倭人の地域国家群の形成の進展

前13〜12世紀頃から、遼河流域〜鴨緑江下流域にかけて、居住していた倭人の部族連合体は、半島南部(全羅・忠清・慶尚道一帯)に移住し、おそらく大伽耶山を第二の倭山として、部族を再結集し、次いで前10世紀には、その一部は渡海して先ず北九州(筑紫)に最初の倭人部族国家を形成し、ここに日本列島の「弥生時代」が始まります。

この最初の部族の移住に引き続いて、倭人(及びその同盟・従属諸部族ー韓族、古アジア系の半島南部先住民、あるいは山東・江蘇方面からの淮夷や徐夷なども含んでいたかもしれませんーも参加していたと思われますが、これらの諸部族は倭人の主導下に移動している簡にかなり倭人化しつつあったものと考えられます)は、次々と列島に移住し、北九州を倭人化するとともに、半島東海岸からは、直接山口県西海岸や出雲あるいは、先住の縄文系部族(部族国家と言い得る程度まで政治的に成熟していた可能性はあります)の抵抗が弱ければ、丹波や古志方面へも直接移住を試みた集団があったかも知れません。

しかし、おそらく大部分の倭人部族は先ず筑紫に入って、次いで南下して南九州へ、また東進して山陽・四国などの瀬戸内沿海部、また山陰へと移住していったものと考えられます。列島の橋頭堡たる北九州の考古学的状況を考える必要がありますが、倭人が筑紫(北九州)を「倭人地域」にするのには、200〜300年くらいは必要だったと思われます。

したがって、吉備、出雲、大和、南九州への倭人の進出は、北九州における倭人の勢力の確立後、前7世紀から前5世紀くらいにかけて行われ、前5世紀末には、西日本はおおむね倭人諸部族国家が縄文系諸部族より優位に立ったと思われます。

広汎な西日本全域に展開した倭人は、当然全部族の統一など不可能ですが、始祖神話を始めとする祭祀・宗教の共通性、言語・習俗の共通性、敵対的縄文人系部族に対する利害の共通性などによって、ゆるやかな同族意識を持ってある種の連帯を持っていたと思われます。

弥生時代後期には、倭人の主導する地域=弥生文化の拡がっている地域と考えて良いでしょう=は、地理的条件から縄文文化の強く残存している地域(南西諸島、南九州や関東地方)も含めて、関東以西に及んでいたと考えられます。これらの広汎に分布する倭人の部族国家は、地域毎に祭祀などの共有を通じて、まとまり、更に倭人語の方言も異言語に近いレヴェルにまで各地で異なっていたと思われます。

弥生時代後期の倭人の地域国家群は、その青銅祭器の違いから、次の10個くらいの地域に分かれると思われます(以前、書き込んだかもしれませんが再掲します)。

@筑紫ー広形銅矛;対馬・壱岐・肥前・筑前・筑後・豊前・豊後・伊予南部・土佐
A吉備・讃岐ー平形銅剣;周防・安芸・備後・備中・讃岐・伊予北部
B出雲ー出雲形銅剣;出雲・伯耆
C大和ー近畿式銅鐸;伊勢湾沿岸を除く近畿全域・播磨・越前
D尾張ー三遠式銅鐸;伊勢湾沿岸部・尾張・三河・信濃
以上の青銅祭器の分布については、近藤説(1986)に拠ります。
以下は青銅祭器のいわば空白地域ですが、弥生時代後期には、倭人の活動域と考えられる地域です。
E日向〜熊襲(南九州)地域ー肥後・薩摩・大隅・日向
    要するに九州島の内、広形銅矛を祭器としない地域です。
F琉球列島ー後代の琉球語は、明らかに日本語と同系の言語であり、上代日本語の九州方言と同源と考えられるようですから、「原琉球語」をもたらした倭人の一派(原琉球人とでも)が、南西諸島に南下したことは明白です。(アマミキヨの伝説からすると、「アマ氏」の一派が南下したと考えたいのですが)
G古志ー加賀・能登・越中・飛騨あたりは銅鐸圏外ですが、縄文人の地域とも考え難いので。
H吾妻ー実は後述の「有角石斧」圏と三遠式銅鐸圏の狭間の細長い地域で、倭人勢力の浸透の最前線地域ということになります。伊豆・駿河・相模・武蔵の一部で独立した地域とすべきか、迷うところですが、後代の「吾妻」の母体となった地域と考えられますので。
これに、倭人の残存勢力の残っていると考えられる半島南部の
I任那(加羅)
以上が、弥生時代末の倭人世界であったと考えられます。

