8月31日放送のTBS系「ピッタンコカンカン」午後7時から8時の中で、当店の「千年杉」が放送されることになりました。
また9月15日にもフジテレビ系列の「めざましテレビ」(紹介の時間は午前7時から8時の間のどこかのコーナー)の中で紹介されるようです。
どんな、扱いになるのか詳細は不明ですがまあ見てやってください(^^ゞ
この掲示板は半角記号、半角カタカナ以外にも「はしご高」(高の旧字?)とかの名前に利用されるよう旧字の漢字も駄目みたいです。
やっと、お盆休みのピークがすぎました。
久しぶりに疲れました(^^ゞ
中点のせいではないようです。
時々、読めない?漢字があるみたいです。
テスト
テスト・テスト(中点大文字)
テスト/テスト(スラッシュ大文字)
テスト/テスト(スラッシュ半角)
古代ギリシャ ローマの 飢饉と 食糧供給
です
この掲示板文字化けが多いな。
まだ読了していないのですが、カ殿絅」螢轡磧Ε蹇璽泙竜会爾反m閥ゝ襭(ピーター・ガンジィ著 松本宣郎,阪本浩)によると、古代でも食糧生産のほとんどは自作農によって行われていたと言うことです。
あの帝政末期のロシアでさえも、農奴が耕していた土地は二割にも満たないんですよね。残りの八割は小規模の自作農の家族経営でした。
現代の日本以外の地域の農業と言うのは、自作農が余力で大地主の土地を少し耕したり、あるいは家族経営の自作農でも農繁期だけ季節労働者を雇ったりして、農業と言えども多彩な経営が行われています。戦後の日本ほど企業的要素がなくされた農業も珍しい。
で、古代地中海にしても、古代中国にしても、食糧生産の基本は、家族経営の自作農が細々とやっていた農業でした。
高校の世界史で、確か、ローマ帝国時代に「ラティフンディウム」というの習った覚えがあるのですが、中世のヨーロッパの荘園の前の大土地所有制の農園だったような記憶が・・・。
結局「都市国家」といっても、「山林叢沢」や郊外?の「大農園」?といったものを、前提としないと、生存できないように思われます。
確か、「都市」は周辺の農村部がないと、生き残れない(再生産できない)、特に人口面で、都市は農村より人を吸収しないと、都市自体での人口減から必ず衰亡するという指摘を何かの本で読んだ覚えがありますが(それもかなり昔)、現在はどのように解釈されているのでしょうか?
もし、この命題が正しいとすれば、中国史の著しい特徴である、周辺異民族の中国流入と同化というのは、「都市」と「農村」の関係の東洋(中国)ヴァージョンであり、他の文明圏での「農民、農村」の役割を、中国では、「異民族(遊牧民?)」が代替したということになるのでしょうか?
