【診療よもやま話し】

このページでは日常の診療活動から気が付いた事などを書いていきたいと思います。

第1話 『病は気からと申しますが・・・・。』

第2話 『プラス思考とマイナス思考』

第3話 『難しい事』

第4話 『言霊(ことだま)』

第5話 『独り言のサイクル』

第6話 『プラス思考』

第7話 『忘れられない患者さんたち その1 N君の事』

第8話 『ある看護婦さんの話し…入院経験から』

第9話 『忘れられない患者さんたち その2 Fさんの事』

第10話 『西洋医学と東洋医学』

第11話 『忘れられない患者さん達 ひろ君のこと』

第12話 『忘れられない教師達』

第13話 『忘れられない患者さん達 健太郎君のこと』

第14話 『医者より勇気づけられた社長の言葉』

第15話 『痛みの自己コントロールの仕方』

第16話 『受け入れがたい出来事に遭遇したときの対処法について』

第17話 『切ないこと・・・・。』

第1話 『病は気からと申しますが・・・・。』  
   

昔から良く病は気からといわれます。元気・病気 陽気・陰気 強気・弱気 活気・ 気鋭・気鬱など気の付く漢字を見てもなんとなく身体にとって大切なもののような気がしますね。
東洋医学でもこの気というものを非常に大切にします。
東洋医学でいう気は生体エネルギーという意味合いが強いのですが、ここでは気持ちの気についてお話ししたいと思います。

 先ずは,私の体験談から・・・。
中学1年生の時のことです。初めての中間テストを一週間前にしてひどく落ち込んでいました。
当時はクラス順位から学年順位、男女別順位まで出ていました。
それが苦痛で何とかお腹でも痛くなって受けなくていいようにならないかなと真剣に 考えていました。
しかし,元気だけが取り得のような子供でしたからそう,うまい事お腹が痛くはなってくれません。
そうこうしている内に試験の前日になりその帰り道、学校の裏門のところで急に胃のあたりが痛くなってきました。
『うひょ,やった!』とよろこんだのも束の間やがてそれは激痛に代わり、その場で動けなくなってしまいました。
なんとか友人に抱えられるようにして帰って翌日受診すると急性化膿性虫垂炎(盲腸)で即入院・手術となりました。
摘出した虫垂は3分の2が白っぽく化膿していて今にも破裂しそうで、 もう少し発見が遅れてたら腹膜炎を起こしてたところでした。

 ○○ヨットスクール事件というのがありました。御記憶されている方も多いと思いますが、家庭内暴力などで家庭で面倒を見切れなくなった子供などを入所させヨットを通じて更生させようというスクールで、趣旨はいいのですが暴力によるスパルタ教育でスクール生がストレス性の出血性十二指腸潰瘍で死亡するという事件でした。

 また反対の例としてプラシーボ効果というのがあります。 ご存知の方も居られると思いますが,簡単に説明すると新薬のテストで同じ病気の人をU群に分け、一方には新薬をもう一方には色も形も全く同じで毒にも薬にもならな い偽薬を主治医もわからない状態で投与すると、偽薬を服用している患者さんにも効果が出るというものです。
勿論,副作用がでる事もありますが一般的に何らかの効果が出ることをプラシーボ効果と呼んでいます。

このように身体と心は表裏一体で切り離して考える事は出来ません。
強いストレスを自分でかけたり、他人にかけられたりすることで若く元気な身体でも容易に病気になるし、偽薬(ダミー薬)でも、お医者さんや病院を信頼して治ると信じて飲めば効果がでる事もある。

あなたの一番の理解者はあなた自身です。あなたの一番の主治医はあなた自身です。身体や心を治すのは実はあなた自身なのです。どんな治療もそれを少し助けるだけで、あなた自身に治す気力や力が無ければどんな治療もお薬も効果が出ません。

自分自身で治る事を諦めていませんか? 自分自身で大切な身体を傷めていませんか?

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第2話 『プラス思考とマイナス思考』  
   

『病は気から…。』等の話しをしていますとよく患者さんから『プラス思考が大切なんです ね』と妙に納得される事があります。
その度に『それはそうなんだけど…。』と口ごもって しまいます。
マイナス思考がそんなに悪いかと言うと私はそうは思いません。
いつもプラスに考えられて解決できる事は良いのですが、世の中にはどうしてもプラスに 考えられない理不尽な事に遭遇する事もあります。
どうしてもがんばれない事もあるのです。

 患者さんで働き盛りの息子さんを自殺で無くされた方がいました。
お通夜に行くとその方は階段に座って一人泣いておられました。
身内の方や親しい人たちが次々とそばに来られて、『あんたが付いていながらなんでこん なことになったん』『あんたがしっかりせんと,泣いとってどうすんの、死んだもんも心配して成仏できひんで』
皆がその方の事を想って叱咤激励していきます。 でも残念ながら、その想いはその方の心には届いていないようです。
声を掛けると,『先生,息子がえらい事になってしもた』と泣き崩れました。
『今は辛い時やから思いっきり泣いたらええねんで』私は横に座って手を握りながらしば らくそのままでいました。
今この人に必要なのは誰からの,どんな言葉でもなく泣くだけ泣いて,深い悲しみの中に身を置く事で、それが自然な姿だと思いました。

泣くという行為は一見マイナスの行動のように見えますが、ストレスから開放する方法として実に有効な方法なのです。
誰でも辛いとき思いっきり泣いた後に、心がふっと軽くなった経験があると思います。
不幸のどん底の真暗闇に落ちた様に感じる時でも、一瞬光が射したような感じ…。
そう、その時に,ちょっと回りを見てください。
あなたの事を心配している顔や声が聞こえたら、心に少し余裕ができた証し。出口はもうすぐそこです。
もしまだダメなら次の機会を待てばいいのです。
次に射し込んで 来る光は確実に太く明るいものになっています。

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第3話 『難しい事』  
   

皆さん,私たちが患者さんを治療するに当たって治療技術以外に何が一番難しいと思われますか?
実は,患者さんと『お話し』する事なのです。
『お話し』と言ってもほとんどが聞く事なのですが…。
治療中の何気ない会話の中からその方が希望している事や精神状態などを把握し対応して いきます。

例えば,『私の診断や治療に不安、不信があるな』とか『仕事や対人関係の内的なストレスがこの痛みの引き金になったり助長しているのかな』とか…。

前者の場合、適切な所に紹介転医すれば済みますが後者の場合は、仕事がうまいこと行かない、姑さんとの仲がうまいこと行かないと聞いたところで根本的な解決は私には何もできません。
でも話しをされる事で来院時寄せていた眉が帰るときに笑顔になっていると私も少しほっ とします。
しかし,そこまで持っていくのが実は大変でして、みのもんたのように『奥さんどうし ました?』と聞いても誰も答えてくれませんし、もしすっと答えられるような人ならあまりストレスに感じないでしょう。  

また,治療室の中には他の患者さんも居られます。
だから自然な会話の中でそのような状態に持っていけたらよいのですが,そのことに触れられたくないときもありますし…。
わかっていてもこちらが忙しくて対応できないときもあります。 これは何年やっても難しいですね。

