしょうか。それとも時代のせいなのでしょうか。バッハのインヴェンションなどに本格的に取り組んだのは、中学生になってからですし、ポリフォニー(多声)音楽に目覚めたのが遅かった、ということが言えると思います。中学生の時に、バッハがものすごく難しく感じたのを覚えています。しかし、音楽の真髄は、やはりポリフォニーではないかと最近思うのです。モスクワ音楽院で長らく教えたタネーエフの対位法に関する考え方や、ピアノ作品としてはポリフォニーの極致とも言えるゴドフスキの作品などに、私はとても共感を覚えるのですね。私が好む「良い音楽」というのを分析すると、“メロディーと伴奏の間に無数の可能性が広がっている”、とも言えるような音楽なのです。わかりにくい説明ですが、「“縦の線”を扱う和声法と、“横の線”を扱う対位法が、区別をつけることができないほど一致している」、とでも言いましょうか。(ますますわからなくなってきたでしょうか。) それが一番上手い作曲家が誰かと言えば、まずバッハだと言えるでしょう。マーラーなども、もっと音のぶつけ方は大胆ですが、やはり同じような天才性を感じます。そしてメトネルなどにも、やはり強くそれを感じるのですね。“ポリフォニー”と“天才”は、相関関係があるのではないかと思っているのです。

 ジャズとポリフォニーということでは、あまり直接的な論点はないかもしれないけれども、とにかくいろんな種類の音楽に慣れるのが遅かった、というのが私自身の音楽経験の中でも大きな問題となっているのかもしれません。「メロディーと伴奏だけ」のような音楽に、長く居座りすぎてしまい(それでもすべてがショパンのように素晴らしければ問題ないですが)、ポリフォニー音楽に目覚め、そして、ジャズの音楽が持つ素晴らしさの一面に目覚めたのは、実際かなり遅かったわけで、そのギャップを早く埋めたいと、現在必死にもがいているわけでもあります。今の世代の若い学習者達は、初期からいろんな音楽に触れることができますから、カプースチンのようなものも、今後あまりギャップを感じないで聴くようになるかもしれませんね。音楽の教育に関しても、時代は確かに変わってきました。



2003年1月17日(金) お茶が入りました ( ^-)_旦~~

 あんまり疲れたので、お茶の時間です。ここのところ、欲のない生活を続けているので、大変なエネルギーを要する本番があるときは、そろそろくつろぎモードに入らないと生きていけません。身も心もくつろいでいないと、精神統一ができないのですね。精神を統一するだけだとまだ楽なのですが、肉体を酷使並びに訓練しながら調整しているわけで、精神力と体力が実は一体なのだと悟り始めた今日この頃です。なんだか、訳のわからない言いまわしになってしまいましたが、はっきり言いましょう。イスラメイとカプースチンのソナタを並べるのは、もうこれっきりにすると。頭と体が大変な試練の数週間を過ごしましたが、もうこんなプログラムをリサイタルに組むのもこれが最後だと思って、明後日は頑張って弾きたいと思っています。あの、ここにこんなことを書いているのは内緒ですよ。演奏会本番では、いたって涼しい顔をして弾くつもりですので・・・。「超絶」という言葉の意味が、やっと最近になってわかってきたような気がします。

 今日は、あまり語る言葉がありません。お茶を飲んで、そろそろ就寝時間です。(珍しく、今日は口数が少ない・・・大切なエネルギーをセーブしなくては。)



2003年1月12日(日) 限界に挑戦したときに・・・

 今日も練習日和でしたね。天気が良くても良くなくても、どちらにしてもさらわなきゃいけない身なのですけれども…^^; レッスンもしています。自分が一生懸命練習しているときは特に、ピアノに真剣に取り組んでいる人を見ると、とっても健気に見えるんですね。嬉しくなりますし、「頑張れー」という気持ちになります。私も、現在毎日カプースチンと格闘しております^^; (カプースチンって作曲家の名前ですよ。ロシア料理の名前ではありません。(笑))