ロトさんの疑問の細部まで、読む時間がありませんので、簡単に。
城砦都市
古代の話ですよね。
百済です。
百済の城砦都市が造られたのです。
古代の都市国家がどのように食糧を獲得していたか、食糧の生産地をどう管理していたかについては、あまり説明を聞いたことがないですね、確かに。
日本の環濠集落ぐらいならば、その日のうちに行って帰ってこれる範囲から得られる食糧生産で間に合いそうですが、春秋戦国時代の中国とか、ローマ時代の地中海ではそれだけでは無理だったのは確実でしょうから、それなりの食糧生産をするそれ専門の場所の管理が必要だったでしょう。
そのシステムがどうだったかは、調べる価値がありそうですよね。
丁度、今図書館から古代地中海世界の食糧生産を研究した本を借りてきて読んで勉強をしている所です。
春秋戦国時代の代表的「山林叢沢」は、山川出版社の『世界歴史体系・中国史・1・先史→後漢』(松丸道雄他編、2003,8月)に引用された図(p248の図18、出典は中国の本らしいですが、著者の姓は文字化けしそうなので省略、このあたりの章の著者は平勢隆郎氏)によると、
大野(金巨・野)、孟諸、貝区、雲夢、
が挙げられています。
あう〜、下記「都市国家と領域国家」は私の書き込みです。HNのところにうっかり「題」を入れてしまった・・・。ごめんなさい。
更に「山川叢沢」ではなく、「平原叢沢」だったような気が・・・。うろ覚えなので、急遽文献を探しましたが、手元で見つかりません。また、どこかから出て来たら、用語の間違いがあれば修正します。(もう一度)ごめんなさい。
「都市国家」(一般に「邑」とでも言うべきでしょうか?)が、食糧生産をどのようにまかなったかと言う問題があり、都市の人口が多くなれば多くなるほど、「他の都市」を従えて、「都市国家連合国家」の形態を採るか、あるいは、別に山野などに食糧生産基地を置くかと言うことに為ります。勿論、山野での農耕・狩猟・牧畜・漁撈で食糧調達を行うことになります。
春秋戦国時代の列強には、おそらく資源のための「山川叢沢」が、各国家ごとにあり、どうもこれが国力の大きな基盤であったと思われ、「山川叢沢」を失った国は、間もなく滅亡したようです。
商や周などのような中原国家は、「都市国家」であったことは間違いなく、それらの都市が「首(主)邑」−「大邑」−「(小)邑」のような形で組織されて、都市国家を形成されていたと、私も思いますが、例えば、倭人の原住地だったと思われる「遼河流域」や、「朝鮮半島」更に日本列島では、(仮に「環壕集落」を日本型都市と考えても)周辺の狩猟採集民、漁撈民、焼畑を含む畑作農耕民などの支配には、「面的な支配」(徴税権だけかもしれませんが)が必要であり、それは「領域」の支配ではないでしょうか?
都市/都市国家が、祭祀を行うのと同様、狩猟民などの部族の連合体は、野外の「聖なる『山岳』」などに、祭祀同盟に参加する諸氏族や諸部族が集まって、天神や祖神、地神/山神、さらには祖霊などを祭ったと考えられます。
私は「倭人」の祭祀は基本的にこの「山岳祭祀」であったと考えています。
環濠砦。。。。。。
以前、ペギラさんちの掲示板で城砦都市とかについて盛り上がっていたことがありましたね。
あれって結論めいたものは出たのでしょうか?>ペギラさん。
途中から話を追い損ねて覚えていません(^^ゞ
岡山の鬼の城。あのあたりから城砦っぽい?
うーんとですね、
都市国家であったから、帝国を作らなかったと言う証拠にはならないということを言いたかったんですね。古代の帝国は多くの都市を傘下に治めた国であって、領域と言うものは古代人の頭の中にはあまりない考えだったと思います。古代の国と言うのは面ではなくてネットワークなんです。
古代の日本は、明確な城塞都市があったわけではないけれど、面の支配を確立した領域国家でもないです。やはり支配者の簡単な館とか砦を中心にした集落が集まってできた国です。まあ別に領域国家が500年くらいの歴史がないというのはあくまで目安でしかりませんので、説にまで普遍化するつもりはありません。
