音楽雑感〜日記風
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2003年5月27日(火) カプースチンの記事が「ぴあ」に…

 たまたま今日、今週号(6月2日号)の「ぴあ」を買って読んでいたら、カプースチンの記事が出ていてビックリ。p.18に大きく一面で取り上げられております。(^_^) 全然関係のない動機で(映画でも見に行こうか…と思い?!)、なぜか惹き付けられるように「ぴあ」を手に取ってしまったのです。家に帰ってきてから、せっかく買ったのだからと全ページを繰っていたら見つけてしまいました。うーん、それにしても“ロシアのカリスマ、カプースチン”というタイトルはすごい。それに、インタヴューからはカプースチンの人柄がわかる典型的なところだけを載せるあたりが憎いと思いましたね。これで、ある程度カプースチンの性格が分かります。「質問してもまともな答えが返ってこない面白さ」、と私が言った意味もこれを読めばきっとわかることでしょう。さすがは「ぴあ」の編集者。CDの発売は、しかしもう少し先(今秋あたり?)になるようですね・・・。



2003年5月25日(日) 成長しなければ…

 体がまだ言うことをきかない。バラキレフとカプースチンのソナタを続けて弾いた後遺症がこんなに残るなんて・・・。自分でも気がついていませんでしたが、大変なエネルギーをそのために集中させて使っていたのだなー、と思いました。

 これからは少し楽をして生きていきたい、と思っております。(^_^) プログラムも、これからは自分にも楽しくお客さんも喜ぶようなものにして。だいたい、難解で難しい曲を弾いたって誰もそれが分からないのですからね。うまく弾けば弾くほど、簡単そうに見えるものだし。演奏する人が準備に大変な思いをするだけで、聴衆は曲の難易度など関係なくただ良い音楽を聴きたいと思っているわけですから。聴衆に限らず、演奏家同士であっても自分が弾いたことのない曲についてはあまり分からないものです。(少なくとも私はそう思っています。) 演奏をされない批評家の方々などは、さらに頭で想像するしかないでしょうから、自然と厳しい見方になってもくるでしょう。(しかしその多く感性的ともいえる感想(批評)が、より聴衆としての感覚に近いと言えば近いのかもしれませんが…。)だから、私は難しい曲は好きでないし、あまり得をするものでもないこともよく分かっています。
 ただ、タイミングというものがあって、「やるべき時にやる」のがチャンスをつかむ最大の心得だと思っていますので、モスクワまで行ってカプースチンと会えたのも今回のような機会があってのことだし、メトネルという作曲家を少しばかり広めることができたのも、作曲家没後50年という区切りの良い年に行動を起こすことができたからだと思っています。それも、東京を中心としてやるのが現在のところは一番効果があるでしょう。ここ数年は、そういうわけで少々忙しいこともありましたが、今後はもう少し他人にも理解されやすい行動を取っていくかもしれません。(笑)

 考えるに、ヨーロッパでの生活と、今の東京の生活のテンポの違いにギャップがありすぎるのだと思うのですね。私は、ウィーンのような田舎っぽい暮らしも好きでしたし、東京のような都会のテンポもどちらも好きなのです。どちらにもすぐに順応してしまう体のようです。人間のテンポというのは相対的なものなので、生活のリズムととても関係があるように思われるのですね。今後は、私は都会に住みながらにして(だって逃げられないのですから)、もっと時間をゆったり過ごしてみようかと心に決めました。同じように多くの仕事をこなすのにも、あくせくとするのではなく、悠々としていろんなことをやり遂げていくような、そんなイメージを描いています。時間の使い方というのは、本当に難しいですね。ただ単に時間を無駄にしないよう心がけるだけではダメなのだと思います。5分や10分をケチったってしようがない。遊んでいるように見えたって(笑)、けっこう立派な仕事をしているような人もいるのですから。そういうのを見習ってみたいと思っています。これが実行できれば、性格も(うまくいけば)変わる(良い方に!)ことができるかもしれないし、演奏もきっと変わるだろうな、と思っています。というか、そう思った瞬間からもう変わってくるのですけどね。練習の仕方もなんだかすでに変化してきていますし(この一週間ほとんどピアノ触っていない(笑)…(^_^;))、レッスンもたぶん変わっていくでしょう。(時間にルーズになるだけだったら困るが…。) とにかく、人間は常に変化していかなければ成長がないわけですから、今後は、生活リズムと考え方を変えることで音楽家としての自分も生まれ変わっていきたいと思っています。



