天孫降臨@

半島南部、全羅南北道、慶尚南北道、及び忠清南北道(一部)に到達した倭人諸部族は、これら各地に小部族国家を建国するとともに、緩い祭祀同盟を各地域で結成したと考えられますが、倭人の移動には、当然韓族や、古アジア語族系の同盟・従属部族が参加し、彼らも倭人諸部族と入り混じって自分達の部族国家を作ったと考えられます。この内、韓族には、京畿道や黄海道から後続の同系諸部族の南下・合流があり、これに対し古アジア語族系の半島原住民や長江流域からの越系諸族は、本拠地からの同族の後続がなく、倭人(や韓族)に同化される方向に向かったでしょう。しかし、江南よりの淮夷や長江からの越系の住民は、倭人に従来の畑作(陸稲を含む雑穀栽培)の他、新たに「水稲耕作」の技術も伝え、倭人の祭祀や語彙に南方系要素をもたえらしたと考えられます。もっとも、倭人の基本的な言語の特徴(アルタイ諸言語共通の文法、開音節的音韻体系やヒ、フ、ミといった固有の数詞体系、母音の連接を避けるなど)や山岳信仰(天神またはその子が聖山に降臨し山神〜地母神と婚姻して始祖が誕生する)、文身の風習(これが東夷の習俗であることは明らかですが、抜歯については不明)などは、倭人諸部族がその伝統を(倭人主力の渡海まで)守ったと思われます。(少し判りにくかったので訂正再録しました。)

さて、半島南部に定住した倭人及びその同盟・従属諸部族(民族的帰属はさまざまだったでしょうが、半島定着後は倭人および韓族への同化の道を歩んだ)のあるものは、海峡を越えて、日本列島への移住を開始することになります。その理由は、おそらく水稲耕作を材用することにより、生産力が上昇したが、稲作農耕の適地は温暖な列島におおかったことが大きく、次いで半島から満洲あたりの民族移動の混乱期、列島の方が住みやすい(征服しやすい)と見做されたからだと思われます。また、倭人にとっては、黄海道・京畿道方面からの韓族諸部族の南下の圧力があり、同盟・従属していた異民族系の諸部族中心に、新たな部族連合ー韓族中心の馬韓や、新たにその北方で移動開始し始めた南方ツングース諸族即ち扶余系諸族の移動圧が、あったかもしれません。

尚、水稲耕作の生産力と、陸稲の焼畑耕作の生産力は近時、余り変わらなかったとの説があり、必ずしも水稲耕作の魅力は大きくなかったかもしれませんが、陸稲も亜熱帯系の作物に起源する以上、半島より南方の列島の方が、収量は多かったか栽培が容易だったのでしょう。

さて、私は古事記のいう「高天原」、書紀などのいう「アマ(アメ)国」は、列島外の半島南部(及びそれ以前の故地倭山周辺)と考えていますので、倭人主力の列島への移住は「天孫降臨」ということになります。

倭人は、東夷の一派として、多くの祭祀・習俗を、東夷諸民族と共有していました。この祭祀・習俗は、東夷と深い関係のある「商(殷)」とも共通していましたが、「商」の特徴である、「牲」(生贄)の習俗は、かなり商と異なり、祭祀に際しては、「血を忌む」傾向が強かったと思われます。(これに対し、商は祭器などを、人や獣の血で聖別した)

さて、当時の東夷や商の世界観では、自分達の領域以外の所は、異神、異族の土地であり、これらの土地に入るには、祓邪の儀式が必要と考えられていました。即ち「さばえなす悪神」が、満ち満ちている異神、異族の地はまず宗教的に祭祀によって、清め祓われて、始めてその地に入って行けることになります。

天孫降臨A

> さて、当時の東夷や商の世界観では、自分達の領域以外の所は、異神、異族の土地であり、これらの土地に入るには、祓邪の儀式が必要と考えられていました。即ち「さばえなす悪神」が、満ち満ちている異神、異族の地はまず宗教的に祭祀によって、清め祓われて、始めてその地に入って行けることになります。

