音楽雑感〜日記風
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2003年6月27日(金) モスクワ訪問記《後編》書きました

 先月の中頃、PTNAのHPの「ピアノの広場」ページに、私のモスクワ訪問記「カプースチンに会う!」の前編が公開されましたが、その続編を最近やっと書き上げ、本日新しく公開されました。下記から直接リンクします。

http://www.piano.or.jp/enc/special/moscow2.html


 今回の《後編》では、実際のカプースチンとの会話や、面白かったやり取りなどを中心に思い出して、素顔のカプースチンを描こうと試みましたが、さてそれが成功したかどうか・・・。写真も限られたものしか公開できませんでしたが、ほかにも皆さんにお見せしたい写真は、本当はまだいろいろあります。ちょうど、モスクワに滞在中に雪が降った(4月下旬だったが)のですが、突然自分のコートの毛皮つきフードを立てて被り、ギョロッとこちらを見つめるカプースチンの図、とか、雪の中、私たちと別れたあと奥さんと二人ではるか彼方に歩いていく後ろ姿の図、とか、真面目なものとしては、ピアノの近くで私と手の大きさを合わせているところ(真剣そのもの!)、とか、いろいろあるのですが、紙面の都合で少ししかお見せできないのは残念です。(自分のページで載せれば良いわけですが、時間もない(^_^;)。)

 さて、“感動の曲”アンケートの報告をしておかねばなりません。最近になってからも今も回答を送ってくださる方がいらして、まだまとまっていないのですが、純粋にネット上の用紙を使って回答してくださった人のみ(口頭で言ってくださった方のは未集計)の投票数は分かります。曲目の全投票数126のうち(3曲挙げてくださらない方もいたので)、「私の感動した曲」第一位は、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(5票)、続いて、第二位に、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」「モーツァルトのトルコ行進曲」「ドビュッシーの喜びの島」が並んでいます(3票ずつ)。聴いた場所に関しては、「生の演奏で」が第一位で3割くらい、次に「CD・レコードから」が第二位でやはり3割近くを占めていますから、このサイトを見て投票してくださる人は、最初から音楽に関して意識の高い方が多いのだな、と感じました。それ自体は嬉しいことですが、今度は皆さんの職業を訊いてみたくなりました。どんな仕事をされている人がアンケートに答えてくれたのかを。(笑) ちなみに、このアンケートは現在のところ、私の存じ上げない方からの回答率が約7割なのです。お陰様で、お友達が増えました。(^_^) ご協力、皆さん本当にありがとうございました。



2003年6月25日(水) 論考の続き & 日記のページ終了(?)

 3日前の日記に続き、「試論」の後編を書きました。思っていることを100パーセント文章にするのは本当に難しいです。でも書いてみることで、自分もそこから思考を発展させていくことができるので、何かの役には立つと思っています。あまり期待しないで読んでください。本当にただの日記なのですから。それよりも、ぜひ皆さんの音楽についてのお考えを聞かせてほしいです。
下記から後編にリンクします。

試論1 “感動”の本質を探る(後編)

 さて、突然なのですが、この日記も去年の8月から書き始め、遊び半分で一年近くも続けてきましたが、まあそろそろ終わりにしようかなと考えています。もともと書くのが得意な方ではないので、始めたときは三日坊主になるかとも思っていました。でも、こんなことでもめげずに続けてみて面白かったです。それもこれも読んでくださった皆さんのおかげなのですが。日常のことや普段いろいろ考えていることの中から、書きたいことを厳選するのが大変ですし、だいたいこんな雑文を重ねたところで何になるのか…、もっと真面目に勉強(練習)しろ、という感じですので(^_^;)。 また、いずれ新企画など考えてみたいとは思っていますから、HP上で突然また何かを始める可能性はあるかもしれませんが、少なくとも、このページで「日記」を自分に義務づけるのは、もう6月いっぱい(6月30日)くらいで終わりしたいと思っています。これらの雑文が、一体どれだけの意義があったのか…さっぱり分かりかねますが、でも、少しでも面白がって(面白いと言ってくださって)読んでくださった皆様には、本当に感謝しています。今後とも変わらずお付き合いいただけると嬉しいです。m(__)m



