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〜旧「音楽雑感」のページ、音楽の話題その他を日記風に綴る〜



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2003年11月29日(土) クラシックとジャズの関係はどうなっているのか(1)

 本当に長い間クラシック音楽の世界(と一部ポップス?)のみに浸りきっていた私に、カプースチンによって呼び醒まされたジャズ的感覚が、ここへきて再び心地良く体を支配するようになってしまいました。いろんな音楽を聴くにつけ、ジャズという音楽に分類され、そこから派生したいろんな音楽が、確実に現代に至るまで変化・進展を続けているように見えます。その中には、もちろん自分がとりわけ好むほどでもない音楽も含まれています。

 どちらが高尚な音楽か、などということは勝手に決められませんが、でもジャズには理知的・知性的な面も感じられます。クラシック音楽との境目がつけられない音楽も確かにたくさん存在するかもしれませんが、はっきりした境界線があることも事実です。例えば、ハーモニーというものを比べてみると、どちらにも理論のようなものがありますが、クラシックの和声法とジャズのコード進行は、結局のところ、似て非なるものです。クラシックしか勉強していない人には、コードをちょっと知っているくらいでは、ジャズっぽいハーモニーが真似できないのです。一番差がついてしまうのが、まず“テンション・ノート”でしょう。この概念がないのですね。このテンションを使うことによって、一気に“クラシック風音楽”を越えてしまいます。このテンションを、和声法で無理に名前をつけて呼ぶことができる場合もありますが、とにかくアプローチがまったく異なるものなのです。この点では、ジャズから発展した音楽の方が先を行っているように思えます。それからリズムでは、シンコペーションの使い方、これがジャズでは尋常ではありません。裏拍が強く、ビート感が大切。また、シンコペーションが連続して出てくると、これはもう「クロスフレーズ」などという、生易しい言葉では理解不能になります。とにかく、純粋にリズムというものをとっても、そこだけにかなりのこだわりがあるように見えます。また、“スイング感”などもクラシック音楽には縁遠いでしょう。

 ジャズを聴いた後に、ベートーヴェンの音楽を突然聴くと、あまりのギャップに頭が幼児になってしまいそうになることもあります。もちろん、ベートーヴェンの音楽が高尚なことに間違いはないのですけど、ハーモニーがあまりにも基本形というか、ジャズの耳で聴くと、ある曲などはほとんど同じ調のトニック・ドミナント・サブドミナントのみで出来ていたりして、“テンション・ノート”などゼロ状態(当たり前ですが)で、あまりに退屈なハーモニーに聞えたりします。しかし逆に、こんなに限られた語法でベートーヴェンは、あれほどの素晴らしい曲を書いていたのかと思うと感動してしまいます。シューベルトにしても然り。もちろん、その後のロマン派の作曲家の音楽も同じなわけです。現代曲に至るまで、クラシックはクラシックとして発展してきたわけですが、行きつく先に違いがあったのです。だからこそ、20世紀に入ってから広まったジャズは独自の道を歩み、これほど長い間にわたって支持されてきたのかもしれません。



2003年11月19日(水) マカロフ氏と再会

 この2週間の間、決してだらだらと過ごしていたわけではないのですが、気がつくとここに日記を書くのを忘れていました。きっと、仕事と勉強に夢中になっていたのだろうと思ってくだされば嬉しいのですが。(^_^) 半分は本当です。最近になって、だんだん恐ろしい速さで読書ができるようになってきたし(といっても、自分にとっての相対的速さです)、ロシア語もまだ頑張っております。ロシア語は、自分が学んだ外国語として数えると6カ国語めになりますが、今回(ここ数ヶ月の取り組み)はちょっと本気です。めげてしまった外国語(勉強が中途で止まっている)も幾つかありましたが、今回だけは逃してはいけないと思っています。とにかく、集中して数ヶ月続けるのがポイントです。ただ、時には、「なんでこんなマイナーな単語を覚えなきゃいけないの?」と区別がつきにくい単語の多さに辟易し、もう全部やめてしまえ、という誘惑に駆られることもありますが、まあ今のところはねばっております。