倭人の指導者は、基本的に巫祝であり、それが将来の部族指導者から倭王への道を歩んだものと考えられます。殷や東夷の聖職者は、文身を入れ、聖別されていたと考えられますが、氏族制社会の中では、殷などでは「長子」(男)が「巫祝」となり、この長子(兄)がはふり(聖職者)となったことから、「祝」の字に「兄」の字が入っています(白川静氏、「漢字の世界」@A、平凡社ライブラリー)。始めはおそらく氏族共同体の成員全員が、文身していたのでしょうが、その後、聖職者や、蛇・鰐(鱶)などを避けるための海人などに限られ、さらに「文身」から、「絵身(かいしん)」要するにボディーペインチング(儀式時のみの)になり、天皇氏のような祭祀を司り、中心的な氏族以外では、その風習も忘れ去られることになったのでしょう。

さて、異域、異神を宗教的に鎮圧する(払う)ために、神話では、人格化されていますが、「武器」が使用されます。この武器は勿論聖別されたもので、「槌」「剣」(タケミカツチとフツヌシ)により、まず列島の神霊(地主神)が、祓われ、天孫族は異神・異部族を(宗教的に)主観的に従属させ、列島の支配権を得たことになります。勿論、列島のどこかの部族民を捕らえて、「犠牲」(武器型祭器が使用されたのであれば、実際に斬首された可能性も有り得ます)として、(天孫族〜倭人の)祖霊や主神に報告したもので、これらの儀式にことなど預かり知らぬ列島先住民にには、全く関係がなかったことでしょう。

さて、天神・祖霊により、列島支配権を与えられたニニギ(あるいは、同族のアメノホヒやニギハヤヒ〜ホアカリも)は、いよいよ半島から渡海して、列島に入ります。勿論異域ですから、サルタヒコのような異神が立ち塞がり、これを制圧するために、「ビジョ(媚女)軍団」ならぬ媚女(眉の間に文身か絵身を施した巫女)の「アメノウズメ」が、軍の先頭に立ちます。この殷=商流の「媚蠱」(びこ)が効いたと見え、サルタヒコは天孫族に降ります。

以上の記紀神話の体系は、商の遠征時などの祭祀と極めて似ています。また王の即位礼である大嘗祭の「真床覆衾」なども、殷の即位礼を継承したと思われる周の康王の即位儀式(書経顧命篇)と共通しており、倭人の王家としての天皇氏が、東夷の伝統を伝えていることを物語っています。

勿論、私は、記紀神話は重層的に読み取るべきだと考えており、「区に譲り神話」の「オホクニヌシ」「オホナムチ」は、この神話のための一般化・抽象化された神格だと思いますが、その他の異名で表わされる神格の建国は、史実をある程度反映した部族伝承として、考えるべきだと思います。

天孫降臨B

半島南部から、列島への渡来に際し、禍つ神・異神を払い、宗教的に列島の主権=所有権を譲り受け、媚女(ウズメ)や聖別された武器(を用いた祭祀)により、進路(道)を清めつつ、ついに列島に上陸した倭人の支配部族=天孫氏族は、「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」(古事記)に降臨します。おそらく降臨した天孫氏族の指導者は十指に余ると思われますが、中には運悪く原住民や敵対的な他民族系の部族に早々と征服・消滅された集団もあったと思われます。この内、後の天皇家の祖とされるニニギを指導者とする集団は、五伴緒と称する祭祀に関わるいわば聖職者集団(後の中臣、玉造、鏡作、忌部、猿女)を伴っており、このことこそ彼らが列島の主導権を握る上で、大義名分を提供したものと思われます。

さて、このニニギを奉ずる集団は、一体どこに降臨したのでしょうか?「筑紫」ですから先ず現在の九州であることには間違いありません。古事記の国生み神話では、「筑紫嶋」(九州島)は面が4つあります。即ち、「筑紫」「豊」「肥(火)」「熊曾(熊襲)」ですが、ここには「日向」を限定・明示できる明確な言葉はありません。しかし、「熊襲国」とは後の差妻・大隅を含めた「日向国」のことと考えられます。また、筑紫国(九州島)の四面の一つ「肥国」の別名は「建日向日豊久士比泥別」で、その中に「日向」が含まれています。「熊襲」は倭人や天孫とは明らかに別な集団として扱われており、筑紫嶋の四面中、「熊曾国」は天孫降臨地とは考え難いと思われます。古事記での降臨地を限定する「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」の後半の「高千穂の」「久士布流」多気(岳)については、一般的な美称とも取れますが、「日向」が地名か、美称か、方向を表わす(「日向かし」=東方)のかは、不明です。しかし、「肥の国」の異称「建日向日豊久士比泥別」には、「熊曾国」の別称「建日別」の「建」、「豊国」の「豊」が含まれており、建日向「日」豊の「日」が、「肥」であると考えれば、「肥国」の「肥(日、火)」も内包しており、四面の異称としても、白日別、豊日別、建日別の他の三面と極めて異なった形をしています。「久士」が「奇(く)し」を意味しているとすれば、「肥(火)の国」の本来の異称は「奇日別(くしひわけ)」だったかも知れません。