私としては・・・西周の歴史を考えるにはまだ材料が少なすぎるので、諸侯の動きとかまだまだ分からなくて判断ができない、と言うのが正直なところです。
城壁で囲まれた「都市」の形態を採らない日本の国家体制を考えると、「領域国家」発生500年説はすこし、無理があるような気がしますが・・・。
ローマも基本的に都市国家の連合体です
領域国家が発生したのは、高々ここ500年くらいでしかありません。
古代の帝国は領域国家ではありません。
最近の殷周時代の研究では、商や周が「大帝国」を作った〜あるいは作ろうとしたという可能性には、否定的のようです。結局、商や周は、本質的に「都市国家」であって、「領域国家」ではなかったのでしょう。従って、漢字や、青銅器への「刻字技術」のようなものは、祭祀とも関って、「商(殷)」や「周」のみ=首都とされる都市の「大邑商」や「宗周」あるいは「成周」に基本的に限られていた=で行われ、周の氏族の膨張に伴って、分封された「侯」に賜与された「青銅器」に刻字されて、「漢字」の読みはある程度拡がったが、「青銅器製作技術」や特に「青銅器刻字技術」は、「周」の独占技術だったが、西周が分裂し、東の「携王」や申侯が、西の「平王」や晋、鄭、カクなどによって倒されたことによって、これらの王朝門外不出の技術が、春秋の諸侯に流出し、更に、中華世界の外部だった呉・越・楚などの諸王国が、中原の諸侯の国を滅ぼして併合したことにより、南方の「越族世界」に「中華世界」の「漢字」文化が入ったというのが、今のところもっとも蓋然性が高いようです。
山東あたりの陶片の記号(漢字の全身的な存在?)や商の甲骨文、金文などの、神名はおそらく東夷諸民族や商にとって共通部分が多かったでしょう。祭祀に「犠牲」(特に「血」を流すことの多い)を多く求めた商のそれは、他の東夷とかなり異質ですが、あるいは、西北方からの影響があったのかもしれません。
日本人の祖たる「倭人」は、東夷諸民族の一つとして、商民族とおおくの共通性は持っていたでしょうが、隣国のような「箕子朝鮮」の子孫との伝承もありませんし、中国中原勢力の子孫と称する秦氏なども日本国の支配権を主張する根拠とはしていません。
天皇氏の支配権の淵源も、直接「神々」に求められており、これは「上帝」の子孫の「嫡」として、地上の支配権を持つと考えた「商」の思想と同様であり、本来一般的な東夷の支配者の思想だったのでしょう。
というわけで、
民俗学的な材料から、王朝の盛衰を推測するのは難しいかもしれません。数百年スケールの人の動きなんかを考える材料にはなるかもしれないと思います。
周が商にあれほど容易に勝つことができたのは、当時としても青天の霹靂だったらしい。
本来ならば商がそのまま大帝国を作るはずだったところ、周が棚ボタ的に勝ってしまったために、少しその時代が素直じゃない進み方をしてしまって、分かりにくくなっている、と言うことはあるのかもしれません。
商の文化は日本の文化ととてもよく似ていますが、人牲や犬牲の多用は日本では見られない風習です。日本は商の直接の子孫と言うわけでもないのかもしれません。
少し違う話になりますが、近世から現代にかけての中国人は空白を非常に嫌う習性があるみたいです。壁とか調度品のデザインでは、とにかく絵や字を書き込んで空白が生じないようにしていますよね。
私は、中国人には、空白から悪霊が出てくる、といったような信仰を持っているのではなかろうかと推測しています。
何が言いたいかというと、文字自体に神聖な力があると言うのは、密教の梵字の信仰あたりから派生した、割合新しい習慣なのではなかろうかと言うことです。
現代の中国人や私たち日本人は、お札に書かれた文字に霊的な力が宿っているとしんじていますが、その習慣をそのまま商の時代の人々が持っていたかどうかは分からない。信仰と言うのも流行り廃りがありますから、私たちの考えを、そう簡単に三千年前の人に当てはめてよいものかどうか疑問です。