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第4話 『言霊(ことだま)』
   

言葉には不思議な力があります。誰かの一言で,本に書いてあるたった一行でその後の人生が良くも悪くも大きく変わった等という話しはよく耳にすることです。それだけに弱っている人に対して使う言葉には細心の注意が必要です。

 勤務していたときのことです。患者さんが体調を崩されて入院されたので同僚と一緒にお見舞いに行きました。
高齢でしたので,ゆっくり静養していただこうと『○○さん,ゆっくり,気長に養生して下さいね』と声をかけるやいなや、
『わしはこんな所に一日たりとも居りたくない ,はよ帰りたいんじゃぁ!!』と一喝されてしまいました。
その人にとって不適切なアドバイスほど不愉快で役に立たないものはありません。
そればかりか、時には築いてきた人間関係まで崩してしまいます。

 また、震災のとき鍼灸師会のボランティアで各避難所を回っていたときのことです。
体育館でおばさんが私を見て『来てくれるのありがとね』と手を合わしてくれます。
私も座り込んで『がんばろうね』と声をかけました。
すると床に視線を落として深いため息をついた後、すがるような眼で『何をどう頑張ったらええの? 今の私は何をどう頑張ればええの? 教えて…。』言葉に詰りました。
その方の手を握って『とりあえず寒いから風邪なんかひかんように…。』
そう、答えるのが精一杯でその場から逃げるようにして車に乗り込みました。

あのすがるような眼と冷たい床の感触が頭から離れない。思い返せばたやすく『頑張って!』を使い過ぎてきたように思う。

 私自身も被災を受けていましたのでたくさんの方からそのように励まされてきました。
しかし,その言葉を聞くたびに感謝の念と同時に孤独感,差別感,焦燥感などが押し寄せ結局何から手を付けて良いのか分からず,何をどう頑張ればよいのか見当がつかず, 徐々に自分の殻に閉じこもっていくような事が有ったように思う。
なのに当たり前のように人には平気で使っている。

『頑張れ!』と言う言葉は自分自身に使う言葉で、他人に対して使う言葉でないのかもしれない。

 それからは避難所でも,『大丈夫,大丈夫,地震なんかに負けんとこな』と自分にも言い聞かせるように声を掛けました。
『うん,負けへんで!』と比較的心強い返事が多く帰ってきたように思います。

言葉遣いは大切だ。痛切に感じました。

私はこの『だいじょうぶ』という言葉が好きです。

なぜならこの言葉の後ろには否定的な言葉が来ないから。

だいじょうぶ 絶対治る、ダイジョウブ 絶対合格する, 大丈夫 絶対幸せになれる。

だから、だいじょうぶ、ダイジョウブ、大丈夫。

もし、今あなたの心が疲れてヘコんでいたら、この言葉は使えるかもしれない…。

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第5話 『独り言のサイクル』  
   

第四話で言葉が人に与える影響についてお話ししました。では、自分に対してはどうでしょうか。

アメリカにスリー・イン・ワン・コンセプトというストレスから開放するプログラムがあります。
そこに書かれている事を紹介しましょう。

私たちは四六時中自分に向かって話しかけているに気づいていますか?そのうえ自分で尋ねた事に答えてもいるのです。
『コーヒーがいいかな紅茶にしょうかな』という独り言に対して『う〜ん、今日はコーヒーを飲もう』

このように、自分で質問して自分で答えています。私たちの脳は必ず聞かれた質問には答えを出してきます。
そしてその答えに合うような行動をします。

例えば、受け取った試験の点数が悪かったとき、こんな独り言が出ます『何でこんなに頭悪いんやろ』脳はすぐに答えてくれます。『そりゃ、お前は理解力は乏しいしおまけに記憶力も悪い。頑張ったって無駄・無駄』こんなメッセージを受け取ったら誰 だって落ち込んでしまってとても勉強なんかする気にはなれませんよね。
それどころか、やがてそのメッセージは自分の中で確信となりそうなんだと信じ込んで、頭が悪い人間を演じてしまいます。

こんな時ちょっと質問を変えてみてください。
先ず、何を自分が求めているかを考えます。この場合、試験でよい点数を取る事です。
そして質問をどうしたら、と言う言葉ではじめます。『どうしたら、よい点数を取れるのだろう』脳はすぐ答えてくれます。

『もう少し、効率のよい勉強法に変えてみたら』とか『理解してない所は必ずわかるまで復習する事』などのメッセージが帰ってくることでしょう。

 同じことでも、よい質問をするとよい答えが返ってきます。よい答えはあなたの感情を変える力があります。
そして感情が変われば、あなたが状況にどう対応するかも変わってきます。

人生を映画にたとえるなら、あなた自身が作者であり、監督であり、プロデューサーであり、役者なのです。
もし、もうすでに自分の演じてしまっている役が気に入らなかったら変えてください。脚本が気に入らなければ、書き直しましょう。

自分で書くことで自分の思い通りの映画を創ってください。

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第6話 『プラス思考』  
   
第二話 『プラス思考とマイナス思考』でマイナス思考も時には必要だと言う話しをしました。
しかし、プラスに考えられて解決できる事に越した事はありません。
今回は『プラス思考』についてのお話しです。

『飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ』という本がありました。若くしてガンに倒れられた青年医師井村和清さんが死の直前まで綴った愛の手記です。
名高達郎、竹下恵子さん主演で映画にもなりましたからご記憶の方も居られるかと思いますが、そこに書かれていたお話しです。

建築現場の槌音
 越野さんというお婆さんがおられます。歳はすでに80をまわる高齢ですが、かくしゃくとしていてどんな仕事でもこなされる達者者です。いつもニコニコと微笑を忘れず、お孫さんから仏様のように優しいお婆ちゃん、と慕われている人なのです。
このお婆さんが、先日大変な交通事故に遭われました。車にはねられたのです。
お婆さんは何ヶ月も病院のベッドの上で暮らさねばならなくなりました。
その傷は随分と重く、高齢でもありもう二度と立てないのではないかと皆が心配していました。
 ある日の事、ベッドで包帯だらけになっているお婆さんに尋ねました。
『痛むでしょう』『はい』とお婆さんは笑って答えます。
『ズキン、ズキンと痛みます』『ずいぶん苦しいでしょうねえ』そういいますと、お婆さんは目を細めて『いいえ、苦しくはないですよ』と言われるのです。
不思議な事をおっしゃるものだ。痛みが苦しくないはずはないじゃないか。するとお婆さんは言われました。
『ズキン、ズキン、とするのは痛いけど、私にはそれが、建築現場の槌音のように感じるのです。ズキン、ズキン、と来るたびに私の壊れた身体が健康な身体へと生まれかえさせて頂いている。そう思うと、勿体なくて、手を合わせているのです。ですから、少しも苦しいとは思わないのです』おだやかに話されるお婆さんの目は優しく、まるで観音様のようでした。

いかがですか?普通なかなかこのようには考えられません。
まして交通事故などで自分に過失がないときなどはなおさらです。
もし、これが自分だったらどうでしょう。
『お前のせいでこんなに苦しい思いをさせられて』と相手を恨み、『何でこんな目にあわなアカンねん』『俺が一体何をしてん』と悲観し自分と周りの家族を傷つけ、般若の形相を呈しているかもしれません。

