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〜旧「音楽雑感」のページ、音楽の話題その他を日記風に綴る〜
2004年



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2004年1月25日(日) メトネルの「ピアノ協奏曲」、ついに日本初演されました
(1月28日(水) 一部削除・加筆)

 一昨日、東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会(サントリーホール)で、待ちに待ったメトネルのピアノ協奏曲第2番がマルク=アンドレ・アムランの独奏によって実現しました。聴いてきた直後にすぐ感想なりいろいろ書きたかったのですが、その日から深夜帰宅・早朝出勤が続き、今になってやっと家のパソコンの前に姿を現すことができました。気がついたら演奏会からすでに丸二日も経ってしまい、何だかもう昔のことのように思えてきました。(笑) それで、書きたいこともだんだんなくなってきましたが、一応ご報告だけはやはり書かせていただくべきかと思い、やっぱりキーを叩く(“筆をとる”という意味)ことにしようと思いました。書く時間帯・タイミング等によって、この日記はまったく違った内容になる可能性を秘めているのですが、いま書きたいと思ったことを綴ってみようと思います。

 とにかく、3曲もあるメトネルの素晴らしいピアノコンチェルトが今まで日本で一度も演奏されたことがなかったことは事実なのです。日本だけでなく、世界でもメトネルがラフマニノフと作曲家として完全に並んで見られるようになるのは、後世の人たちの評価を待たなければいけないのでしょう。しかし、現在進行で今こういう演奏会が行われているということを、是非多くの人に知ってもらいたいとは思います。

 終演後、風呂上がりのような顔をしたアムランと話をしてきました。「いやあ、よくぞやってくれましたね>^_^<!!」てな感じで楽屋に会いに行きました。「実は僕も97年(と言ったはず)以来、この曲を暗譜で弾くのは今日が2回目なんだよねー」と、いきなり照れながら言っていましたが、あの忙しいスケジュールの中で、平気で(しかもラフマニノフ3番を弾いた直後に)メトネルのコンチェルトを弾いてしまうのがどれほどのことかは、聴衆の人たちには想像がつかないことと思います。アムランとは、終演直後ですからほとんど当日の演奏とは関係のない話をしましたが、思わず次のことだけは言ってしまいました。「指揮者は第3楽章を一つ振り(1小節に1回だけ指揮棒を降ろすこと)で振っていましたね。」すると、何を言いたいかすぐに察して、笑いながら「そうだったね。もう少しテンポを遅く弾くと、こんな感じに1,2,3,1,2,3と振るのかな。」などと、本人はいたって自由な考え。そう、テンポなんてゲネプロで決定して(ひょっとしたら当日!)、指揮者なんて、その場で1つ振りにするか3つ振りにするかを決めるのだろうと思います。しかし、私は本番を見ていて、可笑しくなってしまうほど苦しそうな振り方(ちょうどどっちにして良いかわからぬ微妙なテンポだった)で、曲中でオッコ・カムは分割振りを混ぜたりしてかなり苦労しているように見えました。あの第3楽章は“微妙に速い”変幻自在にテンポが変わる3拍子なのですが、それが、聴いていてもなんだか宙に浮いたようで落ち着かなかった理由かと思います。そのあたりがメトネルの難しさの一つかもしれません。あれは、特にリズム的な面で、オケにとってもソロがかなり聴き取りにくい(合わせにくい)曲だと思います。アムランがしっかりしたソリストだから、何事も起こらずに演奏は成功していましたが、実際、指揮者は大変だったはずです。でも、“気合い”で合わせなければならないことって、けっこうコンチェルトにはよくある話なのですけどね。(^_^)

(ここから1月28日加筆) 
 アムランへの質問をもう一つ披露。今、アルベニスの「イベリア」全曲を弾いているようですが、私はとても一度にあれを全曲を弾こうなどと思ったことはありません。でも、12曲それぞれの難易度には興味があり、小声で(小声にするのがポイント)、「どれが一番難しい?」と訊いたら、やっぱりアムランにも全部難しいそうです。「強いて言えば第4巻(最後の3曲)かな?」とか言っていました。楽譜の右手と左手の指使いの指示は自分で変える箇所ももちろんあるそうですが、彼の基本スタンスは、「書いてある音は原則として全部弾く」ということです。アムランらしいお言葉です。(実際、「イベリア」の中には、すべての音を弾くのは不可能に思える曲が多い。)