 さて、我が音大の客員教授になられたヴィクトール・マカロフ氏が、シドニーから再びやってきました。ピアノの学生たちのレッスンのために朝から晩までエネルギーを注いでおられます。私もときどき立ち会っておりますが、レッスン時のパワーには圧倒されます。「そんなに燃えちゃっていいの?」というくらいすごい勢いです。リズムをとるのに手・足・口と身体を総動員させ、とにかく体全体を動かしまくるのですが、身体が機敏で軽そうなのですね。(体重は、私よりかなり重いはずですが。) 踊ったり叫んだり、表情があまりに豊かで、初めてレッスンを受ける学生はびっくりする可能性があるでしょう。私にはそれらの異常な行動がすでに普通に見えてきていますが、学生たちにはどのように映っているのか、ちょっと聞いてみたい気はします。そして、氏は昨日のレッスンの時に学生の手を取ってワルツを踊り出したんですが、それはワルツの曲ではなくラフマニノフのソナタ2番のレッスンの時でした。ただし、彼は踊りは確かに上手いのです。ロシア人のワルツを踊る習慣についてあとで訊くと、確かにロシア革命前の時代は皆踊ることができたようです。現在の若者たちは踊れません。では、マカロフ氏はなぜ踊れるのかというと、子供の頃のスクールで教わった(2年間)ことと、彼自身が踊るのが好きで、ステージに出たこともあるそうです。

 氏は、とにかくいつも元気いっぱいで、まわりが圧倒されるほど常にハイテンションを保ち、身体を動かすのが好きな方なのですが、一方で知性的で教養の深い部分もあり、常に読書もしているようです。今日持っていた本は、ネイガウスの思い出について書かれているロシアで出版された本らしく、最近手に入ったと喜んで読んでいました。ロシア語の本も最近は立派な装丁で、活字も読みやすく組まれているのですね。ロシア語の本を、外国に住んでいるロシア人はどのようにして手に入れるのか興味があったので、訊いてみました。すると、彼はロシアへ買いに行ったわけではなく、インターネットで申し込んだ、それもアメリカに行った時に現地から注文したとか。本の受け取りは、もちろんオーストラリア。そして、それを日本で読んでいたりするわけです。世界は確かに狭くなりました。



2003年11月5日(水) ショパンとポーランド民謡

 上記のタイトルの“講座&演奏会”(於:青山カワイショップ)へ行ってきました。日本ショパン協会の例会で、演奏会ではないこういう講座の企画は珍しいそうです。第一部で、ショパン研究の権威であられる田村 進先生が、オスカー・コルベルクというポーランドの民族音楽学者による貴重な映像を見せながらの講義をされるということで、一聴衆として楽しみに行ってまいりました。この会には、なんと著名なピアノ弾きの方々も多く見えていましたが、音楽学生はどちらかというと少なかったかもしれません。こういう講座にも興味を持ってぜひ勉強に来ると良いかと思います。ショパンが生きていた頃の“ワルシャワの宮廷での舞踏会の様子”の再現や、クヤヴィ地方やマゾフシェ地方の当時の生活に密着した歌と踊りを再現したフィルムで、文献的観点から見ても我々にとっても勉強になるものでした。

 確かに、“ポロネーズ”や“クラコヴィアク”などの舞曲がもともとどのようなものだったのか、また踊りや音楽はどのようなものだったのか、などを知ると、いろんなイメージや感性に幅が出てくると思います。ただ、それを実際にショパンの音楽とどう結び付けるかは、演奏者一人一人にゆだねられている、という話でした。確かに、踊りが直接どのように結びつくのか、すぐには分からないものがあります。また、当時歌われていた、又は踊りのために奏されていた音楽というのは、それほど複雑なものではありません。どちらかというと、多くの民族舞曲がそうであるように、感情の赴くままに歌いやすく単純なメロディーと和声付けを伴ったものが多いと思います。これらの民族舞曲から、鑑賞に耐える、しかも芸術的に見事なあれだけの曲を生み出したショパンの天才というものが、逆にクローズアップされたように感じました。ショパンの一部の音楽のルーツはそういうものだとしても、あくまでそれとは切り離された個人的感性と才能による傑作であるという認識を演奏者は失ってはいけないと、私などは逆に思ってしまいます。でも、もちろん舞曲のルーツや、世界の他のさまざまな国の音楽や歴史に関心を持って経験の幅を広げることは、演奏する人たちにとってはとても大事なことであると思います。