「文字へのあこがれ」は、まあ、「文身」が廃ったことと、「文字の流布」が並行関係にあるのではないかと考えたことからの妄想です。
ただ、どうも、殷の青銅祭器のトウテツ文などを見ると、東夷の「文身/絵身」などは、いわば、「青銅器」の代わりに「人身」の表面にトウテツ文式の「紋様/文様」を書いたのではないか、と言う気がしてならないものですから、暴走してしまいました。
周が、殷を倒せたのは、それだけ殷が、周辺諸族(東夷、羗、南人など)の恨みを買っていたということでしょうが、それ以上に、いわば商民族の「支持基盤」である東夷に対する対策が誤っていたのでしょう。
勿論、西伯として信用していた?周の裏切りや、かつての重要な同盟者であった召方の背反も大きかったでしょうが。
商が、東夷との宗教戦争の隙を突かれて、周に滅ぼされてしまったのだとしても、それは紂王個人の戦略の失敗であって、紂王個人の失敗を文字とか宗教のように普遍化していいかどうか判断できかねます。
憧れ・・・
そういうことははっきり言って、現代人の私にはどうにも判断のしようがありません。
それに結局文字を持っていた商は文字をまともに知らなかった周に滅ぼされてしまったわけですからねえ・・・文字が国家の強い弱いには関係がなかったということになりますよね。
漢字が、本来「真名(まな)」とされ、「仮名(かな)」に対して「真の字」とされていたことは、有名ですが、この「名(な)」とは、「文字」の意味ではなく、文字通り「事物の名称」のことであり、同時に古代人に多い「名は体を表わす」と言う思想に基付いて、「神」の「名」即ち「神名」であり、且つ、その音(発声)をするのを憚る「忌み名」のことだったと思われます。
後代の「篆刻」に用いられた「篆字」ではなく、あのおどろおどろしい殷(商)時代の「神」を表わすと思われる原初の漢字の「字体」こそ、東夷諸族にとっての「神」の「真名」「忌み名」の「表象」だったのではないでしょうか?
安部さんは、白川静博士の著作集を読まれており、甲骨文や金文に表わされた殷の文字は、同系の東夷諸民族にとって、極めてインパクトがあったとは、思われませんでしょうか?特にそれが、青銅器に刻字されれば、商と東夷の格差は歴然としていることが明らかであり、これが東夷の「文字(この場合は漢字ですが)へのあこがれ」の元だったと思われます。勿論、現実の国家運営の技術としても必要性は高かったでしょうが。
言語を学ぶと言うことは、その言葉を使う人たちの∋彖曖を学ぶことに他なりません。
ものの捉え方の違いや共通点を知ることが言語の勉強です。単語や構文は大事ですが、入り口に過ぎません。
外国語学習の醍醐味は、その言葉を使う人たちの思想に触れることができる点にあります。事物の数にこだわる民族がいるかと思えば、同じ字で名詞も動詞も形容詞も全部表してしまう(ていうか区別がない)民族もいる、⇔C辰討い襯薀D寸∈造辰討い襯薀D寸∩「辰討い襯薀D寸これらが全て別々の名詞で表せて、しかもそれらの間には何の共通点もない言葉、世界の捉え方が色々あることを知ることができる。
言語の習得は、ある境地まで行けば一種の変身と言えます。自意識が弱い人は、あるいは身も心もアメリカ人とか中国人になってしまうかもしれないし、あるいは英語を使うときだけ行動がバタ臭くなる人もいるかもしれません。
そういった意味で、外国語とか外国の文字と言うのは、舞踏のお面なんかと同じ、聖なるものになるための道具とみなされたかもしれません。
言語を学ぶと言うことは、その言葉を使う人の∋彖曖を学ぶことに他なりません。
ものの捉え方の違いや共通点を知ることが言語の勉強です。単語や構文は大事ですが、入り口に過ぎません。
外国語学習の醍醐味は、その言葉を使う人たちの思想に触れることができる点にあります。事物の数にこだわる民族がいるかと思えば、同じ字で名詞も動詞も形容詞も全部表してしまう(ていうか区別がない)民族もいる、⇔C辰討い鞫剔味∈造辰討い鞫剔味∩「辰討い鞫剔味これらが全て別々の名詞で表せて、しかもそれらの間には何の共通点もない言葉、世界の捉え方が色々あることを知ることができる。