 ところで、今年の3月初めにニューヨークで行なわれる『国際メトネル・フェスティヴァル』(ついにそんなものが行なわれるようになったのか!)では、アムランはメトネルの歌曲の演奏を担当しているようですね。それに、ソナタ「夜の風」。アムランに言わせると、フェスティヴァルは“たった4回のコンサートだよ”とのこと。それでもジェフリー・トーザーやミルンが来て弾くんだから、メトネルのイベントとしては十分に話題はありますよね。これ、ぜひとも顔を出したいんですけどねえ…。

 削除してしまったメトネルのピアノ協奏曲第2番の私の楽曲分析ですが、やはりこの曲は自分にとってけっこう思い入れのある曲ですので、先日ちょっと書きかけたものに加筆して、いつか完成したら他のページに掲載しておきたいと思っています。メトネルのソナタ形式は、ちょっと研究すると分かりますが本当に独特なものです。曲をよく理解するためには、実は頭で理解することが必要なのではなく、ただ何度も何度も聴けば良いのです。たくさん聴くほど素晴らしさが分かりますよ。(^_^)



2004年1月18日(日) ちょっとカプースチン

 本当に寒い日が続きますね。先日などは、風邪の兆候が現われて、「これはまずい…」と思って、謙虚に病院へ足を運んだのですが(私の場合は謙虚にならなければ滅多に自分から病院へ行くことはない)、一軒目は“乳幼児限定”の予防接種時間帯でシャットアウト。あきらめて帰ってきたら、妻に「じゃあ他の病院は?」と言われて、トボトボともう一軒へ。ところがそこへも着いてから気がついたのだけど、“定休日”。寒〜い中、同じ道を帰る。(診察券をあらかじめ見ておいたらちゃんと書いてあったのに!) もう頭にきて(この時点でたぶん風邪は治っていたと思う)、帰宅して、これは自力で治せということだろうと思って、念力で熱を下げました。本当にその後は、あれだけ苦しかった体調がすっきりと治り、高かった熱も本当に下がって、気分よく残りの一日を過ごせました。(自分でもびっくりしました。)

 とそんなわけで、やっぱり病み上がりには“カプースチン”、ということで、どん底からハイテンションに一気に持っていくのがコツで(笑)、譜読みのつもりで弾き始めたのが、気がつくとノーマルなテンポで弾き通していて、たっぷり汗をかいたあとは完全に体調が元の健康な状態に戻っているのを発見しました。(自分の体もときどき強靭だと感じることがあります。) 最近になって、カプースチンはやっぱりジャズからのアプローチ(特にリズム感やパッセージの捉え方)で攻めなければ弾けないということを悟り、これを感得してからというもの、すごく弾きやすくなりました。これは、ある意味今まで無意識に避けてきた感覚で、一見クラシックの演奏法と相反するような気もする部分なのですが、考えてみればプロコフィエフやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィッチなどのある曲を弾くときには一部必要になる感覚でもあります。特に、クラシックの演奏ではときどき、フレーズを歌わせるために、“アクセントをつけてはいけない”、という制約があるのですね。ある音には決してアクセントがつかないように気をつける…例えば、音を長く伸ばした直後の音とか、フレーズの中に出てくる最高音とか、こういうものは飛び出してはいけないと言われるのです。ところがジャズでは、そういう音をシンコペーションとして捉えて、逆にわざと強く弾いたりすることもあるわけです。

 ピアノを弾いていると、どうしても弾けないということがありますよね。皆さんも経験したことがあるかと思います。どんなにしても、何をどうやっても、いつまでやってもとにかく弾けない、ということがあります。ところが、ある時に何かちょっとしたことに気がついただけで、いきなり弾けるようになってしまうということがあります。結局、自由になっていないということが原因である場合が多いです。一番あり得るケースは、身体が堅くなっているのに気がつかないために弾けない、ところが、手や体を意識的にリラックスさせることで難なく弾けてしまう、ということがあります。逆のケースはあまりありません。ところが、例えばカプースチンの曲は、本人が弾いたって、リラックスしているどころかすごいスピードで弾いていて、あれはどんなコツがあるのだろう?と、とても疑問に思っていました。その秘密も少し分かってきました。結局、即興でビ・バップが弾けるぐらいの能力がないとダメなのかと。もし、あのテンポの速いバップと同じようなパッセージをクラシック曲で弾くとすれば、それは相当の練習と緊張感とテクニックを強いられるような気がしますが、ジャズのプレイヤーはもっと自由にリラックスして弾いているように見えます。そういう感覚が普通にならなければ、いくら楽譜を読んでクラシック的なアプローチで練習しても、ちょっと難しいということなのだと思います。カプースチンの作品には、本当に不思議なほどに、ジャズとクラシックが深いところで同居しています。