かたや観音さんで、かたや般若。これでは、自分だけでなく周りに与える影響もずいぶんと違ってきます。
同じ状況でも、現状をしっかり受け止め前向きに考える事で、こんなにも変わってくるのです。

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第7話 忘れられない患者さんたち その1 N君の事

 
   
どんな仕事であれ、出会った人の中には忘れられない人がいるものです。
私が学生で研修に行っている時の話しです。N君という小学校5年生の男の子がいました。
N君は鉗子分娩麻痺といって出産のときに受けた障害のため右手の肘から先が麻痺と萎縮の為動きません。
非回復性の障害ですが患肢の血行障害を良くする為に通っていました。

いつもは明るくいろいろな話をしてくれるN君が、段々無口になってきました。
そんなある日のこと、治療をしていた先輩に泣きながら激しく訴えています。
 『何で俺の手治れへんねん・・・。』先輩も君の手はもう治らないんだよとも言えず返答に困っていました。
どうやら、手のことでいじめに合っていたらしいのです。
先輩も私も、何とかこの時期を乗り切って強くなってくれるようにと祈るしかありません。
数日して治療を終えて帰る時、空いているベッドで枕相手に鍼の刺入練習をしている私を見つけて『何してるん?』と尋ねてきました。『鍼打つの下手やから枕で練習してるねん』と言う私にしばらく考えた後ニコッと笑って『今度これで練習しぃ』と自分の右腕を出したのです。 
自分自身が大変な時期なのにと思うと熱いものがこみ上げて来るのを覚えました。
医療従事者というのはこのような患者さんと出会うたびに、医療に携わるものとしての心構えなどを少しずつ勉強させてもらって行くのだと思います。

『初心忘れず』という言葉がありますが、私はこれを『初診忘れず』として、初めて患者さんを治療したときの申し訳ない気持ち、N君の優しい気持ち等を忘れないようしたいと思っています。

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第8話 ある看護婦さんの話し…入院経験から  
   

3年程前に扁桃腺の摘出手術で入院した時のお話しです。私が入院した病院は入院患者に担当の医師と看護婦さんがそれぞれ一人ずつ付きます。私の担当の看護婦さんはKさんといってその年看護婦になった新人さんでした。
これからの看護計画の説明を、顔を赤らめ緊張しながら一生懸命している姿がとても初々しく、可愛らしく思えました。若いというだけで可愛く思えてしまいますから、おっちゃんは困ったものです。

ロビーで本を読んでいたときの事です。他の看護婦さんに車イスに乗せられたお婆さんが連れてこられました。一言二言声車椅子の後ろから声を掛けられた後テレビを見せられていました。少し痴呆があるのか、焦点の定まらないうつろな眼差しをぼんやりとテレビの方に向けています。
ひざ掛けが落ちましたが、誰も声もかけません。そのお婆さんの回りだけ時間が止まっているように見えます。
そこに、Kさんが通りかかりすぐに走り寄ってきました。彼女はしゃがみこんでそれを拾い上げて膝に掛け直すと、そのままお婆さんの視線の高さで優しく話しかけています。
 すると今までうつろだったお婆さんの瞳がしっかりとKさんを見つめ返しました。 そしてKさんの話しかけに、しっかりとうなずいています。
心で話しをすると心で返事が返ってくるようです。
今度は二人のところだけが輝いている様に見えます。とても尊いものを見たような気がしました。

たまには、軽い病気で入院するのもいいものです。それまでの自分自身を見つめ直せますし、何よりも入院すると人間が本来持っている五感が鋭敏になります。
なんでもない石や木や花がとても輝いて見えたり、何気ない一言がとてもうれしく感じたりします。
それだけに、病人を見舞うときや医療関係者は、言葉には気をつけなければいけませんね。

このKさんとは,病棟の先輩が当院の患者さんであったこと等もあり退院後も鍼灸師会で看護の際の体位変換の仕方を講習してもらったりと,交流が続きました。
ある日のこと、仕事を終えて片付けをしていると,Kさんが病院の帰りに顔を出しました。
なにやらひどく落ち込んでいるようです。しばらくすると,こらえていたのか涙が次から次へと落ちてゆきます。

『忙しすぎて,思うような看護ができひんねん…。』『あれも、これもしてあげたいのに…。』
そう言ってはまた泣いています。
それを聞いていて自分が恥ずかしくなりました。自分はこれだけ患者さんのことを考えて治療しているだろうか?
自問しますが、首を横に振らざるをえません。
また、ひとつ忘れていた大事なものを、思い出させてくれたように思います。

このKさん、今はその病院を退職されてまもなく結婚されるそうです。
しばらくして落ち付いたらまた看護婦さんに復帰するそうです。

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第9話 『忘れられない患者さんたち その2 Fさんの事』  
   
阪神大震災のときのお話しです。
僕の友人に宝塚のFさんという人がいます。震災から1週間が経った頃彼から電話が入りました。
『やっとつながった!!生きとったか?大丈夫か?みんな無事か?何かいるものはないか?』
矢継ぎ早に聞いてきます。
電話の向こうから本当に心配してくれている心が見えます。
彼は、からだの不自由な姉と年老いた母を抱えていて、聞けば彼の家も全壊で母と姉と命からがら逃げて大阪の親類の所に避難しているそうです。
翌日トラックを借りる事にして、待ち合わせ場所の宝塚の小学校に行きました。
宝塚のこの地域は激震区で、ここも避難所になっていました。
『避難場所がどんなものか、どんな生活をしているか一度見ておく方が良いよ』と言われて校内に入りましたが、映像では決して伝わる事のない現実を目のあたりにして言葉がでません…。

校庭に戻って彼が乗ってきた車の中を見ると灯油が2本、ブルーシートがひとくくり、食パンが数本等の物資が乗っていました。
ここに来る途中、大阪市内で買ってきたそうです。
彼はこの数日、ここを中心に個人的に物資の寄付などを行っていると言う。
昨日も、取引先のガソリンスタンドの社長をここまで連れてきて、現状を見せて灯油を何とか手配してもらい数百リッター寄付したそうです。(当時は、これらのものが本当に手に入りませんでした)
勿論、自分の懐からです。

『この辺は、食料有り余ってるらしいわ、食べてるもん見たら俺らよりええもん食べてるで』 人懐っこい瞳がメガネの奥で笑っています。
彼は建設関係の仕事をしているので『今、仕事忙しいのと違うの?』と聞くと、今までに見せた事にないような険しい表情で『この平成の世の中で何十万の人間が路頭に迷っているのに仕事してる場合か!』と語気を荒げました。
返す言葉がなくて、せめて何かおいしいものでもお母さんやお姉さんに食べてもらおうと思い、『何かいるものある?』と聞くと『そやなぁ、消毒薬とか湿布とか有ったらスポーツセンターの方へ持って行って婦長さんに渡して。あそこもぎょうさん避難してる人が居るから』 『‥…。』
もう、自分が恥ずかしくて顔を上げられませんでした。