言語の習得は、ある境地まで行けば一種の∧竸硲と言えます。自意識が弱い人は、あるいは身も心もアメリカ人とか中国人になってしまうかもしれないし、あるいは英語を使うときだけ行動がバタ臭くなる人もいるかもしれません。
そういった意味で、外国語とか外国の文字と言うのは、舞踏のお面なんかと同じ、聖なるものになるための道具とみなされたかもしれません。
さて、文字に対する信仰があったのかどうか・・・
宗教・文字・科学技術などなどはつい最近までは身分かでしたから、これらの総体としての○○文明を△垢瓦い覆■と思う人にとっては、文字もその構成要素の一つとして信仰の対象になります。
あるいは、自国を発展させるために、たとえば中華文明を導入しようとした為政者は、文字をはじめと刷る彼の地の文化に対する信仰心をあおったかもしれません。
明治時代に、西洋文明を取り入れようとした日本人の英語に対する感情は信仰に近いですよね。西洋文明に対する畏敬の念は、そのまま彼らが使う言語への信仰、そして英語を通して近代文明に触れることができるエリートへの信仰につながりました。
今だってこの英語信仰は続いています。
そもそも言語なんてものは道具なのですから、通訳にでもならない限り○○語が使えると言うのは何の意味もありません。英語圏で働きたいとか、アメリカの映画を見たい、とかそう思っている人にとっては英語は重要でしょう。だけれど、英語を覚えただけで、その人がレベルアップするはずがない。英語だけでは仕事をする上での技能にはならないわけです。それに今だったら英語よりも中国語が使える方が商売になるかもしれませんし。
であるにもかかわらず、英語さえしゃべれれば何とかなる、といった考えにまだ私たちがとらわれているのも、一種の妄信なのかもしれません。漢字に対する信仰があったとしたら、これに近いものであろうと思います。
そこで文字が出来るまでの間は、視覚的に「模様」(勿論派手な色付き!)を、体全面に施す「文身」や「絵身(かいしん)」が、代用を勤めたというのは?
要するに「青銅祭器」製作技術が無い場合、「呪術」「祭祀」を施す「場所」「客体」として、人身が使用され、そのためにも「人身犠牲」が必要とされた場合もあった・・・。
といことで、文字や記号が使いきれない人にとっては文字より絵を有難がっただろうから、文字信仰というより絵画信仰だ!その見本が見る銅鐸と飾りのついた銅鏡。
でも、これを絵画信仰とはいえないなぁ。ニュアンス的には「偶像崇拝」に近いのかもしれない。
どっちしてもやっぱり背後の神への信仰の内なわけだし。
文字に対する信仰。
この字は神の名前だ。ここに書かれている文は神の行為だ、と解ったり、教えてもらうから、文字を信仰するというような形になるんですよね。文字だからといって有難がるわけではない。神の名が書かれているから有難がる。
お札やお守りに対する信仰と同じようなものでは?
文字に対する信仰といえるのか。。。。。。
これは背後に神(恐れ多いもの、有難いもの)を感じるから有難がる。
文字にされたものを有難がるというのは、文字を使える人=知識階層つまり身分の高い人のいうことだからとりあえず聞いておこうとか、聞かなくてはいけない。という意識が残ってたりして(^^ゞ
私も当初はぎっくり腰かと思ったのですが、それだと激痛で我慢しても立てないそうなので、どっちかというとSinさんの指摘の方があたってたりして(自爆)
といっても、ここを見ている皆さんでSinさんとあったことない方にいっておきます。Sinさんよりはやせてます(核爆)
ということで、痛みが治まったら何か運動しないとやばそうです(^^ゞ
私の友人は大学時代に腰痛に悩まされてましたが、原因は「太りすぎ」だったとか…
私にゃ言われたくない?(爆)
それって、ぎっくり腰じゃないの??