2003年6月22日(日) 「音楽」とは何か?を考えてみました

 以前から皆さんに、「感動した曲」について、アンケートを通じていろいろ教えてもらっています。集計結果を出さなければとは思いつつ、あまりに回答がばらばらなので、これはかなりの数が集まらなければ公開しても無意味だろう、と思っているうちに今になってしまいました。でも、皆さんのおかげで、音楽のことについていろいろ考えるきっかけになり、「感動の本質」というものが何なのかを考えながら、自分の考えをまとめてみたいと思いました。この日記に書こうと思って書き進めていたのですが、少し長くなりそうなので、別ページに置きました。音楽の感動を探っている文章としては序論の序論のようなもので(ただの日記ですから)、この先、具体論として、演奏へのヒントなどを曲ごとに考えていく必要があると思っています。完結した文章になるかどうか、全然自信がないのですが、一応書いてみたいと思います。下記からリンクします。

試論1 “感動”の本質を探る
(まずは前編。数日中に後編を書きます。)

 自分としても、以前から考えていたことですので、さらに音楽の本質をよく理解してレッスンにあたったり、演奏したりできるようになるためにも、常に考えを深めていきたいと思っています。楽器の演奏は本当に大変なことですが、このように精神面からも音楽を理解することは大切です。理解できたことを、どのように実際の演奏に結び付けていくかということはまた別の勉強になりますが、少なくとも、何のために練習をしているのかを理解することが先決だと思います。楽器の演奏は、物理的に身体を動かさなければいけないことですから、頭で分かったからといって、すぐにそれができるかというと、やはりそれを得るための大変な努力も必要なのです。精神と肉体を一致させることの難しさは、本当に語り尽くせないものがあります。ただ、理解が深ければ深いほど、それは自分の手指の動き(ピアノや弦楽器の場合)と、いずれ理想的に一致してくるでしょう。(そのためにも大変な訓練が要ることは要りますが。)



2003年6月19日(木) やる気と集中力

 世の中には信じられない能力を持ったピアニストもいるのですよね。一週間で新しいコンチェルトを覚えてしまったり、暗譜してしまったりするピアニストが。過去においては、スヴャトスラフ・リヒテルなどにもすごい話があります。グラズノフの協奏曲とリムスキー=コルサコフの協奏曲の2曲を一週間で準備してコンサートで弾いてしまったとか。そういう伝説がどこまで真実かはわかりませんが、ものすごい集中力を持ってすれば、そのぐらいは実際にできてしまうであろうことは理解できます。しかし、それがしかも素晴らしい演奏だったと言うのですからすごい話ではあります。でも、そんなリヒテルでさえ、晩年は楽譜を譜面台に置いてステージで弾いていたのだから、“暗譜”ということは、やはりただ大変なだけであって、あまり本質的なことではないのかもしれません。ピアニストが暗譜をするようになった歴史に関しては、セイモア・バーンスタインが著書で面白いことをいろいろ書いています。