2003年5月20日(火) 反省もいろいろあります

 過酷プロのリサイタルを先日終えましたが、体がまだバラキレフ状態(意味不明)で、元に戻らなくて少々苦しんでおりますが、でも今日あたりからだんだん我には返ってきました。(笑) 親しい友人などからは、「ショパンのテンポが速かった」、などという感想がけっこうありました。自分としての反省点もけっこうあって、ピアノはホントに一生勉強ですね。

 「テンポが速い」ということに関しては、自覚的な部分とそうでない部分があります。
 自覚的な部分というのは二つあって、一つは、私自身の性格や生活のテンポが速いということに関係があるのだと思います。ウィーンに住んでいた頃は、生活のテンポ(歩く速さまで)が遅かったので、演奏のテンポも自然と遅かったのですが、東京に住むようになって忙しい生活ばかり送っているとだんだん麻痺してきました。もっと余裕のある生活をしなければ…といつも思ってはいるのですが。それから、性格的な部分というのは、私は物事を一気に捉えてしまうので、そのままの自分の感覚で出してしまうと聴く側にとっては速すぎるということもあります。アウトプットする時には、大勢の前でしゃべる時などもゆっくりしゃべるような努力をするように、演奏もそう心がけなければならないのですが、まだそのあたりも修行中です。(口もまだ早口です。) もう一つは、本番ではどうしても危険がいっぱいになるので、途中で演奏が止まってしまったり、暗譜が飛んでしまったりすることを避けて、速く弾ききってしまうという“安全運転”に走ってしまうこともあります。ワディム・ルデンコがカプースチンの「8つの練習曲」の第1番を生で弾いた時に、あまりの異常なる速さでコントロールを完全に失っていたのを見て、「自分もテンポが速いとは言え、あそこまではならないだろう・・・」と思っていました。今となっては、どっちがどっちと思われてもちょっと抵抗できないのですが・・・。
 自覚的ではない部分というのは、響きの良いホールで演奏する場合は、会場の客席にどう聞こえているかということが、弾いている本人にはわからないのですね。特に声楽家などは、自分の声がどう響いているかは第三者に聴いてもらわなければ全然わからないそうですが、ピアノも同じです。リハーサルで綿密にやっておかなければならないことなのですが、ちょっと気を抜くと一番大事なことなのに軽視してしまうこともあります。音をどう響かせるか、ということに意識を向けたり、ペダルの使い方を少し変えたりしただけで、聴いている人が受ける印象は恐ろしいほど変わるということがよくあるのです。ここはきちんと押さえておかなければ、せっかくの努力も水の泡になってしまったりもします。自分で気がつけば、より良い演奏も可能になるのですが。

 テンポが速いのも、決して解釈上の問題ではなく、上に書いたようなことがしっかりできていれば問題ないわけなのですが、頭で分かっていることと実際にできることとはまた別なのですね。演奏当日のいろんなハプニングもありますし。これが、一発演奏の難しいところなのです。あー、ピアノの演奏とはなんと難しいことか! こんな簡単なこともできないのか!と自分でときどき情けなくもなりますが、でもそんなものなのですね。すべてが完璧に揃わなければ、自分が感じているのと同じものは人様には与えられないのですね。どの技術(芸術)の世界でもそうかもしれませんけれども。修行課題は相変わらず多いな、とつくづく思う今日この頃です。(またゼロから頑張れる体力だけが、いま必要です…。)