さて、房総半島から北関東・福島・宮城にかけては、この時代は青銅祭器ではなく、「有角石斧」の分布圏とされています。即ちこの地域は、「弥生時代」ではなく、「縄文時代」であったと思われ、縄文人の世界であったと思われます。
また、更にその北から北海道にかけては、後のアイヌ文化圏に続きますので、あるいはすでに「原アイヌ人」が、形成されていた可能性もあり得ます。
越後、出羽の有角石斧圏に入っていませんが、縄文人の世界だったと思われます。

倭人の地域国家群の形成 の進展 (2)

> 弥生時代後期の倭人の地域国家群は、その青銅祭器の違いから、次の10個くらいの地域に分かれると思われます。

> @筑紫ー広形銅矛;対馬・壱岐・肥前・筑前・筑後・豊前・豊後・伊予南部・土佐
> A吉備・讃岐ー平形銅剣;周防・安芸・備後・備中・讃岐・伊予北部
> B出雲ー出雲形銅剣;出雲・伯耆
> C大和ー近畿式銅鐸;伊勢湾沿岸を除く近畿全域・播磨・越前
> D尾張ー三遠式銅鐸;伊勢湾沿岸部・尾張・三河・信濃

> 以下は青銅祭器のいわば空白地域ですが、弥生時代後期には、倭人の活動域と考えられる地域です。
> E日向〜熊襲(南九州)地域ー肥後・薩摩・大隅・日向
>     要するに九州島の内、広形銅矛を祭器としない地域です。
> F琉球列島ー後代の琉球語は、明らかに日本語と同系の言語であり、上代日本語の九州方言と同源と考えられます。
> G古志ー加賀・能登・越中・飛騨あたりは銅鐸圏外ですが、縄文人の地域とも考え難いので。
> H吾妻ー実は後述の「有角石斧」圏と三遠式銅鐸圏の狭間の細長い地域で、倭人勢力の浸透の最前線地域ということになります。伊豆・駿河・相模・武蔵の一部で独立した地域とすべきか、迷うところですが、後代の「吾妻」の母体となった地域と考えられますので。

この「吾妻」地域については、後の「上毛野氏」の本拠地の上野もふくめるべきでしょう。また後代になりますが、上毛野氏、下毛野氏、大野氏、池田氏などのいわゆる「東国六腹臣」と称される集団の支配地域〜本貫地と考えられる一帯こそ「東国(あづま)」であったと思われ、この「あづま」の形成がはたして、弥生時代後期にまでさかのぼれるかは、検討を要しますが、後述の「有角石斧圏」と異なり、弥生時代に入っていた=倭人世界の東端(の南側)と思えますので、倭人の部族国家群の存在地域として挙げておきました。

> これに、倭人の残存勢力の残っていると考えられる半島南部の
> I任那(加羅)
> 以上が、弥生時代末の倭人世界であったと考えられます。

半島南部については、弥生時代後期(時代区分がAMS法による弥生時代開始の繰上げ以降、見直しが決定していませんので、半島の同時代を何時とすべきかも動揺していますが)に相当する時代として、秦漢帝国による大陸統一以降を、一応考えたいと思います。即ち秦による統一はBC221年ですから、前3世紀末以降の半島の情勢を考慮することになります。

半島南部の倭人世界には、まず北方満洲で形成された「扶余」族の行動活発化が、大きく影響します。おそらく黒龍江省農安からその北方の伯都訥(扶余)あたりの「鹿山」をその種族名の起源(扶余は「鹿」を意味する南方ツングース系の言葉)として勃興し他と思われます。扶余の始祖王「東明」はより北方の「索離国」(後漢書扶余伝)(他の史書ではトウリ国とか高離之国とか様々です)から川沿いに逃れて扶余国を建国していますので、扶余族は、嫩江(ノンコウ)河口域すなわち黒竜江南岸から大興安嶺の北部にかけて、居住していたと思われます。三国史記では、まず「北扶余」が建国され、それから「東扶余」、次いで「卒本扶余」と次々と建国されます(最後の卒本扶余こそ「高句麗」の前身です)。実際には、「扶余王国」は、「北扶余」「東扶余」を併せたものと思われ、扶余族の統一は、前5〜前2世紀の間だろうと思われますが、正確な建国の時期はわかりません。扶余族の「東明伝説」を王家の起源神話として持つ高句麗の起源は、朝鮮の史書「三国史記」(日本の記紀より後代の史書ですので信頼性が、記紀以上とは考え難い)では、高句麗の建国は、BC37年としています。中国の史書から実在の確認される高句麗第六代の大祖大王(国祖王)「宮」は、三国史記では、在位AD53ーAD146(在位期間は90年以上!)となっていますが、AD121年死亡したことが、後漢書高句麗伝に記載されています。