マリゴンが重いとか。。。(笑)
最近、腰痛に悩まされています。
痛み出したのは三週間ほど前。
冷房による冷えか、寝違えかと思って少し我慢していたら
二日ほどで我慢できなくなるほど痛み出したので近くの整形外科へ行った。
そこには中学時代のクラブの後輩が医者としていた。
もともと自分ちの病院なので跡は継ぐんだろうと思っていたが、
まだ姫路に帰ってきてるという噂を聞いてなかったので、
びっくりするやら恥ずかしいやら・・・
なんてったって「腰痛」ですから(^^ゞ
「おお久しぶり」とか挨拶してもこちらは腰痛で冴えない。昔話をしながら診察してもらう。レントゲンも撮った。ヘルニアとかではないそうで一安心。
薬とシップをもらってその日は帰る。
薬が効いたのか二三日したら少し楽になった。
でも一週間たつと元通り、というかなおさら痛くなり、
再び病院に。
今度は痛み止めの注射を打ってもらう。先輩の立場は既にない。
でもまたまた一週間たつと痛くなる。
で再び病院に行き、今度は多めに注射を打ってもらう。
薬を飲んで二週間たっても痛みが治まらないので、後輩は申し訳なさそうだ。
ちょっと、立場復活。といっても喜んでる場合ではない。
「薬を代えて見ましょう」
といわれて「筋弛緩剤」という薬をもらった。ちょっとキツイらしい。
それを飲んで数日たった。薬の効いてるうちは痛みが少なくなった。
が、少し時間が空いたり、ずっと同じ体勢でいるとじわじわ痛みだす。
痛みがピークになると靴下を履くのにも一苦労だったが、今はそれほどまでには痛くない。
もしかして、持病になってしまったか?と不安な今日、この頃。。。。。
安倍さんの仰る「神の子孫たる王は、神話で表明された価値観を守ります」ということを言いたかったというご意見は、ややニュアンスは違いますが、私も感じていたことです。
というよりも、「祭祀」の内のかなりの部分が、「神話」を踏まえて、いわば、それを「再確認」もしくは「再現」することであったと思われますが、これは「記録」に残された段階で、いわば「史官(おそらくは帰化人)」により、一定の「合理化」を受けて変形の度合いが(それまでの「毎年の祭祀の繰り返し」や、「語り部による口承」による伝承に比し)強くなったのではないでしょうか?
私は、記紀神話を記録したおそらく中国系史官(古事記の方は、違うかも知れませんが)は、彼の持っている中国史の知識で「合理化」をはかり、在来の日本の豪族の特に「氏族始祖伝承」などとの整合性が、取れなくなった状態が、日本書記の神代だと思います。本来の日本神話というか、倭人の神話は、基本的には、天地創造、人類や動植物の起源、民族や部族・氏族の主だったものの起源などを含み、各個別氏族の始祖伝承に繋がる形であったと思います。日本人だけが、近隣諸民族と異なり、これらの神話・伝承をもっていなかったと考えるべき理由は全くありませんから。
>神の子孫たる王は、神話で表明された価値観を
>守ります、みたいなことを言いたかった
>(あるいはそう言う効果を、古代国家によって再編され、
>配布された神話は持っていた)のではないでしょうか?