2003年5月18日(日) リサイタル

 またご無沙汰してしまいました。^^; 昨日、リサイタルがありましたもので・・・。
 来てくださったお客様にはたいへん感謝いたします。ありがとうございました。
 あんなプログラムを弾いた日の夜は興奮して眠れないのです。夜中の間ずっと、布団の中でアンコールで弾いたトッカティーナを、頭と指がエンドレスで勝手に弾き続けて・・・本当に困りました。朦朧としながらも自分で止められないのですね。仕方がないので、明け方5時前には起きてしまいました。
 そうそう。問い合わせが多かったので、昨日アンコールで弾いた曲の曲名をここに書いておきます。 →1、メトネル: 歓喜の舞曲 作品40-4、 2、カトワール: プレリュード 作品6-2、 3、カプースチン: トッカティーナ 4、ショパン: コントルダンス。 変化をつけるのに苦労しました。というのは、4曲とも「ト」音が中心の調なのですから。偶然ですが、どうしようもなかったのです。(気がついた人いたでしょうか?) 順番にいうと、1、ト長調、 2、変ト長調 3、ト長調 4、変ト長調 だったのです。かろうじて順番を互い違いにしたため、曲間の新鮮味がなくなってしまうことは避けたつもりですが、実際はいかがなものだったのでしょうか。(調性は、あまり接近していると変わり映えがしなく聞こえてしまうのです。)
 昨日弾いて思いましたが、燕尾服を着たままカプースチンを弾くのはやっぱり無理があるかもしれませんね。クラシックなスタイルにこだわらずに、もっと楽な恰好で弾くべきでしょうか。その方が動きやすいので演奏もきっと良くなるはずですし、聴いているお客様に対しても、曲想から言ってもたぶん問題はないかと思います。最近は、あそこまでスポーツ的な技巧の曲がプログラムに入ってなくとも、もう少しラフなスタイルで弾くピアニスト(男性)が増えているようですからね。カプなんか弾いていると、燕尾が邪魔になってくるのですよ。お腹も締められていて苦しいので、弾きながら、「もう全部脱ぎたい!」とか思ったりしていました。(笑)  そういえば、カプースチン自身もレコーディングの際は、着ていた上着を脱いでいたのだったなぁ。

 ところで、トップページにも載せましたが、カプースチンの録音現場レポート記事が、ピティナのHP「ピアノの広場」内にアップされましたので、どうかご覧ください。自分のHPにもあまり書いていない録音の時の詳しい様子を書いてみました。
http://www.piano.or.jp/enc/special/moscow1.html

 私が今までに「重い上着を着てはこりゃ弾けない・・・」と思った曲は、そう多くはありません。ほとんどの曲は大丈夫ですが、手の交差が多かったり、動きが激しい曲は特に感じます。一番苦しかったのは、「夜のガスパール」(スカルボ)、数十回は弾いていると思いますが、良い演奏ができた時は必ずシャツ姿で弾いていた。それから、やっぱり「イスラメイ」とか・・・そういう数曲です。カプのほとんどの曲もそうでしょう。先例があまりないので誰も教えてくれないんですよね。(^_^;)

 信じてもらえないかもしれませんが、私自身、難しい曲はあまり弾きたいとも思いませんし、そんなに好きでもないのですよ。手も疲れますしね。大変な曲は、スポーツ選手のように、弾く前に、激しい運動をする直前のような決心をしてからじゃないと弾き始められません。ちょっとでも気合が足りないと(精神的な集中が足りないと)、途中でめげてしまいます。(笑) すごい精神力と体力を同時に求められるので、ああいう曲はあまり長い間は続けられないということもわかりました。(今頃わかってどうする)
 まあとにかく、最近好きになる曲がなぜか技巧的にもテクスト的にも難しい曲が多かったというのが、ひょっとしたらまだ若い(?)証拠なのかしれませんが、好きな曲はやはり聴くだけにとどめておいた方が無難かもしれませんね。その方が幸せかもしれないと思うこともあります。でも、どうしても自分で弾きたくなってしまうというあたりが、つまり職業病ということなのでしょう…。でも、最低限の健康を保つためにも、もう少しだけカプとたわむれてみても良いかな?、などと思ったりしてもいます。

 (今日は、さすがに身体的には異常な一日を過ごしました。まともな体ではないです。ボロボロと言うか…。ゆっくり休養したいと思います。指先だけは、いつもパタパタとこうやって文字書いたりして、全然休養していないのですけど…。指だけは、やっぱりかなり頑丈みたいです。)