また、こんなこともありました。
まだ、AIDSという病気が出始めた頃の話しです。
血液製剤で感染した患者さんが、医師を初め医療側の認識不足から診療拒否に合い、適切な医療を受けられないと言う事がテレビで報道されていました。
それを見ていた彼は『何でやねん、それを治すのが医者やろ!』
彼の怒りは止まりません。
『厚生省は何しとんねん!そんな病院があったら俺が話しをしに行ったる!!』
と、真剣に怒っています。最後には、
『誰も好き好んでそんな病気になったんとちゃうやん』
と、涙ぐんでいました。

勿論、身近な人に感染した人がいるわけでも、何かの宗教に入って修行しているわけでもありません。
ましてや、聖人君子なわけもなく、普段は単なるスケベなおっさんです。
でも、本当に心根の優しい人です。
僕にとっては、無くせない大事な友人の一人です。


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第10話 西洋医学と東洋医学

 
   

先日、ある大きな病院の整形外科の部長先生と話す機会がありました。
『最近医師会と柔整はよくもめてるみたいやな』
『何かそう見たいですね』
『ここみたいな病院はあまり関係ないけど、開業医の先生達と上手く行ってない見たいやな』
『そうなんですよ、本当は、もっと提携して指導もして頂きたいのですが、なかなかうまい事行かないようですね』

このように、最近毎日新聞の報道や日本整形外科医会の医師からの柔整パッシングがよくあります。
(特に、兵庫県は他府県に比べてその傾向が強いようです)
皆さんの中にも、かかりつけの整形の先生から『柔整や鍼灸なんかに行ったらアカン』と怒られた経験をお持ちの方も少なからず居られると思います。

その毎日新聞の報道とは概ね下記のようです。

  1. 柔整(整骨院)で治療を受けて悪化したケースがある。
  2. 判断(診断)ミスにより適切な治療を受ける機会を逸し、(ガンなどが)手遅れになる様なケースがある。

今回指摘されたことを我々鍼灸柔整師は、真摯に受け止め反省すべき点は反省し患者さんに迷惑を掛けないように日々切磋琢磨しなければなりません。

しかし、これらの医療ミスが医師には皆無の事なのでしょうか

 

或る脳外科医のお話し

交通事故にあった当院の患者さんを通じて或る脳外科の先生とお話しする機会がありました。
この先生は、専門の脳外の手術や診療の他にご自身でもA.K.Aと言う骨盤を調整する手技療法も行っておられます。
医療に付いて色々お話しする中で、
『今度、術後の患者さん等で機能回復に鍼治療を希望される患者さんが居られたら紹介しますから、お願いします』と言われます。
『先生、外科系の先生でそのようにおっしゃっていただけるのは珍しいですね』
『僕は、患者さんが楽になることであれば、何でもしたらいいと思うし何でもしてあげたいと思う』と、静かに話されるその眼はとても優しくそして温かく感じられました。

話していて、もし日本のお医者さんの三分の一がこの先生のような方だったら日本の医療は大きく変わるだろうなと思いました。

 

或る病院のお話し

当院の患者さんの友人が交通事故で入院されました。
これといった治療もなく安静のみの入院生活が約1ヶ月になり、入院当初から訴えている右肩の痛みも『気のせいだ』と言われ全く取り合ってくれなかったそうです。
そこで退院することになり、担当医に当院に紹介状を書いてくれるように頼むと『医師には書くが柔整には書けない』と怒られたそうです。
結局、その方はそのまま来院されたのですが、診てみますと右肩の肩鎖関節の脱臼があり鎖骨が階段状に浮いています。
受傷から少し時間が経っていますが外科的療法の可能性も考えられたので病院を紹介しました。

 

或る整形外科のお話し

当院の患者さんが交通事故にあいました。
すぐに近くの整形外科で診てもらいその後も通院しておられたのですが、腰痛を訴えても診てもらえず経過も芳しくなかったので当院にも通院するようになりました。
数日して、そのことをその先生にお話しすると烈火のごとく怒り出し、先ほどの毎日新聞のコピーを持ってきて『こんなことになったらどうするんや!』
『国が柔整を認めているのがおかしい』
『ここか、そっちかどちらかに決めなさい』
『柔整にも通院するのであれば後々の後遺障害などの書類は一切書かない!』
などと言われたそうです。
私自身、その先生ともコミュニケーションをとっていたつもりでしたが理解されず残念です。

 

或る病院の整形外科のお話し

時を同じくしてもう一人交通事故の患者さんが来院されました。
こちらは、入院されていた病院の担当医の先生から私宛の紹介状を持ってこられました。
事故当初の急性症状も消失し退院にあたり、当院を受診したいことを告げると、ここではもうすることがないから希望されるのであればと快諾してくれたそうです。

 

医学に東西の違いがあっても、一人の患者さんを診るという医療には、東西の違いなどありません。
まして、患者さんにしてみれば楽になれば良いわけですから。
保存療法の場合、急性期は別としてお薬や注射などの投薬と傷めた筋肉や靭帯の軟部組織に対する直接的アプローチを併用した方が早く治ります。

私たち鍼灸師、柔整師は医療という大きなカテゴリーの中のそれこそ鍼で突いたような部分を担う訳ですが、その鍼で突いた部分においては常にプロでありたいと思います。
今回メディアから指摘されたような事は肝に銘じ、患者さんに迷惑を掛けないよう努力しなければなりません。
しかし、その為にも医師の指導協力は不可欠になります。
私たちの適応範囲以外のものには直ぐに医師に対応して頂かないといけませんし、
また、適応疾患であっても、今現在なんら検査手段を持たない鍼灸柔整が医療事故を起こさない為には医師との提携及びネットワークが必要不可欠となります。

以前の事ですが、生活保護を受けられている方が鍼治療を希望され来院されました。
生活保護法では鍼治療を受けるのには、医療先行(先に病院で治療をする事)と医師の同意書が必要となります。
そこで、私は懇意にしている近隣の医師に同意書の発行を依頼する為にその患者さんを紹介しましたが、鍼灸柔整に対し医師会で容易に同意書は書かないという取り決めがあるので、君のしている事は(治療内容)はわかっているが、私個人が書くことはできないと断られました。
当然抗議しましたがやはり書いてもらうことができず、結局治療を行う事ができませんでした。

行政による措置制度も医療保険(健康保険)も自賠責保険(交通事故の保険)も資格者の為の物であってはならないと思います。
患者さんが安心して受けたい治療を受けれなければなりません。
その為には我々鍼灸師、柔整師の医療レベル(学術、技術)の向上も当然ながら問われてくることを業界としても考えていかなくてはいけません。

追記

私の所属する『全国柔整鍼灸協同組合』では現在骨折の同意や検査が必要な場合に患者さんを紹介できる保険医療機関として『徳州会病院』『燦恵会・首藤病院』など協力病院があり今後順次全国に協力病院及び医師とのネットワークを拡大していく方針です。

『燦恵会・首藤病院』整形外科・外科・内科

〒533−0005 大阪市福島区野田5−18−16

電話06−6461−1537(代)

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第11話 『忘れられない患者さん達 ひろ君のこと』

 
   