 さて、今日は暗譜の話ではなく、「集中力」ということで考えてみたいのですが、平均的な人で毎日一体どのくらいの集中力を必要として生活しているのでしょうか。職業によっても違うと思いますが、特殊な仕事をしている人でない限り、あまり集中力ということは意識しないでも生きていけるのではないかと思います。ただ、いろんな人を見ていて常々思うのは、世の中で大きな仕事を為し遂げている人って、何かしら「やる気」とか「集中力」というものに関して、異常な強さを持っているような気がします。例えば、速読ができる人も、結局は集中力(大量に読もうという意識)がすごいわけですし、新しい外国語を4週間ほどでマスターしてしまう人も本当にいるようです。普通レヴェルの精神力ではもちろん無理でしょう。すごく強いモチベーションと精神力と体力と才能を併せ持っているのだろうと思います。「集中力」という言葉は、音楽家にとってはとても親近感があるというか、普段から意識することです。例えば、同じ時間を練習にあてていても、その集中力の差で大変な違いが出てくると思うんです。やる気になれば、中学生だってショパンのバラードを一週間で弾けるようになってくる人もいるのです。実際には、絶対そうしなければならない理由がないから、1ヶ月も2ヶ月もかかって譜読みをしたりしているのです。(以前にも書きましたが。) 多くの仕事ができる人は、自分の仕事への動機づけが上手いと思うのです。普通は何かを始めたとしても、疲れてしまって途中でやめてしまうことが多いのです。
 芸能人などは、睡眠時間が3時間とか言って、どうしてそれで平気で毎日を過ごせるのかというと、スケジュールが忙しく決まっていて、するべきことが次から次へとやってくるからです。しかも、多くの人に見られて仕事をしていて気持ちも引き締まっていて、まわりも皆がそうだから、身体が疲れても何とか持ちこたえていると思うのですね。しかし、そこまで忙しくない人は、いくらたくさん仕事をしようと思っても、なかなかできることではないでしょう。朝起きて何も予定がないというのに、自分の意思の強さで毎朝早起きができる人は稀な人だと思います。

 どんな人であっても、本来すごい力を発揮する潜在的な能力があると思います。あとは、いかにしてそれを引き出すか、やる気を起こすかということがポイントだと思います。勉強する気のない人は、いくら机の前に座ってもダメでしょう。本当に本を読みたい人は、どこででも読むのです。また、やる気の起きない時は、いくらピアノの前に座ってもダメです。そういう時は練習になりませんから、弾かない方が良いと思います。ところが、いざピアノに夢中になってしまう時が来ると、逆にご飯を食べるのも忘れて、4時間でも5時間でもピアノに向っていても疲れないのですから、人間というのは本当に不思議な動物なのです。子供の時はいろんなことに興味を持ちますから、無条件に物事に夢中になれるものです。大人(高校・大学生も)になっても、そういうふうに自分を持っていく必要があります。自分自身をうまくコントロールして、やる気を持続させることができる人は、それだけで才能があると言えるでしょう。自分への課題意識というのを常に持って毎日を過ごすことが大事だと思うのです。そういう気持ちがなければ、学校の授業のように「時間割」にまかせてやっていれば安心、というような気持ちで毎日を過ごしてしまいます。でも、それは本当は自分の意思ではなく、実は“流されている”だけなのです。そして気がつくと、「何もできない人となっていた」などというようなことがないように、大切な時間の過ごし方をしっかりと考えたいと思うのです。(勉強嫌いで、好きな事しかやってこなかった若かりし頃のツケが、今頃になって回ってきています…(^_^;))



2003年6月16日(月) 音楽を言葉で伝えることができるのか?

 公開レッスンなどを見ていて思うのですが、やはりピアノのレッスンというものも、語彙が豊富でないとできないものだとつくづく思います。音楽を「言葉」で表現できるのか?という問題もありますが、できるにしろできないにしろ、歴代の「良いピアノ教師」というものは、一概に知識が多く言葉を豊富に使う人であったり、または言葉(話術?)巧みな人が多ったという点から見ても、音楽と言葉は密接な関係があるのかもしれません。(そうであるのに、「音楽は言葉を超えたところにある」のも事実なんですけど。)

 かのゲンリヒ・ネイガウスも、ピアノ教師としては言葉を巧みに操った人として有名です。つい最近、ネイガウスの著書(「ピアノ演奏芸術」〜ある教育者の手記 森松皓子訳)が改訳され出版されたので思わず買ってしまったのですが(^_^;)、博識であることは間違いないですね。伝説的な彼のレッスンがどのようなものであったのかは実際には想像つきませんが、良い教師であったことは間違いないでしょう。文中にはラテン語の引用などが多くて、彼が使っている言葉のどの部分が本当に本質的なもので、どの部分が装飾的なもの(?)と解釈して良いかは議論の余地があるかもしれませんが、音楽を理解する上で、言葉というものが絶対に必要なものだなという気はしてくるから不思議です。
 一方、話は変わって晩年のフランツ・リストがレッスンをしていたことは知られていますが、そのレッスンに関する日記(弟子が書いた)なども残っております。リストはあれだけ文学や宗教に惹かれていたし、「交響詩」などの標題音楽(program music)を書きながら、実際のピアノのレッスンでは言葉少なく、どちらかと言うと実演によって人を圧倒していたようなところがあったようです。リスト自身の作品に関してのコメントなどの中には、興味深いものもけっこうありますが、基本的には言葉の内容よりもリストという人間から受ける影響みたいなものの方が当時は大きかったのでしょう。