このように考えると、ニニギの降臨地は、「筑紫国(筑前・筑後)」か「肥(火)の国」のいずれかの可能性が高いように考えられます。

ここで、倭人の中核的部族・氏族であるニニギの集団が、火山のない北方の山岳に、始祖〜天神が降臨(列島に近付くに従い、天神の子→天孫へと降臨者は変化する?)する伝承を持ち、この聖なる山岳(「邪馬」=山)で始祖や天神の祭祀を行ったとすれば、北方の山「倭山」や「大伽耶山」と性格の異なる火山を聖山として、その周辺で建国するとは考えられません。もし火山を(で)祭るとすれば、従来の祭祀法を変えなければなりませんが、本来倭人諸部族のおそらく共同祭祀を主宰したと考えられる集団の自己否定にもつながり、部族の分裂を招くことでしょう。

従って「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」とは、@北九州、それも筑前・筑後かその隣接地域、A火山でない、B国見ができるようなある程度の標高がある山岳、D玄海灘を望める、などの条件を満たす所ですが、現在のとおろこれ以上降臨地を絞り込めず、背振山地か、筑前・筑後の山塊のどれかであろうと思っています。

天孫降臨C

> おそらく降臨した天孫氏族の指導者は十指に余ると思われますが、中には運悪く原住民や敵対的な他民族系の部族に早々と征服・消滅された集団もあったと思われます。

降臨(移住)した倭人諸部族は、先住民を逐い、或いは同化して、各地を占拠して建国し、大体連絡の取れる地域の部族は、共同祭祀を営んだでしょうが、各部族・氏族が列島各地に拡散し、且つ先住民や他民族系の諸部族と混交し、また生業が畑作(陸稲・粟作など)から水稲耕作に変わるなどの生活の変化に伴い、また言語(方言)の差異なども大きくなり、互いに通じがたくなります。祭祀も徐徐に変わってくるでしょう。
このような事態で、倭人諸部族の同族意識はどのように保たれたかを推測すると、やはり共同体の祭祀の連続性こそが、最大の要素だったと思われます。東夷の習俗については古記録がない場合は、「商=殷」の古俗がもっとも参考になると思われます。
白川静氏「漢字の世界」によると、「族」と言う字の起源を、おそらく「矢」を以って誓い、その共同体の一員となる意であろうと推察しています。「矢」の訓に「ちかう(矢う)」があるのも、わが国の古代に同様の風習があったことを窺わせます。

天孫のしるしとしての「天之羽羽矢」は、まさに天孫氏族の誓いに用いられたもので、これを共有することこそが、「天孫」氏族の証明であったことは、ニギハヤヒとイワレヒコが互いに矢と歩靫(やなぐい)を示して同族(天孫)であることを確認していることでわかります。

>この内、後の天皇家の祖とされるニニギを指導者とする集団は、五伴緒と称する祭祀に関わるいわば聖職者集団(後の中臣、玉造、鏡作、忌部、猿女)を伴っており、このことこそ彼らが列島の主導権を握る上で、大義名分を提供したものと思われます。

殷=商では、主宰神(上帝)・祖先神(下帝)を祭るのは、その直系(これを「嫡」という)の特権でした。倭人などの東夷においても、民族移動期などに祭祀権の集権化が行われ、倭人諸部族中の支配部族の更に支配氏族へと祭祀の独占化が進行し、(略式の祭祀や自己の氏族の始祖などは当然祭ったでしょうが)民族全体や部族連合体の祭祀は、次第に特定氏族に集中したものと思われます。この祭祀権の独占こそが、武力とともに天皇氏族の政治的地位を高めたものと思われます。

ニニギに代表される天孫の降臨=列島移住の年代は、不明ですが、日本書記では、ニニギの降臨後179万2470余歳経ってから、神武東征が開始されるわけですから、天孫降臨=半島からの列島移住とすると、数百年以上経過していると考えられます。天孫降臨ー倭人の列島移住が弥生時代の開始、即ち北九州では前10世紀とすると、近畿や出雲への弥生時代の到来=倭人・天孫(天皇氏ではない天孫)の到来は筑紫より数百年は遅れたと思われます。



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