 実はちょうど昨日、そのカプースチンから、『昨日、Op.119を書き上げたところです』というメッセージをいただきました。(^_^)  私が昨年4月末にお会いした時点では、作品番号はOp.108までだったのに、いつのまに作品が増えたのか…、しかしOp.108以降は、Op.115の「ファンタジー」、Op.116の「ロンドレット」、それにOp.118(“Aquarela do Brasil”)以外は、まだタイトルがついていないようです。「ピアノ・ソナタ第13番 Op.110」が昨年の7月17日に完成しているから、その後、一ヶ月に1曲以上のピッチで作曲を完成させているということですね。Op.118は、作曲家によれば、上記タイトルのブラジルのサンバをもとにしたピアノ・ソロ・パラフレーズだということですが、Mr.Takaokiのアドバイスによって作曲したということです。それにしても、高沖氏って本当に一体何者なのでしょうね?



2004年1月13日(火) 音楽のジャンルを越えて

 良い子の皆さんは、日々“楽譜”(=音符たち)と格闘していらっしゃることかと思いますが、訓練さえすればどんな長い楽曲だって覚えてしまうのですから、人間という生き物はすごいものだと思います。一方、40ページのソナタを覚えて間違わずに演奏するのも確かにすごいですが、楽譜なしで、“無”からその場で音楽を作り出して、一時間も即興演奏を繰り広げてしまうピアニストもやはりすごいと思います。しかし、どちらにも優劣はつけられないかとは思いますが…。

 普通は、即興演奏というと、どうしても軽い音楽と受けとめられてしまう向きがあるかもしれません。結局、「楽譜に書いて残すほどのものでもない」、と思われてしまうのでしょうか。クラシック音楽の世界の人には、ジャズに対してどうしても偏見のようなものがずっとあったように思われます。ジャズのプレイヤーたちが、かなり異質の人間たちに見えたのも事実です。ただ、音楽的に見ると、やはりビ・バップ以後のジャズには、クラシック音楽と比肩される要素が絶対あるし、それは現代までの流れの中で、さらにいろんなプレイヤーたちによって発展しているとも感じます。(もちろん、今ではジャズもいろんなジャンルに姿が変わってきて、互いに似ても似つかないほどの音楽が多く存在する。) 先日も書きましたが、キース・ジャレットの即興演奏における異常なまでの音楽への陶酔と、自分の中から突き上げてくる創造のパワーには、すごいものがあります。これは、再現芸術の音楽家には真似のできない部分です。(クラシックの演奏家には、演奏中にその曲の作曲家と一体となれた時に、そのようなものを生み出すことは可能かもしれません。) キースが、一時期、クラシック音楽のほうへ傾いたりした時期があるのは周知のことです。その関係で、クラシック音楽家とも少し関わりがあったりしたのですが、本の中で紹介されているアシュケナージとの短い会話(ここに詳しくは書くことはできませんが)で、ある意味クラシック音楽家というものが逆照射され、いろいろ考えさせられました。(というより、ちょっと恥ずかしい気持ちになったというのが事実。) クラシックの世界では、楽譜をいかに正しく解釈し、作曲家を尊重し、楽譜通りに弾くか、ということが問題なのです。勝手に、音を一個でも変えて弾くことは許されないのですね。ひょっとすると、これが時に窮屈だと感じる人もいるかもしれません。音色やテンポルバート感覚なども、自分の作曲と思えるほどその曲を熟知し、しかも新鮮さを持って、何度も何度も演奏しなければならないのです。しかし、即興演奏においては、逆に自分の中から音楽そのものをその瞬間に生み出すわけですから、何かに縛られることもなく、すべて自発的です。ただ、よほど卓越した能力のある人でない限り、確かに楽譜に書いて残すほどのクオリティーの音楽にならないところに難点があります。古今の名ジャズ・ピアニストの「完全耳コピー版」のように、すべての音を書きこんであるような楽譜も存在するにはしますが、それがあるからといって、録音と同じような演奏はなかなかできません。ジャズにおける自由さは、やはりアプローチそのものが違うからなのですね。カプースチンのように、楽譜に書いて残すことにこだわる作曲家は、たとえ音楽はジャズであっても、完全にクラシック音楽の人間と言えるでしょう。

 才能を感じる音楽に対しては、“クラシックでもなく、ジャズでもなく…”というような言い方が次第に流行ってきていますから、現代に生まれた天才たちは、そういうジャンルや音楽分野の区別を超えて、新しくてしかも素晴らしいものを今後もきっと生み出していくことでしょう。現に、若い世代でもいろんなタイプのミュージシャン(ジャンルを特定できないような?)で、才能もすごい人たちが多く出てきているように思います。クラシック音楽も発展の波についていっているのか、確かに近年は、ピアノ音楽に限らず、埋もれていた作品の膨大な発見と録音、そして世界各地での初演の数々。そういうムーヴメントも、時代とまったく関係なく起きていることではないのかもしれません。



