相模三ノ宮・能満寺の歴史

 当山は霊峰大山に弘法大師が住持された頃にさかのぼります。弘法大師は室戸岬で虚空蔵菩薩の真言をお唱えする求聞持法という修行をされて初めて悟られました。弘法大師は三ノ宮大明神の鬼門に別当として虚空蔵菩薩を祀られたそうです。それ以来三ノ宮大明神には寺門派の僧侶が別当を務めるようになりました。鎌倉時代になると源頼朝公は寺門派の寺として鶴ヶ岡八幡宮寺を鎌倉に建立されます。三ノ宮大明神別当はことある度に鎌倉へ赴いて読経し法要をしました。その頃北条政子は大明神の北端に淨業寺を建立しました。相模風土記には頼朝公は三ノ宮大明神に政子の安産祈願を請い誦経させ神馬を奉納したとあります。三ノ宮氏は頼朝公と共に京都まで赴いていますが後に足利尊氏公と対立し戦に負けてその殆どを焼失してしまいます。尊氏公は虚空蔵菩薩信仰に因み筑前で再起を図った虚空蔵菩薩の霊峰福智山を思いだし福智山能満寺と山号寺号をあらためました。さらにそのような当山の高徳を称え寺領二十貫を与え永世祈祷所として定められました。この時貞和元年(一三四三年)のことです。鎌倉より大覚派の無印素文禅師が能満寺の開山として迎えられました。無印素文禅師は禅興寺四世了堂素安禅師(建長寺三十五世塔頭宝珠院開山、十刹扇ヶ谷法泉寺開山、曽我法輪寺開山、常福寺開山)の印可を受けました〔蘭渓道隆ー同源同本ー了堂素安ー無印素文〕。禅興寺は北条時頼が建てた最明寺のことで後に北条時宗によって大覚禅師を開山に寺号を改めました。十刹に数えられるほど由緒のある寺でしたが今では塔頭の明月院(別名あじさい寺)を残すのみとなっています。前出の淨業寺も荒廃し江戸時代になって再興されたときには臨済宗(別れて黄檗宗)とされております。
 戦乱の世となって両上杉氏の争いの兵火のため文明十年、殿堂、古記焼失し六代まで再建出来ませんでした。当山七世渕心玄龍和尚が鎌倉明月院より来られて、寛文五年に殿宇を再興され中興開山となられました。その当時の本堂(方丈)は、間口九間半、奥行き六間半、庫裡は間口十一間半、奥行き五間半と言う大きなものでした。その他本尊虚空蔵菩薩の外に脇仏として達磨大師や焦面鬼大王などを安置されたと記されています。また表門、二天門、鐘楼、稲荷大明神(鎮守)地蔵堂等を兼備していたと伝えられています。寺領としては、当時の大将軍徳川家光公により慶安二年八月二十四日付で御朱印七石を賜り、その後七回に亘り下賜され徳川家の恩恵を受け末寺四ヶ寺(江戸初期は七ヶ寺)の本寺として栄えました。江戸時代も末期にさしかかり、弘化五年、乞食の不詳火により類焼を免れず殿堂、庫裡を焼失、ただ本尊様を守り得たのみで物置を残して全焼の災難に遭いました。現在の本堂は明治になって十七世石門和尚が春日の局御寄進による大山寺の客殿を払い受け本堂に改修されたものと言われています。