 音楽に関する書物は楽器店や本屋に一応たくさん並んではいますが、ちょっと専門的なことについて知ろうと思うと、意外に他の分野に比べると本の数はまだまだ少ないような気がします。楽譜の数はすごいものですが(手に入らないものも多いが)、作曲家の伝記や、演奏法、作品の背景に関するものなどもとても限られています。研究書なども、一通りはありますが、外国の著書を含めても一般の人が手に入るものはかなり限られてきます。もちろんこれからもっと増えていく可能性はあるのかもしれません。著書ではなく、雑誌などで連載されているようなものの中にクオリティーの高いものがあったりします。音楽家という専門に限らずにもっと知識が交錯するような、そういう知的なやり取りがあっても良いと思うのです。ただ、きっと今も現在進行で、翻訳書などの著書が今後次々と増えていくのであろうと思いますし、日本人発の優秀な著書も増えていくのでしょう。(ちなみに最近の新刊には、ピアニストに関するものも多く出るようになりましたね。) 
 しかし、やはり音楽の勉強というのは結局感性によるところが大きいということなのかもしれません。実地で伝えていくしかないような部分もありますから。ヨーロッパやロシアの音楽家たちは、自分たちが偉大なマスター(作曲家)たちの直弟子(孫の孫の孫弟子とか)であることをとても誇りに思っているようです。彼らはときどき、それが唯一の信頼のおける経験(と知識)であるかのように語るのです。



2003年6月9日(月) ロシア人の名前は読みにくい…

 外国人の名前の表記の仕方はいろいろあって困ります。さすがに「モーツァルト」や「ベートーヴェン」などは完全に定着していますが、近現代の作曲家などは、いくつかあって困ってしまうものがあります。特にロシア人の名前は、カタカナにするとすごく読みにくいものが多いのですね。まともに読もうとすると、一つの名前を読み上げるのにそこだけやたらと時間がかかったりするのです。できるだけ、発音に忠実に表記しようという姿勢(学者さんは特にそうですが)も大切なのですけど、日本語の文体の中で読むと、逆に読みにくくなってしまうのが難点です。

 ロシア語は、アクセントのある箇所を長く発音するのですが、カタカナにするとそれは長音になってしまい、「ラフマーニノフ」とか、「プロコーフィエフ」となってしまうのですね。(厳密にやると、「ラハマーニノフ」(“ハ”は本当は小さく書きたい)とか「プラコーフィエフ」にもなるのでしょうが。)私たちには見慣れない表記に思えるし、今まで親しんできた書き方と違うので違和感を感じる方も多いでしょう。でも実際にこのように書きたいと思っている先生方もいらっしゃると思います。
 私の個人的な感覚ですが、ロシア語の名前に出てくる長音は、どうしても読みにくいのです。「イグームノフ」などと書いてあるのを読むと、読むたびに、「グ」のところに毎回大きなストレスを置こうと努力して読んでしまうので、疲れてしまうのです。(マジメ過ぎるのだろうか。) 発音に忠実な表記に統一したいという気持ちは分かるのですが、それは実際に外国語をしゃべっている時にそうすれば良いのであって、私などは、日本語を読む際にはできるだけ日本語的に読みたいと思ってしまいます。だから、「メトネル」などと、アクセントを持たずにフラットに綴る日本語的表記が私は好きなのです。「メートネル」とか「メットネル」と日本語の文章のなかで言うのは、どうしても抵抗があるのです。(じゃあ「カプースチン」はどうするのだ!と言われるとちょっと…(^_^;)) だから、規則なんてあるようでいて、実際はすごくバラバラなのですね。統一することはたぶん不可能でしょう。言葉は生きているものですからね。(でもちょっと統一したいかな…。)

