お 釈 迦 様 一 代 記

霊夢
ある夜、御母君摩耶(まや)夫人は寶塔(ほうとう)の中より光明現れ、六牙(ろくげ)の白象に乗られた佛さまが胎内に宿り給ふ霊夢(ゆめ)をみられました。この事を婆羅門僧(バラモンそう)に夢判断せしめられると、尊き太子の御入胎の豫感(よかん)であるということでした。果たせるかな、それ以来、御夫人はご懐妊になられました。

太子誕生
只今より、約三千年程前の四月八日藍毘尼園(ルンビニー)にて御散歩中、摩耶夫人が無優樹(あしょうか)の枝を手折らんとせられた時、太子が御降誕(こうたん)せられました。天地に響く産聲(うぶごえ)は『天上天下唯我獨尊』と聞こえ、忽まち一天かき曇り驟雨(しゅう)一時に降り注ぎ太子の神聖なる天来の産湯となりました。  {この4月8日の降誕会を花祭りとして祝う}

悉達太子
御歳16才にして太子王位を継(つ)がせ給ひ、御名を悉達(シッタ)太子と申し上げ、學道に精進せられ阿私太(アシダ)仙人に就いて學び給ふ。御父君淨飯(じょうぼん)王は太子の厭世的傾向を案ぜられ慈愛撫育到らざる所はなかった。かくて17才の時、耶輸陀羅(ヤショウダラ)姫を納(イ)れて妃とせられ1子羅怙羅(ラゴラ)を擧げられました。

出家
太子は或るとき、東門を出遊して老人を、南門にては病者を、西門を出ては死人を見られ、人生の無常を痛感し、また北門に出遊して出家沙門(シャモン)を見るに及んで愈々(いよいよ)出家得達の大決意を起こし給ひて、19才の時、妻子に對する愛着を絶ち、夜半王城を出で馬飼車圈(バシシャノク)を召し連れ出家の集まれる檀特山(ダントクセン)の苦行林へ行かれたのであります。

苦修練行
出家せられた太子は瞿曇(ゴウタマ)と名のられ阿羅邏迦藍(アラーラカラーマ)仙人の弟子となられ次に烏特迦(ルウッダラカ)仙人の許へ仕へ尋いで富蘭那迦葉(ブールナカーサバ)、迦羅鳩駄迦栴延(カラクダカッチャーナ)等々の許へ行き、苦行・禅定と求道に倦むことなく開悟せられる迄の間、實に12年間、只苦修練行を御續けになられたのであります。

誘惑
太子は激しい苦行の後、尼連禅河(にれんぜんが)を渡り、善生女(スジャータ)の供養せし乳糜(にゅうび)を受けられ佛陀迦耶(ぶっだがや)の畢波羅樹(ひっぱらじゅ)の下、金剛磐石に跌座(ふざ)し正覺(さとり)を成就せずんば此の座を起たじと決心せられました。其の間、魔王は魔女を遣はして誘惑せんとし或は威武を示して太子を脅迫せんとしたが、遂に太子に折伏(しゃくぶく)せられて魔王は憂愁して退散いたしました。

大悟人天の大導師
併して、四十九日目の12月8日の黎明にして明星輝く頃、遂に大悟を成就せられました。茲に於いて一沙門たりし太子は忽ちに無上正遍知を得て、大聖釋迦牟尼佛と成られ、人天の大導師となられたのであります。而して釋尊は鹿野苑(ろくやおん)に趣かれました。
此の御姿を世に出山(しゅっせん)の釋迦と申しております。

三人仙術
魔偈陀(マカダ)國の三人仙術は釋尊の風評をねたみ 釋尊に種々仇したが 遂に敗れて 釋尊に歸衣(きえ)し 御弟子となる。

前生摩耶夫人と出会い
釋尊は天竺(てんじゅく)に昇天せられ帝釈天の后となられた前生摩耶夫人に再會せられ、夫人に説法せられて、下界したまう。

提婆達多
悪人の提婆達多(だいばだった)は大聖釋尊の從弟でありながら佛教々團の分裂を企圖し、その為に釋尊に迫害を加え 或る時は溢路に酔象を放って害せんとし 或は大石を頭上から投じたり等した。遂には生きながら地獄へ堕ちたと傳えられてゐる。

釋尊は哀はれと思召して提婆達多のために 一品の御経文を説かれたのが 妙法蓮華経の提婆達多品第十二であります。

佛陀
南無釋迦牟尼佛

涅槃会 
大涅槃画像

以上の一代記は毎年2月15日から18日まで本堂にて御覧になれますので、直にお出かけ下さい。

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