受付のカウンターに男の子が運動会で走っている写真と会心の笑顔で跳び箱を飛んでいる写真があります。
今日はひろ君のお話をしましょうか。

ひろ君が来院したのは彼が4歳の時でした。
赤ちゃんの時、夜お父さんが布団の上から誤ってひろ君の足を踏んでしまったのです。
その時は泣いただけだったのですが、靴を履くと右側の足だけ靴が脱げてしまうようになりました。
お父さんと、お母さんはあっちの病院、こっちの病院と走り回りました。
4軒目でやっと『腓骨神経麻痺』との診断がでます。
それからというものは、良いお医者さんを探す為に大きな病院を西に東にそれこそ東奔西走の毎日が始まりました。
行くところ行くところであらゆる検査をし、診断が出ると尖足位(足首が麻痺の為に垂れ下がっている状態)を防ぐ為にブレイス(装具)を付けその成長に合わせてサイズを変えて様子を見るという状態が続きました。

ひろ君の住んでいる所は大阪の北の端、タレントの島田紳助さんが住んでいたことでも
有名な能勢町です。
元々はこの近くに住まれていたのですが、子供さんの環境を考えられて空気のいい所に移られたのでした。

人の縁には不思議な力があるようです。
どんなに遠く離れていても出会うときは出会うようです。
ひろ君の向かい家のY君がたまたま当院の患者さんで、オートバイ事故で大怪我を負い手術後同じように『腓骨神経麻痺』でブレイス(装具)を付けることになりました。
退院後、当院に通院することになったのですが約半年で完治しました。

それを見たお母さんは、直ぐにひろ君を連れて飛んで来られました。
聞けば、当院で14番目の医療機関になるそうです。
ベットに座ったひろ君は、無理やり連れて来られたのか『またか』と云う表情で半分ふてくされて横を向いています。
お母さんは弟の4ヶ月の、なお君を抱きながらすがるような視線をこちらに向けています。
『足動かしてみて』
ひろ君は、この時間が早く過ぎることを願っているかのように無言のまま、投げやりに垂れ下がった足を動かします。
ピクピクと瞬間的ですがほんの少し上に動きます。
前述のY君は外傷性で全く動かない状態でしたから回復が危ぶまれましたが、
少しでも動くということは、神経はつながっているということですから、
早い回復が期待できそうです。
『多分、治ってくると思いますよ』
お母さんの顔が見る見る紅潮していくのがわかります。

その日から、ひろ君、お母さん、なお君の3人4脚、いえいえ、お父さんやおばあちゃん、おばちゃん、など家族全員の力を合わせた通院が始まりました。
ひろ君の自宅からここまでは車が混んでいると2時間ぐらいかかることもありますから、大変です。
まして、乳飲み子を抱えていますから、なおのことです。

鍼治療を中心に進めていったのですが、それまでよほど痛い検査などを経験してきたのか、細い鍼くらいでは、何ともないようです。
それがとても健気に思えました。
『効け!』と命じて鍼を打ちます。

治療開始から2週間程経過した時でした。
『せんせー!』ひろ君です。
『先生見てください!』お母さんも少し興奮されています。
足を動かさせると『グン』と瞬間的ですが大きく上がります。
ひろ君も今度はこちらをしっかりと向いて、頬を赤らめながら一生懸命足に力を入れています。
『先生、まだ2週間ぐらいですよね、嘘みたい…。』お母さん、ちょっと涙目になっています。

しかし、このまま順調に行ったか言うと、やはりそんなに簡単には行きません。
どうしても、何の変化も無い停滞期がありますし、ひろ君の心の状態も微妙に影響してきます。

運動会
ひろ君の運動会がありました。
足は少し動くようになってきましたが、まだブレイスが離せません。
かけっこに出ましたが当然ビリです。
どうせビリならと、カタカタ、ロボットのようにちょけ(ふざけ)ながら最後までゴールしました。
子供の明るさに、力強さに周りの者は救われます。

この時期になってくると、障害のある子は子供同士の中でできる事とできない事がはっきりしてきます。
まして、田舎でみんな外に出て走り回っていますから余計です。
そんな中でひろ君は、段々自信が無くなってきたようです。
治療にも悲観的になってきました。

そこで、お母さんと相談し当面の目標を、歩く、走ることから自転車に乗ることに変えました。
自転車に乗れれば、他の子には負けません。
片足でも、踏み込めるようにエクササイズも変えました。
お母さんも堺市にある自転車教室まで連れて行きました。
始めはうまい事行かなかったみたいですが、乗れるようになると本人も自信ができたみたいで、心成しか少しおにいちゃんになったように見えます。

2回目の運動会
ひろ君が通院しだしてから2回目の運動会がやってきました。
この頃ではブレイスも取れ日常生活には、ほぼ支障が無いようになりました。
しかし、まだ持続的な運動では筋疲労が出て足が下がってきます。
今回は僕もひろ君の応援に行くことになりました。
自分で治療内容を振り返って見ます。
これもした、あれもできる。よしだいじょうぶ!

そんな自信がいきなり一番初めの『ひよこ体操』で崩れていきます。
片足で立てないのです・…。
悪い方の足で立つと直ぐにバランスを崩して足を着いてしまいます。
ひろ君は怪我をしてから直ぐにブレイスを付けていましたから、付けなくなっても歩行のバランスがとても悪く、よくこけたりしていました。
足の機能回復と同時にこの歩行バランスを良くする事を主体に治療してきましたから、
片足で立位を保持することが抜けていました。
できない原因として、保持する筋力の低下とバランスの悪さなどが考えられます。
自分の顔からサーッと血の気が引くのがわかります。

しかし、ひろ君にはもっと重大な問題が起こっていました。
跳び箱がどうしても飛べないのです。
昨日も最後まで練習をしたそうですが、結局飛べませんでした。
跳び箱の競技のため入場門の後ろで並んで座っている、ひろ君を応援に行くと、
膝を抱えて地面に『の』の字を書いています。
すっかり、自信をなくしていじけています。
『なんや、跳び箱飛ばれへんねんて?』
『・・・…。』
『思いっきり両足で踏み込んで飛ぶんやで。』
『怪我してもまた治したるからな』
『うん…。』

跳び箱の横には怪我を防止する為にサポートの先生が付きます。
踏み込みの時バランスを崩す可能性がある事を告げ応援席にもどりました。
いよいよ、ひろ君の番です。
見ているこちらの心臓も高鳴ります。
合図と共に5〜6人が一斉に跳び箱に向かって走っていきます。
(どうか、飛べますように!)