 カプースチンって、練習してみてわかりましたが、こんなに超絶技巧だったんですね^^;。CDで聴いたらそんなのわかるでしょ、と言われそうですが、自分でさらってみないとやっぱりわからないものではあります。こんなに恐ろしい曲が、世の中にあったのですね。バラキレフのイスラメイもかなり体力使いますが、カプースチンのソナタはその上を行っておりますね、これ。来週のリサイタルで、このイスラメイとカプースチンのソナタ・ファンタジー、一度にこの2曲を並べてしまう、という途方もないプログラムを弾くことにしたのは、はたして正しかったのか…。そんなこと言っても、もう遅いのですけれど…。これはもう体力勝負ですね。とか言いながら、5月にやる東京文化会館のリサイタルで、さらにバラキレフのソナタとカプースチンを、後半に並べてしまったのは誰ですか。でも、こんなプログラム、あともう少し歳をとったらたぶん無理でしょうから、まあ今のうちかもしれません。それからもう一つのこだわりは、もう21世紀に突入したのだし、あの権威ある東京文化会館で、バッハではなく、堂々とクラシックのスタイルでジャズを思いきり響かせてみたかったのです。それには、カプースチンが一番でしょう。芸術的というよりは、あからさまにテクニック的に限界に挑戦しているという感があります。しかし、まさに何でも限界に挑戦している時に見えてくるもの、身につくものというのは確実にありますね。こういうときは、自分に対する厳しさ、というようなものがいっそう必要になってきますし、自分がすごく磨かれていくような気持ちも感じます。テクニック的には、他の曲がかなり楽になってくるという現象が出てきますし、前にも書いたかもしれませんが、そうすると、不思議なことに、より音楽的な表現力が増すのですね。余裕が出てくるからかもしれません。でも、その余裕こそは、限界に向って、または、今の自分より遥かに上にあるものに向って、何かをやっているときにしか得られないものではあります。

 ところでこのカプースチン、普通のクラシックを聴きなれた人にはどう響くのか。どんな反応を示されるか、ちょっと心配ではあります。私自身は、この音楽を聴くと、とっても喜ぶ(^○^)という反応を示しますが、ほかの人も皆そうだとは限りません。恐る恐る学生に、レッスンの前後などに、さわりの部分を弾いて聴かせて反応を見たりしていますが、いや、意外と良好な反応が返ってきています(^.^)。 なんと尊敬のまなざしで見てくれたりもします。(そんなに尊敬してたのなら早く言ってよ。)元気のない人も、急に機嫌が良くなったりする現象も起きていますし、きっと良い音楽であることに間違いはないでしょう。しかし、うまく弾くのは本当に難しい曲です…。そうだ、私もこんなこと言っていないで、早く練習に向わなければ。



2003年1月9日(木) メトネルコンサート、無事終了!

 昨日の松尾楽器サロン(日比谷)におけるコンサートでは、皆さんにお世話になりまして、本当にどうもありがとうございました(^_^) 演奏者5人の皆様、お疲れ様でした。トータルで2時間半ものプログラムをがっちり最後まで聴いてくださったお客様の皆様も、本当にありがとうございました。しかもあんなにたくさんの方々に聴きに来てくださって、本当に感無量です。私は演奏したわけではありませんが、なんだかとても充実した疲労を感じます。あまり役に立たなかったかもしれない私の解説にも黙って耳を傾けてくださった皆さま、ありがとうございました。それから、松尾楽器さんにも遅い時間までたいへんお世話になりました。

 午前中は学校の始業式で、校歌の伴奏をこなしてから夜のこの演奏会に駆けつけてくれたという、高校生の内藤 晃さん。昨日は、「回想ソナタ」Op.38-1を弾いてくださいました
。彼の演奏は、優しい感情に満ち溢れていて、音楽がその場で自然に生まれ出てくるような演奏でした。「回想ソナタ」の瞑想的な音楽の流れが、素晴らしくよく表現されていたと感じました。メトネルのレパートリーはほかにもたくさんあるようですから、また是非聴かせていただきたいですね。

 「プリマヴェーラ」Op.39-3と「おとぎ話ソナタ」Op.25-1を弾いてくれた
斎藤綾乃さん。本番では細かいことに動じず、堂々と音楽を表現し自分自身の音楽を奏でていました。まだ忙しい現役の音大生ですから、アンサンブルの勉強などもあって目まぐるしい生活をしているかと思いますが、きっとメトネルを弾いているときには、心安らかな気分で音楽に浸ることができたことでしょう。卒業試験でも演奏したこの「おとぎ話ソナタ」は、きっと思い出の曲となることでしょうね。