2003年5月13日(火) エチュードというもの

 カプースチン本人に、「カプースチンってどうしてあんなに難しいんですか? ほかの作曲家の曲では経験したことのない技巧です。」と言うと、「アムランも同じことを言うんだけど、でも私の作品は私の手にはそんなに難しくないです。」というお答え。「なるほどそうか・・・」と実は思ってしまったのです。確かに音は目まぐるしく動くし、リズムも途切れなく続いていくので指が忙しいけれども、実はゆっくりやってみると手には弾きやすい音型ではある。速いテンポで弾けるようになるまでの練習は大変だけど、これは良いエチュードの役割は果たすかもしれない。弾きにくいということで言えば、例えばバラキレフの方がよっぽど指に無理のあるパッセージが多いかもしれません。

 ピアノ学習者のためにエチュード(練習曲)というものがたくさんあるのですが、はたしてこれを弾いて本当にテクニックがつくのでしょうか。チェルニーの練習曲を何年もやっていて本当に効果的にテクニックがつくのだろうか。疑問です。弾かないよりはマシだと思いますけど、初期の段階では他に良いメソッドがないですからね・・・。特に子供の頃は手が小さいし、弾けるものが限られてくるからある程度の期間は仕方ないでしょうか。でも、中級以上になって難しい曲を弾くようになってくると、譜読みに追われて、皆さんエチュードはどこかへ行っちゃっているんではないでしょうか。いや、ショパンのエチュードはやってます、と言うかもしれないけど、あれはエチュードとは本来言えないでしょう。“ショパンのエチュードを弾いてテクニックをつける”のではなくて、“テクニックのある人がショパンのエチュードを弾くべき”なんですよ。というのは、ショパンのエチュードは、決して全部が「手に優しい」わけではなく、どちらかと言うと、手にとっては「酷」なものが多いと思います。結局、指の力や指の確実性を身につけるためには、曲は弾きづらいものではあってはいけないのであって、「手に優しい」ものを使う必要があると思うのです。例えば、ハノンは手に優しいのです。無理なパッセージはありませんし、あれですべてをカバーしているとは思いませんが、1番から60番まで確かにどれも必要なものです。他に有効なエチュードと言うと、やっぱりそんなに理想的なものはないのですよね。だから、音楽性と一緒に身につけてしまおうということで、みんなショパンやリストやラフマニノフのエチュードを弾くようになってしまうのだと思います。

 何を言おうとしているかというと、実はカプースチンの「8つのエチュード」が、(中級以上の人にとってですが)練習の仕方によっては、ものすごく効果的な練習になると思うのです。弾いたことがある人は、たぶん同意してくださると思うのですが、指の確実性が身につくのですね。まだ実際に生徒に試したことはありませんが、もう楽譜も出ていることですからいずれ使っていきたいと思っているところです。結局、皆いろんな曲を弾きたいと思うけれども、大曲になるとどんな曲でもどこかに弾けない箇所が出てくるものでしょう。それは、その曲ばかりやっていても「弾けないものは弾けない」ということがあります。相対的な技術が上がらなければいけないのです。ベートーヴェンにしても、ショパンにしても、弾けない箇所は出てくるのですね。芸術的な曲は、必ずしもすべてのパッセージが手に優しいとは言えないものなのです。そして、逆に「手に優しい」曲なんて、練習しても技術が向上しない。ところが、ここに「手に優しく、しかも、テンポで弾くのは無茶苦茶難しい」というエチュードが存在するわけなのです。カプースチンのエチュードは、「ゆっくり、確実に、正しい指使いで」練習し、それを繰り返すことで、確実に自分の技術が向上していることが体感できる唯一と言っても良いものだと思います。チェルニーと違う点は、チェルニーはどちらかと言うと「軽やかに速く」弾くことを求められるような音楽で、粒をそろえると言ってもその重要度は和声の変化の乏しさ(現代的な耳で言っていますが)から言っても、それほど高いものではありません。ところが、カプースチンの場合は、どの音も和声的に意味があって重要だし(なんたってジャズの和声進行ですから!)、粒がすべてこれ以上できないと言うほどはっきり聞こえることが求められるのです。そして、「はっきり」弾くことができるなら、pp(ピアニッシモ)でも弾けるのです! この練習をやっていくと、副産物として集中力も得られますから一石二鳥です。で、実はこういう確実性を身につけるために、ピアノ弾きたちは苦労していると言っても過言ではないのですね。活躍しているピアニストは、結局のところ、「確実に弾くことができる人たち」が多いのが事実です。若い頃は、指が的確に動く“ヴィルトゥオーゾ”と呼ばれたような人たちが、コンクールなどでみとめられ、その後に音楽的にも人間的にも熟して偉大なピアニストになっていくというのが多いパターンです。「若い頃音楽性には恵まれてたが、テクニックはなかった」などという人は、普通はピアニストになっていないのです。皆さん、まず弾けるようになりましょう!(私も他人のことばかり言っていられないのですが…。(^_^))