そうかも知れないですね。
大王とその臣下が同じ神話を共有することによって、結びつき方や日本国における君臣のありようの基本とした。
だから記紀にはアマテラス神話も大国主神話もいろんな立場の伝承が混じっている。書記の一書はそれをそのまま記した。記紀に登場する神名にまたの名があるのも、いろんな伝承の集大成だからなのかもしれない。
大王家「うちの祖先はアマテラスという女神だっぺよ。岩戸がくれという昔話に伝えられてるよ。」
氏族A「うちの祖先はオオヒルメという女神やでぇ。岩戸がくれはうちの祖先のオリジナルや。」
氏族B「私の祖先はワカヒルメといいますがほとをつかれて死んだとこまで一緒です。」
氏族C「私の祖先はしりませんが、岩戸がくれの話はしってます。」
てな、感じで女神アマテラスは記紀に登場する姿となった。。
とかいう話をまとめて
仮に実在した雄略天皇の名前を「ワカタケル大王」として、文章化された順番に並べると、
1・「ワカタケル大王」を中国皇帝の立場から見て中国史書に記された「倭王武」。
2・「ワカタケル大王」にまつわる大王一族内および近親氏族の資料を後世にまとめて文章化した記紀の「雄略天皇」。
3・「ワカタケル大王」の大王一族外での伝承を、伝えられていた大王の先祖の系譜にある名前に仮託された記紀の「ヤマトタケル」。
この三者はどれも「ワカタケル大王」の近似値をそれぞれの時代にそれぞれの立場で文章化されてできあがった。
「ワカタケル大王」と倭王武は同一人物。
「ワカタケル大王」と雄略天皇は同一人物。
「ワカタケル大王」とヤマトタケルは同一人物。
これは言えるんではないかと思う。(というか私が言いたいだけかもしれないが(^^ゞ)
でも、倭王武と雄略天皇とヤマトタケルは、ワカタケル大王のある側面をそれぞれが書きとめたものであって、それぞれの資料に現れる倭王武と雄略天皇とヤマトタケルは各々を=で結べないのだ。
それぞれが登場する資料をつき合わすと齟齬がでる。
1がもっとも早く書きとめられたワカタケル大王の一つの側面である。もしかしてこれを参考にヤマトタケル神話や雄略天皇条の大枠が決められたのかもしれない。
しかし倭王武は見事な漢文を使用して中国皇帝に出願している。おそらく国内にも同時代のワカタケル大王に関する文字資料があったはずで、その一部が鉄剣銘なのであろう。記紀に転記された時点で破棄されたのかもしれない。破棄しようとしてしたのではなくても、結局、現在国内の同時代文字資料は残されていない。ので、国内に鉄剣銘文以外の文字資料があったというのは憶測にすぎない。
これは、去年の冬頃にロトさんと話していたことにつながると思うのです。
神話を使って、物質の変化とか概念と言った目に見えない物を表現しようとしたのではないかという話。
神話は、その民族が持っている、概念みたいな物を表現している、これが歴史上の出来事を反映したりはしていないだろうと。
ただし、統治者がその神の子孫とかいう風に言うのは、一種の憲法に対する宣誓みたいな物ではないかとおもうのです。
神の子孫たる王は、神話で表明された価値観を守ります、みたいなことを言いたかった(あるいはそう言う効果を、古代国家によって再編され、配布された神話は持っていた)のではないでしょうか?
やはり同じようなことを考えていましたか
私も人代になってからは、古事記や日本書紀にはある程度史実が反映されているかもしれないと考えていますが、神代は、書かれた当時から神様で、多分それよりもっと前から神様だったのではないかと考えるようになりました。
古代の失われた歴史が神話に描かれたことはないのではないだろうかと。
シューリマンが、ギリシャ神話の記述を読んでトロイを発見したと言われていますが、シューリマンがのめり込んだ「イリアス」の中でははっきりと神様と人間が別れています。トロイは物語の中でもれっきとした人間が住む都市であって、神様の生活の場であったことはありません。古代の人も神様と人間をしっかりと分けて混同はしていない。
むしろ、中世の人間の方が現実世界と霊的世界がごっちゃまぜになっているみたいです。
聖書もそうですね
モーセにはかなり現実味があるけれど、アブラハムは現実の人間ではないでしょう。
古代の書に出てくる神様は、多分当時も、そのまたもっと前も神様だったと思うのです。昔人間だったとしてら、それが分かるように書いてあると思うんですよ。
>読み手が古事記、日本書紀に対して何を求めているのか?