 「労働賛歌」Op.49-1と、「不吉なソナタ」Op.53-2を弾いてくださった竹ノ内博明さん。ロンドンの王立音楽大学で勉強中ということですが、よく東京へ来てくださいました。そして、メトネルの三大ソナタの一曲とも言える、あの難曲「不吉なソナタ」を見事に弾いてくださいました。聴衆がはたして理解できるかどうかわからないようなこの曲に一目惚れしてしまい、楽譜をにらみながら4ヶ月もこつこつと練習を重ね、その後も何度も演奏会ですでに取り上げたということで、実に手の内に入った演奏を聴かせてくれました。本当にビックリしました。感動です。

 「4つのおとぎ話」作品34とラフマニノフの前奏曲を弾いてくださったミハイル・カンディンスキーさん。忙しい演奏会の合間に、このメトネルのコンサートで弾いてくださり、本当にありがとうございました。昨日、紹介し忘れましたが、彼はメトネルのあの難曲「夜の風」ソナタ Op.25-2もレパートリーに入っていると言います。また、数年前に行なわれた、モスクワのメトネルフェスティヴァルにも参加したという経歴の持ち主で、メトネルを心から愛好するピアニストの一人と言えるでしょう。

 最後に、ゆかりさん。本番直前まで、ピアニストらしからぬ忙しさの中で、私のサポートや主婦の仕事もやりながら(感謝してます^^;)、あの難曲「アラベスク」Op.7-3や「ディトランブ」Op.10-2を練習し続け、よく本番をこなしたと思います。メトネルの曲は、弾きたい曲はほとんどが難曲ですが、ただ「好き」というだけで苦労をいとわずさらってしまうのだから、やはり音楽の力というものはすごいですね。これからも、独自の観点で新しい曲を開拓してくれるのを楽しみにしています。

 メトネルを取り上げたジョイントシリーズとしては、昨日のコンサートはもう第3回目ということになりますでしょうか。是非、第4回目以降も続けていきたいと思っております。昨日は、聴きに来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。どうぞ今後もよろしくお願いいたします。m(__)m



2003年1月3日(金) ニコライ・メトネルへのオマージュ

 新年早々、ニコライ・メトネル礼讃の文章です。(^_^)
来る1月8日(日)には、メトネルの作品を中心とするピアノ演奏会が、日比谷の新しい松尾楽器サロンで行なわれます。私が中心になって企画をさせていただいているものですが、この演奏会は、実は宣伝は少し控えめですが、見方によってはものすごく歴史的意味を持つ大イベントとして扱われても良いもの、と位置付けられると思っています。国内でこれだけピアノの演奏会が多くある中で、最近になってやっと真価が認められ始めたこのロシア作曲家、メトネルの作品を、これだけ濃いプログラム(下記メトネルのページ参照)で、一晩の演奏会に盛り込んだ企画はなかったと思うからです。メトネルの演奏は、比較的高い技術と音楽性を求められるゆえに演奏回数が少ないのかとも思いますが、この日の演奏者は5人とも、すでにメトネルの作品を数年来レパートリーとして演奏してきた経験のある、実力ある奏者ばかりです。また、曲目も多様です。生での実演を聴く機会が極端に少ない作品(アラベスク op.7、ディトランブ op.10、「不吉なソナタ」op.53-2など)も含まれています。
 そんな演奏会が、今回“入場無料”となっているのは、これは松尾楽器さんのご好意で企画されている“水曜コンサート”のシリーズで行なうからであって、本来ならばこれだけの内容を求めれば、企画だけでお金がかかってしまいそうです。例えば私が一人でこのプログラムを全部弾こうと思ったら、準備するのに1〜2年はかかってしまいそうです。今回の演奏者の方々には、本当に感謝しています。(気持ちとしては、ギャラをたくさん払いたいくらいです ^^;)