2003年5月8日(木) 手の大きさについて

 以前からうすうす感じていたことなのですが、私の手はピアノ弾きとしてはかなり小さい方なのかもしれません。先日、モスクワでカプースチンの前でピアノを弾いた時、手を合わせさせていただいたのですが、実はその理由というのがありました。(ちなみに、カプースチンの手はぷかぷかで大きくて柔らかいマシュマロのような手でした。) 確か彼のピアノソナタ第11番だったと思うのですが、その中に左手が和音をつかむところがあるのですが、その音は下から[BFCD](シのフラット、ファ、ド、レ)というもので、指は521(1でCとDを一緒に弾く)。カプースチンは当然届くのですが、彼の所に以前やってきたイタリア人のピアニストがいて、彼はこれが届かなかったと言って笑っていたのです。「君は届くかい?」てな感じで、私もつかんでみようとしましたがやはり届きませんでした。Dの音に親指が引っかかりもしません。(皆さんは届きますか?) 私の手はそのくらいの大きさなんです。カプースチンは、それを見てやはり笑いました。(どうして笑うのか。)

 私は、一応9度は届くのですが10度を同時につかむのはほぼ無理です。そんな小さな手で一応やっとるのですよ、これが。(もっと小さい人もいるのでしょうからあまり言えませんが。) でも、上の音型を、試しに隣で笑っている妻のゆかり女史につかませてみたら、なんと届くのですね。私の周りには手の大きい人が多いのです。ちなみに、辻井伸行君にもやらせてみましたが、現在中3の彼もすでに手が大きいので問題なく届きます。あー、ピアノやめたい。届かない人はアルペジオで弾くしかないのですから…。悲しいものがありますよ。でも、カプースチン氏、どうして届かない手を見て笑うのだろう・・・。ゆかり女史にそのあたりの心理をうかがってみました。「だってー、絶対届くのに届かないんだからやっぱり可笑しい(^.^)」と言われてしまいました。(それじゃ答えになってないでしょ。)

 私の仮説ですが、手が小さい人の方がたぶん手が疲れやすいのではないかと思うのです。もし手が大きくて、オクターヴが6度をつかむような感覚だったとしたら、かなり楽だと思います。手というのは開くためにけっこう力が要るのですね。ずっと開きっぱなしだとやはり辛いのです。英雄ポロネーズみたいにオクターヴが始終ポイントとなる曲は、手の大きい人の方が完全に勝ちです。
 国際的に活躍しているピアニストで、手が小さいなと感じたのは、まずピリスですね。彼女が、ショパンのコンチェルト第2番の冒頭のテーマを弾き始めたとき、苦労してあの左手のF-Asの10度のAsを右手で取っていたのを目撃して、「おー、涙ぐましい」と感動した記憶があります。あの10度、みんなやっぱりあれ同時に弾きたいんですよね。(^_^;) ちなみに、辻井くんは左手であの伴奏音型、難なく届くのですからホントうらやましいです。



2003年5月2日(金) まだまだカプースチンの余韻が…

 ニュースではまだSARSなどの騒ぎはおさまりそうもないですね。私はつい先週、成田空港を通ってロシアへ行って来た訳ですが、やっぱりあれは命がけだったのかな。などとおおげさなことを言っていますが、でも確かになんとなく海外旅行者の数はいつもより少ないように感じました。空港が人でごった返している感じはありませんでしたから。日本の税関の通過もスムーズでしたし。まあ、何でもあまり怖がっていては進まないわけで、正しい情報を常に得ながら、ある程度は冒険をしながら貴重な経験を積んでいくことは必要なのかもしれません。しかし日本の航空会社は、03年度の収益が合計で1千億円も減収になる見込みというから、私のような考え方をする人ばかりとは限らないようですね。
 まあ、今回のカプースチン訪問も、モスクワ放送局でのレコーディングがあると聞いてから行くことを決断したのですが、でも本当に行って良かったです。カプースチンの録音に携わるトライエム社のプロデューサー=鮫島さんにも本当に良くしていただき、感謝しています。行こうと決断できたのも事前にいろんな情報を提供してくださったからです。しかし、この時世ですから海外旅行は3月くらいから「ちょっと大丈夫かなー」と思っていたことは確かです。「レッスンの友」誌5月号で取材をしてくださった堀江昭朗さんにも、今回の私のロシア行きの件を話した時、「物好きですねー」とは言われなかったものの、同じ意味だと思いますが、「行動的ですねー」と言われました。
 