ひろ君、見事に成功です。
両手を広げて着地のポーズを決めています。

昼食に帰って来たひろ君は、ついさっき『の』の字を書いていた子とは別人のように元気におにぎりを頬張っていました。

涙でファインダーが見えない・・・。
午後からは、メインのかけっこが始まります。
お父さん、お母さんも、パパラッチ、ママラッチの準備万端です。
いよいよ、かけっこ ひろ君の番です。
靴もこの日の為にお母さんが走り回って探してきた、ナイキの軽いシューズです。

ひろ君も走る気満々です。
去年のちょけでも、さっきまで『の』の字を書いていた、ひろ君ではありません。
まるで今にも走り出しそうな蒸気機関車のようです。

『よーい』『ドン!』『バーン』と続けて2回鳴りました。
ひろ君、勢い余ってフライングです。
見ているこちらの心臓も飛び出しそうになります。
『よーい』『ドン!』
今度は慎重になりすぎたのか少し出遅れました。
4番手くらいから一人二人と抜かしていきます。
ひろ君2番手を快走しています。
足もしっかり上がっています。
(足よ、ゴールまでもってくれ!)
(どうか、こけませんように!)
みんなの祈りが通じたのか、ひろ君2位でゴールしました。
順位は2位でも僕たちにとって見れば立派な一等賞です!
『ちゃんと撮れたかなぁ…。』『涙でファインダーが見えんかった…。』
お母さん、また涙目です。

現在は半年か1年に1回経過を診る程度で元気に片道4キロの小学校に通っています。

携帯に留守電が入っていました。
『せんせー、ひろです。運動会で一番になったよ、ありがと!』

最後に
くれぐれも誤解しないで下さいね。
決して僕が自慢しているのでもなんでもないのです。
同業の先生なら分かるのですが、末梢性の神経麻痺は鍼治療によく反応するのです。
言い換えれば僕でなくても同じ結果が或いはもっと早く治っていたかも知れません。
鍼治療でなくても、もし今まで診たお医者さんが診断と同時に理学療法をしていてくれたら、もっと早く治っていたと思います。
また、お母さんも大きな病院にこだわらず、よく僕たちの門を叩いてくれたものです。

一人の患者さんを西洋医学と東洋医学両方の立場からアプローチできるように、
我々は努力しなければなりません。

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第12話『忘れられない教師達』

 
   

今年も卒業の季節になってきました。
この時期になると数人の心に残る教師達を思い出します。

小学校の担任のI先生。
I先生は、『将来いかなる職業に就こうとも、学問と芸術を愛する人になれ!』と教えてくれました。
探究心を持ち続けることと美しい物を美しいと思える心をいつまでも忘れないようにしたいと思います。
そうそう、この先生には教室の横のトイレを徹底的に掃除させられました。
『I学級の横のトイレだけは学校中で一番キレイにするねんぞ!』って。
初めは、『罰』のようでイヤイヤしていましたけど、だんだんキレイになってくるトイレにうれしくなったのを覚えています。
先生がトイレ掃除を通じて本当に伝えたかったことが、最近にしてやっとわかったような気がします。
どんくさい生徒でごめんなさい。

中学の学年主任のN先生。
受験を控えた11月に突然の大病に入院生活を余儀なくされました。
受験に加えいつ治るともわからない病気に苛立ちは隠せません。
しかも、担任の教師は見舞いにくるどころかスキーに行ったりして連絡ひとつありません。
そんな中で何回も見舞いに来てくれ勉強も見ていただいたのがN先生でした。
この時、何処で聞いてきたのか前出の小学校のI先生も駆けつけてくれましたね。
涙が出そうなくらい、うれしかったのを覚えています。
おかげさまで何とか乗り切ることができました。

N先生は卒後も心配して時々自宅まで訪ねてくださいました。
開業してからでもご自身も糖尿病が悪化しているにもかかわらず訊ねてくださいましたね。

先生、ご心配かけましたが何とか自分なりですが一生懸命やっております。
本当に本当に御世話になりました。ありがとうございました。 合掌…。

高校の学年主任のS先生
S先生は、入学時クラスに挨拶に来られたときに
『この学校に来たいと思って入学した人は手を挙げて下さい』と私たち生徒に聞かれました。
この学校は私立で当時の位置付けは『公立の滑り止め』という感じでしたから、
挫折して不本意に入学した者が多く挙手したのは私だけでした。
先生はそれでもにこやかに『そうか、ひとりだけか・・。いいか、今はひとりだけやけど
3年後卒業する時にはここにいる全員が、この学校に入学して良かったと思うからな。
この学校はそんな学校やから』
そして、
『この3年間にどれだけ良い影響を与えられるかが、私たちの仕事だ』と言われていました。
後で聞いた話によると酒を呑んでも常に生徒のことを話されていたそうです。
おかげさまで、卒業式のとき万歳して担任を胴上げしたいくらいうれしかったですよ。
(恥ずかしくて出来なかったけど)
(※S先生、現在はこの学校の校長先生になられています。)

担任のH先生
僕たちのクラスはよく問題を起こしました。
当時、H先生は35歳くらいだったのでしょうか。
この学校は3年間持ち上がりで入学から卒業まで、今思えば毎日のように誰かが問題を起こすクラスに職員室でも随分肩身の狭い思いもされたことでしょう。
ある日のこと。
H先生は問題を起こした私たち生徒を立たせ『俺はこの仕事に命賭けとんじゃぁ!』とひとりひとり泣きながら平手で殴りました。
そこには自分自身への保身などは微塵も感じられません。
勿論、誰ひとりとして口ごたえひとつしません。
打たれた頬の痛みより先生の心の痛みのほうが強いのがわかりました。

ちょっと、『飛び出せ青春!』のようですが・…。
両先生には男の仕事の取り組み方を教えていただきました。

体育のO先生
この頃の体育の先生はどの先生もこわかったです・・・。
野球部顧問のM先生などは生徒から『ヤクザ』の異名をもらっていましたから・・。
当時O先生のご自宅マンションは私の家のすぐ近くでした。
ある日曜日、事もあろうにそのマンションの中庭で友人とバイクに乗って遊んでいました。
マンションの敷地内といえどもりっぱな無免許運転です。
(別に威張ることではないですが・・。)
翌週の体育の時間。出欠を取った後だったと思います。
『この間の日曜日なぁー、外でバイクがうるさくてなぁー、見たらアホな高校生がのっとるねん』
私のほうを『チラッ』と見て軽く笑いました。
(しまった。見られとった。後で呼び出されてしばかれるー)と思いましたが、結局おとがめなしでした。
おかげさまで、あれから卒業まで乗らなかったから、事故を起こして他人も自分も傷つけずに済みました。
(※O先生、現在は教頭先生になられています)

数学のT先生
スキー合宿でのこと。
雪に閉ざされた部屋で男子校の生徒がすることといったら、そう、『飲酒』です。
みんな、呑まれへんくせに家からミニボトルなんか持ってきて、窓を開けてグラスに雪を入れて呑んでいました。
そんな時見回りに先生が入ってくるのがわかりました。
あわてて、電気を消して寝た振りをしましたが、匂いでわかったはずです。
薄明かりの下で見たT先生は、ニヤーと笑いながら『ハヨ寝ーよ!』と出て行かれました。
(やばいで、ハヨ寝よ)とすぐに寝たのを覚えています。
厳しいだけでなく思いやりのある指導のおかげで楽しい思い出が出来ました。

歴史のN先生
卒業式を控えて最後の授業だったと思います。
教室に入ってこられた先生は私たちに1枚のコピーを配りました。
そこには軍歌『戦友』の歌詞が書いてありました。
みんなに行き渡ったのを確認すると、ゆっくりとゆっくりとひとりひとりの顔を見ながら大きな太い声で歌いだしました。
『ここは お国の何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の 石の下 思えば悲し 昨日まで 真先かけて 突進し 敵を散々懲らしたる 勇士はここに 眠れるか…』