2003年11月2日(日) クラシック音楽は発展しているのか、後退しているのか

 何でこんな問題を取り上げたのかというと、現在音楽家を目指して頑張っている人たちの未来はどうなるのか、ということについて考えてみたいと思ったからです。すでに、私が子供だった頃からみても、いろんな物事が変化してきているので、ときどき真剣にこういうことについて考えてしまうわけです。

 まず、大きな流れの中で明らかなこととして、音楽大学の卒業生は毎年増え続けるわけですが、それにともなってクラシック曲の曲数も一緒に増えるわけではない(笑)、という当たり前の事実があります。クラシック音楽というのは、過去のものを扱っているわけですから、基本的に増えないわけですね。増やすためには、現代音楽を次々と作曲していくしかないわけです。限られたレパートリー、しかもよく演奏される曲というのが決まっているほどです。それでも、まだ聴いたことのない人たちのために、半永久的に演奏されていく曲もその中にはたくさんあると思いますが、音楽好きの人たちからは、逆に飽きられてしまう方向へも進んでいく可能性もあるでしょう。時代が求めた動きとして理解されても良いかもしれませんが、最近は今まで演奏されなかった作品が再評価されたり、眠っていた曲などが新しく発掘されて演奏されるケースが多くなりました。また、最近になって日本初演される曲の数が増えたり、演奏やコンサートの形態にも変化が出てきているようには思います。
 考えてみると、わが国では、つい先頃までは、私たちの世界になかった西洋の音楽を普及させること自体が目的でしたし、ピアノなどの楽器を普及させること、そして良い演奏家を多数輩出することなどを求めて頑張ってきたわけですが、その目的も現在ではほとんど達成されたようにも思います。以前のように、演奏家が少なかった時代、レコードやCDがまだ存在しなかった時代とは全然違う時代が来ているわけで、この先どのようになっていくのか、と考えてみるに、ますますそのような事が当たり前になっていく時代になると思われるのです。録音が出たおかげで、多くの音楽に短時間でアクセスできるようになり、しかも好きな時にそれを何度も聴くことができる時代です。それによって、一度聴いただけではよく分からなかった曲が、何度も聴くことによって理解できるようになるわけで、多くの人が深いところまで音楽を聴いて感動するということができるようになったと思います。聴く人の耳も肥えてきたということです。

 またそのような理由から、例えば生演奏でしか音楽を聴くことのできなかった時代に作曲されたソナタのリピート記号を、現在も頑なに守って演奏する必要があるかどうかは疑わしいです。メロディーというのは、繰り返して聴かれることで感動を得るものですが、それは何よりも新鮮な感覚があってこそのことでしょう。すでに知っているものを何度も聞かされても、逆に心が揺さぶられることは少ないはずです。自分の知っているメロディーを聴くことによって、安心感や共感を得る感動というのもありますが、本当の感動はやはり、そういうものだけではなく、そこに何らかのもっと深い意味での精神的な共感や、音楽そのものの持つ魅力にあると思うのです。その音楽が高い芸術性を備えているということももちろん大前提でしょうが、やはりそこには“意外性”や“新鮮味”というものが絶対に必要だと思われます。だからこそ、どんな学問だって芸術だって、時代とともに発展していかなければならないのだと思います。その意味で、100年や200年にわたって(そんなに経っていないものもあるが)演奏され続けてきたクラシック音楽というものは、今後どのように発展していくべきか。これは、なかなか難しい問題です。もちろん、「音楽ファンを増やす」とか、「良い音楽を紹介する」ということは、音楽家にとっては大事な仕事だとは思いますが、もう少し進んだ考えも必要ではないかと思います。つまり、演奏家も単に良い演奏ができるだけでは駄目で、これからは専門的な勉強はもちろんのこと、さらにもっとトータルな仕事ができる能力、多くの付加価値を持った自分になる努力が必要だという気がします。(もちろん演奏技術を上げるための努力だけでも大変なことだし、自分自身を磨き、それを極めていくことはさらに大変だということは否定しませんが。)




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