によって左右される。
文化を感じたければ文化を感じられるだろうし、歴史を感じたければ歴史を感じる。また「史実」を仮定したければ史実だって見出せる。
要は、読み手の読み方しだいなのだ。
そこには文字が記されているだけなのだ。
全くその通りです。
・hn2602さんはそこに倭人北方起源としての歴史的史実を見いだして読んでらっしゃる。
・私は日本文化として読んでいる。
・神主さんは霊的事実として読んでらっしゃる。
さて、記紀編纂の真意は天武天皇・太安麻呂・舎人親王等にしかはわからないのだろうか?
古事記、日本書紀から何が言えるの?
ということは、
読み手が古事記、日本書紀に対して何を求めているのか?
によって左右される。
文化を感じたければ文化を感じられるだろうし、歴史を感じたければ歴史を感じる。また「史実」を仮定したければ史実だって見出せる。
要は、読み手の読み方しだいなのだ。
そこには文字が記されているだけなのだ。
という現実を知っていながらついつい無視して自分の都合の良いように読んでしまっていないか?
とも考える今日この頃、アライグマが主婦を襲う世の中になってしまいましたが、 皆様は、いかがお過ごしでしょうか(^^ゞ
当初、「あ」という文字は『あ』という発音を文字化したもの。
でもいつのまにか、『あ』という発音は「あ」という文字をみて発音するようにもなる。
だんだんと、文字にあわせて発音がかわってくる、というか固まってくる。
「あ」という文字によって仲立ちをされたむこちによって大昔の文字になる前の『あ』と文字ができた後そして現代の『あ』は同じだ発音だと思われるが、はたしてそうなんだろうか?とも思ったりする。
歴史も文字によって変わるのではないか。
文字の読み方というのは、時代によって違うはずだ。当然解釈をつける者の知識や常識によって、解釈はちがってくる。
常識はまた、時代によって左右される。とかなんていってるとそのうち何もいえなくなるんだろうなぁ(^^ゞ
最近、私としては、邪馬台国を古事記や日本書紀から探すのは無意味なことなんじゃないかと思ってます。
また、同じようにアマテラスや応神天皇や雄略天皇を中国史書から探すのも無意味なんでしょう。
中国史に倭王武と記されて、記紀で雄略天皇と記された人物は、伝承の世界ではヤマトタケルだった。
という推測は可能だと思います。でもこれらを=で結んでしまうことは難しい。テキストに寄りかかれば否定材料はたくさん出てくるだろう。
文献に登場した人物は、実在の人物とは勿論微妙に違うものになる。文献から発生する伝承だってありうる。そしてテキストになっていない伝承と伝承は交じり合うことだって可能だ。
文献に記された時点で実在の人物は文献上の人物となる。
私の知り合いで,内水面漁業の環境省なんかの委員をしている人がいますが,
ダムがあるとそこで生態系がぶちきれるそうです。
それと、その人に聞いて驚いたのですが、ダム湖の水を流すか流さないかは、 電力会社の権利だそうです。
ただ、ダム等で治水が成功したのは認めます。
石川県最大の大河手取川は、平安初期くらいまでは,松任市あたりに河口があったそうです。
全く、治水しなければ、今は小松市にあったそうです。距離では、20kmくらいになります。
今は、その中間の美川町に河口がありますが,手取川は暴れ竜といわれるほどの暴れ川でしたが、
江戸時代から河口はほとんど動いていないそうです。
きました台風。
窓がミシミシとしなっています。
そんなに強くないそうですが、なかなかの迫力です。
久しぶりにトップページを更新しました。
上記URLです。
ただいまプレゼント企画実施中。どしどしご応募ください(^^ゞ
ここ数年豪雨や旱魃が連続しているのに、大飢饉になったり、何百人も人が死なないで済んでいるのは、やはりダムとか堤防をいっぱい作ったお陰です。
多分これが江戸時代だったら、天明の飢饉並みの大事になっていたと思います。
だからダムとか堤防は必要ではあるんですよね、これ以上必要かは分からないけれど。