歌い終わると
『諸君!卒業おめでとう。この歌詞に書いてある意味をそれぞれがもう一度よく考えてみてください』とだけ言って教室を出ていかれました。

最高の歴史の授業をありがとうございました。
おかげさまで、戦争について少し落ち着いて考えられます。

当院の患者さんの中にも、毎年卒業され上の学校に進まれたり就職されたりする方が居られます。

これからの人生において、どうか

良い本に出会ってください。
良い映画に出会ってください。
良い歌に出会ってください。

そして良い人達にめぐり逢ってください。


 

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診療よもやま話 第13話 『忘れられない患者さん達 健太郎君のこと』

 
   


悲しい電話
平成17年6月4日(土) 診療中に1本の電話が鳴りました。
診療よもやま話 第11話 『忘れられない患者さん達 ひろ君のこと』で登場したY君のお母さんからでした。
『先生・・・、健太郎が・・・。』
『どうしました?』
『また、事故で・・・。』
『もう、だめなんです・・。脳死の状態で・・・。』
『そんな・・。』言葉が続きません。
飲酒運転でした。
魔が差したとでもいうのでしょうか。
家の近くで友人達と呑んだ後、原付を運転していて、止めてあった自転車に引っかかって転倒しました。
スピードは出てなかったのですが、転倒した際の打ち所が悪かったようです。
『せっかく、先生に治してもらったのに・・。あのときが10年前で17歳でした。
『一度来てやって下さい』
とても、とても悲しい電話でした。

彼の名前は、『健太郎君』といいます。
シャイでとっても優しい好青年でした。
最後に来院したときに、『結婚はもうそろそろか?』って聞いたら
『えぇ、まぁ・・・。』照れながらはにかんだ姿が思い出されます。
診療後、病院のICUに駆けつけました。
ベッドの上で人工呼吸器やたくさんの管につながれていました。
ベッドの傍らには、お母さんそしてフィアンセの彼女、兄弟の方たちが見守っています。
『健太郎、こんなところで何してんねん!』
悔しくて、悲しくてその後の言葉が出ません・・・。
『先生に治してもらった足は全然どないもないのに・・・。
他に大きな傷もないんですよ。でも頭がね・・。』
愛おしそうに左足を擦りながら『健ちゃん、先生が来てくれたよ』
お母さんが彼に話しかけます。
『脳死』は残酷です。
手を握りました。顔をさすりました。
みんな、温かいんです。
『脳死』は人の死です。
『脳死』になるとやがて脳は液化壊死を起こし心臓死に至る・・・。
そんなことは、わかっています。
でも、彼は生きています。生きようと一生懸命がんばっています。
彼の心臓は時々落ちそうになりながらも懸命に生きるための鼓動を繰り返しています。
お母さんたちにも、僕にも到底受け入れることの出来ない現実がそこにありました。
『健太郎の健は健康の健やからな、早く元気になって戻って来いよ』と声をかけました。
『そう、健康の健にやんちゃ太郎の太郎』とお母さん。
ICUの外の待合室でお母さんと話しをしました。
『私には3人子供がいてね、全部自分が産んだ子供たちやから誰がかわいいということもなく皆かわいいんです。
でもね、あの子はちっちゃい時から親に心配ばかりかけてね・・・。
バイク乗って大怪我したり・・・。
だから、だから・・・・。』
しばらく、二人で下を向いていました。
言葉にならない想いのあと、お母さんは、凛とした目でしっかりと前を向いて言いました。
『でもね、先生はダメやって言うたけど、私は良くなると信じています』
『だから、出来る限りのことをしてあげたい・・。』
『そうやんな、ここの先生は優秀やけど、たとえ世界中の100人の名医がダメって
言うたって僕たちは信じような。僕らが信じたらんと、健太郎、がんばれられへんもんな』

翌日もお見舞いに行きました。
お母さんが僕の顔を見るなりうれしそうに駆け寄ってきました。
『昨日の晩から昇圧剤減らしても血圧が安定してるんです!』
とてもうれしそうでした。

それから数日してお母さんから健太郎君が亡くなったと連絡を受けました。
その声はとても落ち着いているように聞こえました。
『脳死は残酷だ』と書きました。
でも、もしかしたらそれは大事な人との別れに、必要な心の準備の為に
神様が特別に用意してくれた大切な、大切な時間なのかもしれません。

『健太郎、ごめんな。墓参りに行くって約束したのに、まだ行けてへんねん。
こうやって、書いててもまだ涙が出てくる。
もうちょっとしたら、旨いビールと煙草持って行くからな。』

この年は、彼ともう一人当院の患者さんが不慮の事故で亡くなられました。
薬剤師の『Yさん』は、知的でショートヘアーの似合う素敵な奥さんでした。
お二人のご冥福を心よりお祈りいたします。
合掌・・・。


追記 2010/10/13
天国の健太郎へ
昨日な、なおくん見せに来てくれたで
抱っこもさせてもらった
かっわいいなぁ〜〜〜〜^^“!
君もおじさんになってんな。
まだ、3ヶ月やのにしっかりした顔のおっとこまえや。

男の子やからこれからが楽しみやで
今、ウチのチビも小学校の2年生になって、一緒に登山したり、サッカーしたり、サイクリングしたり、バイクも一緒に乗るねんで
いっちょまえにラブレターなんぞももらったりして
おもろいで

また、君に会えた気がした。
ありがとう。

って、隆くんの奥さんに言うたら『健ちゃんみたいになったら困ります!』って言われたよ!^^”!
君の甥っ子やからな、もしバイク乗るようなことがあったら守ったってな!
頼んだで!

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診療よもやま話 第14話 『医者より勇気付けられた社長の言葉』

 
   


先日、ある親しい患者さんが亡くなりました
1年間の闘病の末に力尽きました
余命を宣告された治ることのない病でしたが、本人にはそのことは告知していなかったので治って仕事に復帰するつもりでがんばっていました
今の医療は治る見込みがなくなると
薬など使うことができなくなると
今まで、命を預けてともにがんばってきた先生から
もう何も出来ることがないので帰ってくださいと見放されます
少なくとも患者やその家族はそう感じます
ターミナルケアは別の場所でということになるようです

入院中のまだ元気な時に、勤務先の社長さんが見舞いにこられました
二代目でまだ、若い社長さんですが、『○○さんさえ良ければ何年掛かってもいいからゆっくりしっかり治していつでも会社に戻ってきてください。いつまででも帰ってくるのを待っています』
と、おっしゃったそうです
その言葉にどれだけ勇気づけられ希望をもってその後の治療に専念できたか
ありがたかったと後日、奥さんが話されていました

病人にはいくつかの悲しみ、苦しみがあると思います
1、自分の病が治る見込みがないこと
2、お金がないこと
3、心配してくれる人が誰もいないこと
4、自分を必要にされなくなること

少なくとも彼は、一番目の苦しみ以外は背負わずにすんだのではないか
いや、治らないことを聞かされていなかったので何の苦しみも背負わなくて静かに逝ったのではないでしょうか。

余命告知の問題は色々あると思いますが
長年連れ添った連れ合いが一番性格などを理解しているでしょうから
その方が決めたことが一番正しいのです
ご冥福をお祈りいたします
合掌。

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診療よもやま話 第15話 『痛みの自己コントロールの仕方』

 
   