2004年1月7日(水) 

 新年のご挨拶が遅れてしまいました。皆さん、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。いつも、独り言のように書き続けてきましたが、ひょっとしたら読んでくださっている方がいらっしゃるかもしれないという、ただそれだけでここまでやってきました。HPの感想や厳しいご意見など、ときどき送ってくださるととても励みになります。ただ、分かっちゃいるけど更新してない、とか、そういうのはままあるかもしれませんが…。(すみません。)

 こうして、年がまた明けて、時代はどんどん進んでいき、下手をするとそこから取り残されていってしまいそうだなと感じます。純粋に音楽の道を求め始めたのが小学生の時だとして、それから30年も経ってりゃ音楽の世界もずいぶん変わって当然でしょう。いつも言っていますが、クラシックの世界だって少なくとも30年前と同じだとは思ってはいけないし、その時代から新しい音楽もかなり増えました。クラシック音楽以外を習える音大とかって、ひょっとしたら近い将来できるのでしょうかね。カプースチンを弾く学生たちが、あっちの音大にもこっちの東大にもいるのですから(笑)、心して時代を迎え撃たなければならない時が来ているのでしょう。

 以前から言っていることですが、“即興演奏ができること”と、クラシック音楽の世界でやっていることというものが、現在はあまりにもかけ離れた世界になってしまった(モーツァルトの時代はそうではなかったのに)ということが、私が大きな疑問を抱くきっかけになっていることは確かでしょう。“作曲を勉強したい”という動機を持って音楽の世界に行きたいと夢を語る若者たちは、決して難解な現代音楽を作りたいと思っているのではないのですね。それなのに、そういう人たちもやはり全員、まずは和声法とか、対位法とか、やっぱり学ばなければならないのでしょうか。

 ところで、年が明ける前に手に入れたキース・ジャレットのトリオ(ゲイリー・ピーコックDouble-bass.、ジャック・ディジョネットDrums)、こればかり聴いています。「キース・ジャレット・アット・ザ・ブルー・ノート」という6枚組みのCDですが、1994年6月3日から5日まで、3日間で6回のセット(1日2回のセットで、当然重複曲はなし!)がそのまますべて完全に残された録音で、これは6枚ともクオリティーの高さは抜群です。キースのアルバムはもちろんいくつもありますが、この94年の時のトリオの録音を6枚組でやっと買いました。(なぜか巷には、6枚のうちNo.3のCDのみが出まわっている。そして確かに、なぜかこの3枚目が一番良いようにも思われる。) キースは、すべてインプロヴィゼーションでのソロ・リサイタルというものに特別なクオリティーを与えたことでも有名といえるでしょうが、彼の考え方は本などを読むとかなり共感するものがあります。とにかく、このトリオは気心知れた…とかいう、そういうレヴェルのものではなく、はっきり言って、演奏を聴くと、この3人は“奇跡”と言っても良いでしょう。ジャズのスタンダードを、ここまでの発想の自由さと完璧なセンスで演奏できる人は、キース以外にはいないのではないでしょうか。すでに、それ以前の彼のコンサートにおいてあれだけの究極の即興能力が披露されていることが、その裏付けとなっているようにも感じます。“即興”は、瞬間瞬間の“作曲能力”でもあるとキースは言っています。チェスの天才が、瞬時に駒を動かしていくようなものと似ているというわけです。即興だからといって、クオリティーが落ちることなどまったくなく、逆に純粋に音楽に没頭している分、高くなっているのでは?と思わせるほどです。音楽もついにここまできたか、と久しぶりに聴いて感動をもらってしまった私は、この4〜5月に日本に再び来るこのトリオを絶対に聴き逃すことはないでしょう。この3人は、もうかれこれ20年くらい一緒に演奏しているはずだから、今現在どんな境地まで到達したのか、それをどうしても確認せずにはいられません。

 さて、話が飛んでしまいましたが、今年もいろんな意味で、過去の遺産を暖めながらも、新しいものに向ってチャレンジしていきたいと考えています。勉強したいことはたくさんあり、学生時代になぜあんなに遊んでしまったかが恨まれます。皆さん、お金がないとか言って自己限定せずに、やりたいことはがむしゃらなまでにやっていた方が、絶対にあとから得をしますから、どうかがんばってくださいね。(何、お金はあるって?(・・;))




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