今回の旅行で得たものはあまりにも多く、全部を伝えるのは大変なことです。この日記に書ける量にも限界があるので、近いうちに写真なども含めてレポートにして、いくつかの媒体で発表する予定にはなっております。そこでは、たぶんより一般的なことを書くことになるでしょうから、自分のHPぐらいではちょっと専門的なことを書いています。(HPではいつも文字だけですみません…単に技術がないもので^^;、本当はスキャナなどを使って、写真付きなどできれいにまとめられれば良いのですが…。)

 真面目な音楽の話題(+カプースチンの話題)に移ります。メトネルの楽曲には、ある典型的な指示がときどき出てきます。それは、“al rigore di tempo”というものなのですが、これはメトネル特有の言いまわしで、ドーバー版のアムランの説明によると、これはイコール“senza rubato”ということになります。つまり、テンポを主観的に動かさずに厳格に拍を取って弾き続けなければいけない箇所なのですが、こういう指示は一般的に見て珍しいものです。ほかの作曲家にはあまり出てきません。細かい揺れというのは普通、バロックからロマン派までどの楽曲にもそれぞれのスタイルで伴ってくるものです。この“senza rubato”は一見、「ただ機械的に演奏すれば良いの?」というように思ってしまいますが、これがメトネルに作品に出てくる場合は、実はとても音楽的な意味を持ちます。そして、これが最も重要になってくるのが、カプースチンの作品の多くにおいてなのです。例えば、「8つのエチュード 作品40」の1,2,3,6,8番などに典型的に必要となるものです。ショパンのエチュードで言えば、op.10のNo.2やNo.8などがそれにあたるでしょうか。これは、一定のテクニックがなければ表現できないものの一つなのです。「例えば、ショパンのop.10のNo.2をゆっくりしたテンポで弾いてどうなる?」とはカプースチン氏の言です。普通はテンポの速い曲で難しい箇所が出てくると、ゆっくり弾いたり揺らしたりしてしまうか、逆に頑張ってテンポで弾こうとすると、崩れたり音が抜けたりしてしまうのです。カプースチンの作品が技術的に難しく聞こえるのは、一つはそのためだと思いますが、しかしこれが逆に彼の一つの魅力の部分でもあるわけです。ほかの作曲家の音楽ではあまりないものですから。もちろんジャズにおいても。その意味で、後述したいと思っていますが、カプースチンのエチュードを効果的にさらうと、技術向上のためのすごく良い訓練になるということを私は発見しました。

 さて、実は今リサイタルの準備でショパンなども弾いているわけですが、カプースチンとはまったくアプローチを変えなければいけなくてけっこう神経を使います。特に、マズルカなどは、リズムの作り方や、音楽の感じ方=ルバートなどの用い方はカプースチンとは相反するものがあります。今回5月17日のリサイタルで演奏するモーツァルト、ショパン、バラキレフ、カプースチンはそれぞれ4人がまったく性質の違うもので、これほど違ったアプローチを同時に強いられるプログラムも、考えてみれば初めてかもしれません。でも、なんだかカプースチン本人にお会いしてから、ピアノが少しばかり上手くなったような気がしています。(気のせいでしょうか。それとも練習への取り組みが真剣になったということなのでしょうか。)刺激というのは大切なものですね。さらうための動機づけということが常に大事です。「練習する際には、新鮮な気持ちを保ちつづけることが大事」とは、児玉 桃さんです。彼女にしても毎日8時間、初めての難しい曲となると10時間ぐらいは練習するというのですから(「ムジカノーヴァ5月号」p.15)、やっぱりピアノっていうのは練習しなければ上手く弾けないものなのですね。




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