 どうせ正しい発音で書くことが無理なら、日本語の慣例に従うか、発音しやすさなどを重視して表記すると読みやすくなるのになあ、と思ったりします。実際、あるフランス語の名前などは、どの文字に置き換えてもカタカナでは絶対表記不可能というような名前だってあるのです。そう言えばドイツ人にもいましたね・・・。(「ゲーテ」はもう定着していますが、「ギョエテ」と聞こえる人も本当にいるのです。でも「ゲーテ」の方が読みやすいに決まっていますよね?)
 日本語は、一文字一文字が均等に扱われてしまうので、外国語のアクセントを表すためには長音を使ったり、いろいろ工夫しなければならないのです。でも、それでは日本人には見た目には綺麗ではないんですね。クロスワードパズルなどでも、長音(汚いので)を避けた方が、すっきりとした問題が作れたりします。子供の時、長音「ー」や促音「っ」は五十音にも入っていないし、仲間外れだと思っていましたので嫌いでした。(笑) やはり私は典型的な日本語的感覚の持ち主なのでしょうか。(?)
 綴りが全然違う「クープラン」(Couperin)と「プーランク」(Poulenc)。これを混同してしまう日本人って、やっぱり私は大好きです。(^_^) 私自身もこれは、「なんと見事なアナグラム!」と思ってしまいます。(笑) (ますますこの二人の作曲家を言い間違ってしまいそうになる理由は、ラヴェルが「クープランの墓」という曲を書いたからだと個人的には疑っているのですが…。)



2003年6月4日(水) アレクサンドル・ギンジン氏

 なぜだかわかりませんが、ここのところロシア人と縁が深くなってきたのでしょうか。今日は、今ちょうど来日中のピアニスト、アレクサンドル・ギンジンと知り合う機会がありました。学生たちにレッスンをしてもらうということで、一緒に立ち会ってきたわけです。ギンジンは、数年前にも日本で演奏していましたからピアニストとしては知っていましたが、この9月からはモスクワ音楽院でも教えることに決まったとかで、指導のほうに関してもちょっと興味がありました。

 今日のレッスンでは、エチュードの類やスクリャービンのソナタなどを聴いてもらったのですが、彼の音楽はオーソドックスで正当な感覚を持っていると思いましたし、自分の哲学もきちんとあって、やはり才能に恵まれた音楽家なのだなという印象を受けました。うわさの通り、実際の歳よりもずいぶん落ち着いて(というか貫禄があるように)見えて、日本人でこういう人はあまりいないだろうと思いますが、この感じは才能のある人によくみる気がします。今日は短い時間であったので、またぜひ近いうちに会って話してみたいとは思いました。
 終了後、少しだけお話ししました。現在、たくさんのレパートリーを抱えていてきっと忙しいことと思いますが、メトネルのソナタや美しいおとぎ話群もいずれ弾いてみたいと言っていました。もちろん、彼の師であるヴォスクレセンスキー教授も、メトネルの作品は、作品34(だったかな?)のおとぎ話を弾いているわけですしね。(と彼も言った。) 「ハ短調のコンチェルトも良いですよねぇ」と、第2番(第1番?)のコンチェルトを弾きたいようでした。そう、どんどん弾いてください。(^_^)
 ちなみに今日、なんとほかにも偶然もう一人、メトネルも弾いているピアニストと会いました。(!)