 メトネルほど、“ピアノ”という楽器に、さまざまな想いを乗せることができた作曲家はいないのではないでしょうか。この演奏会では、作曲家の生涯にわたって、さまざまな時期に生み出された作品が演奏されます。たぶん聴いた方は、「ピアノでここまで様々な世界が語れるのか」、と驚きを新たにする人も少なくないと思います。メトネルの作品は、初期からすでにどれも申し分なく完成されていて、一人一人の人間の個性が多彩であるように、その音楽はとても多彩です。ピアノという楽器の限界を、あきらかに越えていると言っても良いでしょう。ベートーヴェンやブラームスの器楽曲を聴いていると、オーケストラの音が欲しくなってくることがありますが、メトネルの音楽にはピアノだけで十分なのです。この世にピアノだけあれば、何でもすべてが語れると言わんばかりです。たぶん、“ピアノの詩人”というタイトルは、ショパンのみならず、きっとメトネルにも捧げるべきでしょう。

 それにしても…(まだ止まらない)、海外を含めたとしても一部のピアニストたちを除いてほとんど無視されていた作曲家メトネルが、ここ数年で世界同時的に真価が認められてきたのは嬉しいことです。しかし考えてみれば、ヨーロッパで評価が固まる前に、日本で多く演奏されて広まった作曲家というのもいたって良いわけですから、ぜひとも、少しずつ日本に増えてきたメトネルファンたちが、この作曲家の本当の価値をまず日本国内で根付かせてほしいと思っています。(すでに、リサイタルのチラシなどでは、少しずつメトネルの名前を目にするようになりましたが…でもまだ少なすぎる!)
ピアノ音楽ファンの皆さん、1月8日の演奏会は是非お聴き逃しのないように!!

1月8日の演奏会情報




2003年1月元旦(水) 明けましておめでとうございます

 新しい年になりました。(^_^)
明けましておめでとうございます。今年も頑張って、この日記を更新しつづけていきたいと思いますので、読者の皆さんどうぞよろしくお願いします。(そもそも読者の皆さんがいるのかどうか、よく知らないのですが。^^;) とにかく、誰も読んでいないかもしれないけれども、日記は書きつづけていきたいと思います。

 で、この新年最初の晴れの元日(東京にもちらりと雪が降ったが?)に1日をどう過ごしたかと言えば、まあやっぱり9時間ぐらいは、防音室に篭もって過ごしたのです。え、そこで何をやっていたかって? そりゃあ・・・、内緒です。職業病のようなものです。というか、こんな日にしかまとめて自分の時間を解放されることがないというのが問題なのでしょうけどね。次に来る本番や、練習せねばならないプログラムを数ヶ月後まで見渡してみて、現時点ではっきりした安心感が得られていない場合は、苦しくても(?)今すぐに、時間のある時に取りかからざるを得ないのですね。
 でも、お昼時にはきちんとおせち料理を頂き、お屠蘇(とそ)も頂き…2杯目のお酒をお父さん(義理の)から勧められたときは、「いや、練習があるので…」とお断りしたら、お父さんに「そんなにやりすぎたら体がバラキレフよ・・・。」、「・・・・・」。いや、確かにそう言ったように聞こえたのです。何か違う助言をしてくださった(体がバラバラになる、とか、擦り切れる、とかいう意味のことを言った)と思うのですが、絶対私にはそう聞こえたのですね。もう病気ですね。結局その後、予定通りすぐに練習に取りかかりましたが。
 ときどきこのように、クリスマスとかお正月などの時期に感傷的になっている場合ではないときがあります。こんな生活、気の毒に思われる人と、うらやましく思う人と二種類いらっしゃるかもしれませんが、まあ今年のお正月はたまたまそうだったということなのかもしれません。お正月ぐらいゆっくり過ごす、という時ももちろんあると思います。

 年賀状は、ちゃんと読んでいますよ。(^.^)
元旦に届くように出す人、偉いですね。私ももともとはそういう人だったのですけど(笑)、今はもうダメになりました。すみません。頑張って書くには書いたのですが、投函がおそらく昨日だったかな…。お返事も全部書けるかどうか…もし返信が来なかったとしてもお願いですから怒らないでください。もう少し大きくなったらちゃんと書いてあげますからね。(笑) 大学生までは許してほしいと思っています。めったに会えない人には出しますが、すぐに会う人も多いのですからね。出し遅れた年賀状が届くより先に本人に会ってしまうなんてのは、できれば避けたいのです。(変なこだわり。)

とにかく、今年も一年どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m





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