加藤清正、二十七歳、熊本に於いて菊池氏の庶流菊池香右衛門武宗(成政と戦うて敗死した人)の遺女を納れ嫡子熊之助を挙げ、慶長二年には二男藤松を挙げた。熊之助は将軍秀忠の一字を賜って忠正と称し、藤松「虎藤」は忠広と称した。忠広が生まれた翌年即ち慶長三年清正が三十七歳の時、徳川家康が自ら薦めて其養女たる水野和泉守忠重の女を清正に嫁せしめたのは、実は家康の間牒であったと云う。然るに慶長十二年清子忠正は疱瘡に罹って死去した。清正深く悲しみ其遺骨を肥後八代郡宮地谷にある征西大将軍宮懐良親王の御基の附近に葬った。これは清正の妻(本覚院)が菊池氏でもあるし、早世した我子をばせめて将軍宮の御墓守としたい考えであったろうと云う。

本覚院…菊池武宗の娘 川尻殿・・・清正公最も御寵愛の奥方
清浄院…水野忠重の娘で徳川家康の養女
浄光院…大木土佐の妻の姉 竹の丸殿 菊池殿
正応院…玉目氏の娘

本覚院と浄光院は何れも菊池家の人々である。区別する意味でそれぞれ川尻殿、竹の丸殿と呼ばれていたことがわかる。川尻は詫磨郡の村であるし菊池武宗の娘とあるから本覚院が詫磨系菊池氏の出自である。
本覚院には、三人の子(一説には四人)虎之助(二歳没)古屋姫、忠正(九歳没)がある。将軍宮の墓守というのは、この忠正のことである。墓は懐良親王の御墓近くの八代市本成寺(現在の宗覚寺)にある。古屋姫は阿部正澄との再婚で正令(播磨守武蔵国忍藩主、のち老中)を生む。
本覚寺過去帳「大正十一年焼失」本覚院殿月心妙光日円大姉 寛永三丙寅四月九日 清正公の御台所、東光山本覚寺 最初根本柏越川尻殿
浄光院は竹の丸殿、菊池殿と呼ばれているので菊池郡の竹牧村あたりの菊池庶流の人であろう。妹の夫である大木土佐(兼能)は、清正公の側近で公の逝去に殉死した人である。子は無かった。大木土佐には一子、四郎(兼憲)がある。

正応院も菊池家に近い人のようである。玉目氏というのは、阿蘇南郷玉目の人で玉目丹波守という。正応院の母は正福院という。正福院は一説では肥後国衆一揆の大将のひとり甲斐宗立の叔父(親房)の妹ともいう。(加藤幸治著 加藤清正史蹟より)
二子、忠広(本覚院の子)、あま姫がある。忠広に仕えたのは、甲斐親房の娘(下城氏の妻)の子(下城=生熊九郎助)という。一方あま姫は、紀州、徳川頼宣に嫁ぐ。孫になるのが八代将軍吉宗である。

川尻お茶屋
天正十六年加藤清正候領国の時、川尻外城に家臣の加悦飛騨守が在番したという。飛騨守はもと宇土城主伯耆守顕孝の一族家老で宇土落去の後、加藤候に仕えた人である。川尻城は白鷺城ともいい、川尻町域後に所在したという。一国一城令により忠広の時取り壊されたという。清正公伝に川尻御蔵、川尻お茶屋と言う記述が見えるが、何れも城内にあった由緒ある建造物であったらしい。肥後国誌には(古城の台所、今の御蔵に残ると云)とある。城取り壊し後もお茶屋は残ったらしく三斎細川忠興公の宿泊記録もある。
付記 本覚寺の伝えには本覚院殿と実母はよく川尻に行っていたと伝え残されている。
   (実母は川尻から菊池香右衛門武宗に嫁す。)

清正公伝に残るお茶屋の記録
川尻殿抱え人として
一、五人扶持  川尻台所 中村太郎右衛門
一、壱人半扶持 川尻台所 興介
一、貳人扶持  茶湯坊主 川尻 宗意
一、参人扶持  茶湯坊主 川尻 養仙(養仙)
一、三十四人扶持 川尻に居候主計 母召仕女房供

清正公の奥方の一人、本覚院は川尻殿と呼ばれていたことから、川尻城に起居していたと想像できる。なかでも、この川尻お茶屋こそがその中心であったことがよくわかる。母召仕女房供とあるので川尻殿の母(菊池香衛門の妻)もここに同居していたのであろう。(肥後国誌、肥後文献叢書、川尻町史、加藤清正公伝より)

本覚院殿御廟所

本覺院殿「加藤清正奥方」

本覺院殿月心妙光日圓大姉

御廟所移動
◎平成十七年五月十六日が旧暦四月九日になりますが本覚院第三百八十遠忌を五月九日に厳修するに当たり、様々考慮の上、当山裏手に在った御廟を正面山門を這入り右手不動尊堂横に移す事を総代世話人様方と決めました。
幸いかな檀信徒皆様方の御寄付協力のもと、平成十六年十一月二十九日午前十時より総代世話人他工事施工者関係で地鎮祭を挙行後、平成十七年二月四日から旧御廟所発掘し始めたところ、本覚院縁の物が出、途中より熊本市役所文化財課の御協力を得、二百数十点発掘できました。
一、頭部御骨の一部分(御廟へ大理石の骨壺に納めました{二月十七日})
二、ほぼ胸当たりに在ったであろう木造の二センチ四ミリ程の持仏観音様
三、縦横二尺高さ四尺の檜の座棺
  イ、外側は総漆塗り
  ロ、銅板で紋(桔梗)(蛇の目)(牡丹)の上に金メッキの状態の物が大小数十枚(棺の廻りに貼)
  ハ、御棺の縁・間飾りが大小数十点
  ニ、御棺を下げる金具(中は鉄で表面は金貼)二本
  ホ、手鏡(錫メッキオモダカ飾り)及び六文銭としての丁銀(当時のお金) 一枚
  へ、棺の上下横の木部は殆ど朽ち果て四隅の柱部分及び金属で覆われた
    木片数点
  ト、供物の為であろう一枚の皿「上部に子供の拳大の土饅頭二ヶ」
    等の品々が本覚院墓石の真下ではなく前にくっつく位置のほぼ一間下に埋葬されていました
   
忠 広 淨得院殿最乗日源大居士(当山過去帳大正十一年焼失)
     淨得院殿四條妙意大姉 (当山墓所に敢えて記す)
     盛徳院殿最乗日源大居士(肥後本妙寺霊簿)
     帝光院殿(証)誠覚日源大居士(山形 鶴岡本住寺)
     何れも命日は承応二年(一六五三)七月二十六日逝去
   ※覚圓寺(当山東側の寺院)の由来
      寛永三年(一六二六)本覚院殿(川尻殿)冥福の為
      加藤忠広公が仙林院日善上人を開山として建立す
      本覚院殿戒名 本覚院殿月心妙光日圓大姉に依る寺名。

淨得院殿最乗日源居士
◎伝えには清正公と正応院殿との子としてあるが、本覚院殿との子である「忠広公」の母
  追福の為、自らの墓を向かって左側に遺骨は見当たらぬがこころ【魂】のお墓があります。

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