 それから、今日はギンジンと会う前に、実はさらにもう一人、メトネルの大家でもあられる某先生(?)とお会いし、久しぶりに刺激的な会話を数時間楽しんできました。(今日の日記でメトネルの話題が飛び出すのは本当に全部偶然なんですよ…(^_^;)) 長く待たれているメトネル研究書…、幻の充実解説、早く完成いたしますよう……(^。^)。



2003年6月1日(日) 目標を常に持つことが大切

 春から秋にかけては、国内ではピアノのコンクールも多い季節です。音楽で技を競わせるのが良いのか悪いのか賛否両論あるのかもしれませんが、子供たちにとっては何よりやる気の源泉になるわけですから、コンクールは大きく社会に貢献していると思います。これを、“競争の場”ととらえるか、“発表の場”ととらえるかは、どちらとも言えるような部分があるような気がします。それは、大きな国際コンクールであっても、やはり同じような感じはあるでしょう。音楽に点数がつけられないという意見は、確かになるほどと言える部分はありますが、どんな形式で発表の場を提供するかということは提供する側から考えると実はとっても難しいことなんですよね。それで、現在に至るまでいろんな組織などが思考錯誤しながら、コンクール、その他のイベントを考え出して、音楽が社会に広く行き渡るような活動をしているのではないかとも思うのです。そしてこれは、音楽を学ぶ人たちにとっても、音楽を聴く人たちにとっても、大きな貢献をしていると思います。

 音楽を勉強している側にとって、一番大きいのはやはり目標が与えられることでしょう。人間というものは、何も目標を与えられないと、こつこつと一人で勉強し続けられるほど意思が強くはないものです。(自分が一番そうなんですが…。) 小学校や中学校の生徒には、黙っていてもテストがあったり、学校の行事がいろいろあったりして、休む暇もないほど次々に目標が与えられているわけです。それを“有り難い”と思う暇もないほどに。ところが、大人になるとそういうものがなくなって、突然自分が何をやるべきかわからなくなって考え込む人もいるでしょう。(私などもいつも考え込んでいます…。) 目標を常に持つということ(=目標を作るということ)が、本当に大切だと思います。それも、できるだけわかりやすい目標を持つのがコツです。例えば、「私は偉大な人格者になる」という目標は、具体的に何をすれば良いのかわからず、結局毎日を流されるままに生きて過ごしていってもたぶん偉大な人にはなれないと思います。それは目標が大きすぎるのですね。小さな目標、しかしちょっとの努力は必要、というくらいが理想的です。

 コンクールは、現在になって、さらに“競争”の要素が薄くなってきたような気がします。国際コンクールにおいても、入賞者が年々ねずみ算式に増えていくばかりですし、なによりコンクールそのものの数が増え、希少価値もなくなってきた。というより、音楽をやる人も増加しているのでしょう。ピアノを弾く人の数は、明らかに世界に増え続けています。“登竜門”としてのコンクールは、この先どうなっていくのだろう、という感じがしてきます。
 でも、考えてみればそれも良いのではないかなという気もします。演奏家の判定基準も多様化し、あらゆる種類の音楽家が現れ始めている今日、どんどんそれに代わる新しいイベントが考え出されたりして、音楽界も華やかになっていくと良いと思います。そして、コンクールもその中の一つという位置付けになっていくのではないかと、私は勝手に予感しています。
 だから、コンクールは、「勝つために受ける」のではなく、逆に「参加することに意義がある」のでもなく、“自分を高める場”として認識したら良いのだと思います。目標があるというのは、とにかく楽しいことなのですから。きっと、“コンクール”という名前がつくから気になってしまうのだけど、もっと大きな目から見るとあまり問題となる程のことでもないような気もするのです。コンクールではなく、「発表会」を一つ企画するのだって大変ですし、「演奏会」を企画するのも大変です。だから、イベントを組織している人たちはとても偉い人たちだと思うのです。たくさんの人を動かして、審査員をお願いしたり、お客さんを動員したり…とか、多くの人を動かして、その上すべてを噛み合わせるということはものすごく難しいことなのです。だから、大きなことを企てればいろんな問題も起きたりすることもあるのかもしれませんが、これは人間である以上、何をやってもそういうことはあるのでしょう。これはどの分野でもそうでしょうし、私たちの永遠の課題でもあるのでしょう。だから、企画・マネジメントの仕事は、とても難しい仕事といえるのでしょうが、私自身も、放っておくとサボってしまう人たちために、刺激になるようなイベントの可能性をいつも考えてはおります。(今のところ、アイデアが枯渇しているのですが…。)






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