ダイエットブログで潜在意識のことに少し触れたので
今日は、痛い・辛い痛みの自己コントロールの仕方についてお話しましょうか。
痛い痛い腰痛・神経痛など痛みを訴えるケガなどは大変辛いものですね
この痛い辛い痛みも考え方を少し変えるだけでずいぶんと楽になることもあります
もちろん、考え方を変えるだけで痛みの原因物質であるプロスタグランチンの産生が減るわけではないですが
同じ痛みでも考え方を変えるだけで身体が受けるストレスは全く変わってきます

例えば、腰痛などの場合でも
『今日はここが、すごく痛い』『今日はここが痛くて何も出来ない』『今日は歩くこともできひん』と
毎日出来ないこと,辛いことばかりを訴える患者さんがいます
痛いところを治しに来ているのですから当然のことで、その痛みをすぐに取ってあげれない私の技術に一番問題があるのでしょうが・・・。
痛みには、その人のライフスタイルなどの影響もあり痛みが取れるのにどうしても時間がかかることもあります
大変痛くて辛いその状態ですが

よく考えてみてください
あなたの身体は出来る限りの力を出してその辛い痛みを取ろうとがんばっているのです
あなたの潜在意識はあなたを痛みの無い世界に戻そうと全力でがんばっています
しかし、そのあなたが毎日出来ない否定的なことばかり口にして考えていたらどうなると思いますか?
潜在意識は良いも悪いも判断できません
あなたが望んだことをかなえようと、全力でがんばります
あなたが、否定的なこと出来ないことを考え、口にすればするほど、それを望むこととして、かなえようとがんばってしまいます

そこで、少し立ち止まって考えてみてください
その痛みは、全く変わっていませんか?

あなたの潜在意識が全力であなたの自然治癒力を総動員して治療に当たっているのです
今のあなたは潜在意識という医長の下優秀な各科の医師たちがしかもICUで全総力をあげて治療している状態です
今のその本当に辛い痛みの中で何か出来るようになったことは無いですか?

そうなんです
出来ないことばかりに焦点を合わせるでなく出来るようになったことに着目してそれを褒めてあげることによって
潜在意識はもっともっと喜んでもらおうとがんばるのです
潜在意識も子どもと同じように褒めて育てなければいけないといわれています
同じ痛みでも
『この間まで立ち上がるのも痛かったけど、歩くのは少しましかな』とか
『まだ、寝返りは痛くて痛くて目が覚めるけど、夜は少し寝れるようになったな』とか

少し、出来ることに集中してそれをがんばった身体に感謝してあげることによって
痛みの感受性も変わってきます

『飛鳥へまだ見ぬ子へ』という井村和清さんという亡くなられた医師が書かれた本がありました
何回か映画にもなったから覚えている方もおられるかと思いますが
その中で『横内いとの』さんだったかお名前は失念しましたが、交通事故で怪我をされたおばあちゃんの話しがあります
事故の怪我で動けない状態ですが、井村先生が『痛いでしょう?』と尋ねたら『はい、ずきんずきんと痛みます』と答えられました
先生は『辛いでしょうね』と声を掛けると『いいえ、ずきんずきんと痛みますが、私にはそれが工事現場の槌音のように聞こえて、まるで私の身体を治してくれているようで、もったいなくて手を合わせています』と答えられたそうです

いかがです?
同じように考えられる人は少ないと思いますが、考え方を少しでも近づける努力は誰にでもできます
同じことでも考えかたを少し変えることで身体が受けるストレスも変わりますし
周りに与える影響も変わってきます

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診療よもやま話 第16話 『受け入れがたい出来事に遭遇したときの対処法について』

 
   


今日は『受け入れがたい出来事に遭遇したときの対処法』についてお話したいと思います
もちろん、受け入れ難いことですから、その全ての事例に当てはまるわけではないですが、考え方の一つとして気楽に読んでいただければと思います

故赤塚不二夫さんの葬儀でタモリさんが読まれた弔辞を紹介したいと思います。
『全ての出来事存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れる
それによって、人間は重苦しい影の世界から解放され軽やかになり
また、時間は前後関係を絶ち放たれて
その時その場が異様に明るく感じられます
すなわち
これでいいのだ!』

これは、起こってしまったことは仕方が無いからあきらめろと言っているのではありません。

アメリカのディール・カーネーギーも著書で
もし、心配事があるなら
それにより起こりえる最悪の事態を想定しなさい
そしてそれが想定出来たらそれを受け入れる覚悟を決めなさい
あとは、そうならないように出来る限り、考えれる限りの手立てを考えなさい
と述べています

また、今ある状態は、とても辛い状態だけれどもこれは何かを始めるための準備期間とも考えられます
よく、この様な状況に立たされると『どうしょう』『どうしょうと』と口にする人が居られます

『言葉』は『言霊』です
『言葉』にはとてつもない強大な力があります
あなたの脳は、あなたの口から出た言葉にいつも返事をしていることに気がついていますか?
朝起きたときに、『朝、何飲もうかな?コーヒーにしようかな』という独り言に対して
(昨日、飲みすぎたから胃に優しい牛乳にしたら)とか
『何を着て行こうかな』と服を選ぶときでも
(この間買った黒のジャケット似合ってたからあれにしたら?)と。

常にあなたの独り言に対して脳は返事をくれています
そして、その潜在意識はそうなるようにあなたを導こうとしています

しかし、『どうしょう』という独り言には『どうしよう』しか返ってこないのです
やがて、『どうしよう』のこだまの森に心が連れて行かれてしまって
自分でも一体何が問題で何が不安なのかさえ、わからなくなってしまいます
折角、あなたの脳はあなたの独り言に対して一生懸命『返事』をしてくれるのですから
どうせなら、良い返事の返ってくる『独り言』つぶやきましょう
『どうしょう』の代わりに『どうしたらいい?』『こんなときどうしたらいい?』
脳は直ぐに『○○に相談したら?』とか『あの人に聞いてみたら?』などと返事をくれ
潜在意識はあなたを解決に導こうとします
なぜなら、それをあなたが望んだからなのです
潜在意識は前回にも書いたように良いも悪いも判断できません
あなたが、どうしよう・どうしょうと迷いたいと望めば、心を迷いの森に連れて行きます
あなたが、ここから出たいと望めば、扉を開けて明るい道を案内してくれます

前回・今回と脳と身体の関係・独り言のサイクルと潜在意識についてお話しましたが
これは、ミウラ式ダイエットの基本にもなっています

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診療よもやま話 第17話 『切ないこと・・・。』

 
   


切ないこと・・・。


この仕事をしていると、出会いと共に別れがあります
その別れには切ない別れもあります
ある患者さんが亡くなられました
長いお付き合いの患者さんでした
癌の末期でしたから難しかったけれども一生懸命生きようとされていました。
急変して入院される前に治療に来られたときに
『もう一度元気になりたいわー』
『もう一度だけでいいから元気になりたい・・・。』とおっしゃっていました。

『元気になられたら何がしたいですか?』と尋ねると
『もう一度、プールで泳ぎたい』それと、
『主人と旅行に行きたい。いままでたくさん連れて行ってもらったけど、もう一度主人と旅行に行きたい』
と答えられました。
二つとも叶いませんでしたが、御霊は元気な頃のようにプールで泳いで、エアロビをして
ご主人の行かれるところに一緒に行かれることと思います。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
合掌。

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