この高句麗の別種の「小水ハク(貊)」の存在や、BC194年頃の「衛氏朝鮮の成立」(=箕氏朝鮮の滅亡)、BC128年の漢の蒼海群設置の試み、BC109〜108年頃の前漢の武帝の朝鮮四郡の設置(衛氏朝鮮の滅亡)などを考えると、南方系ツングース族=扶余系諸族の南下と秦漢帝国の成立という大きな圧力が、前3〜2世紀に半島の先住民にかかったことは間違いありません。そしてこれこそが、半島南部の「倭人と韓族」のいわば覇権交代をもたらした最大の要因と考えられ、少し遅れて(半島から列島への倭人の更なる移住を通じて)列島内部でも、倭人諸部族の更なる東進(東征を含む)を促したものと思われます。

扶余系諸部族の南進は、先住の「韓族」の領域にも及び、扶余族を支配階級、韓族を被支配階級とする部族国家群(伯済国など)を生み、これらの南下運動こそ、半島南部の倭人の多くを、更に「列島」へと移住させるとともに、半島残留の倭人諸部族国家の「韓化」を招くことになったと考えられます。
紀元前後以降、半島では、前漢の四郡を別として、大体、現代の「咸鏡道」地域に「南沃祖(東沃祖)」、「江原道」地域に「(東)ワイ(濊)」の扶余系(南ツングース系)の二民族が居住し、漢の進出前は黄海道や京畿道にいたと思われる韓族の部族連合体は、扶余族支配階級によって征服されて南進を開始し、忠清道から全羅北道全域にかけて「馬韓」部族国家連合体が成立し、それから分離した「辰韓」部族連合体は東進して、慶尚北道地域の主導権を握り、それから別れた「弁辰」部族連合体は、当初「辰韓」諸部族と「雑居」しますが、やがて慶尚南道方面に移住を開始します。おそらく紀元前後、遅くとも紀元後2世紀には、半島南部での韓族の倭人に対する優位が確立したと思われます。

倭人の地域国家群の言語(方言)

> 弥生時代後期の倭人の地域国家群は、その青銅祭器の違いから、次の10個くらいの地域に分かれると思われます。

> @筑紫ー広形銅矛;対馬・壱岐・肥前・筑前・筑後・豊前・豊後・伊予南部・土佐
> A吉備・讃岐ー平形銅剣;周防・安芸・備後・備中・讃岐・伊予北部
> B出雲ー出雲形銅剣;出雲・伯耆
> C大和ー近畿式銅鐸;伊勢湾沿岸を除く近畿全域・播磨・越前
> D尾張ー三遠式銅鐸;伊勢湾沿岸部・尾張・三河・信濃
>
> E日向〜熊襲(南九州)地域ー肥後・薩摩・大隅・日向
    要するに九州島の内、広形銅矛を祭器としない地域です。
> F琉球列島ー後代の琉球語は、明らかに日本語と同系の言語であり、上代日本語の九州方言と同源と考えられます。
> G古志ー加賀・能登・越中・飛騨あたりは銅鐸圏外ですが、縄文人の地域とも考え難いので。
> H吾妻ー実は後述の「有角石斧」圏と三遠式銅鐸圏の狭間の細長い地域で、倭人勢力の浸透の最前線地域ということになります。伊豆・駿河・相模・武蔵の一部で独立した地域とすべきか、迷うところですが、後代の「吾妻」の母体となった地域と考えられますので。
> これに、倭人の残存勢力の残っていると考えられる半島南部の
> I任那(加羅)
> 以上が、弥生時代末の倭人世界であったと考えられます。

さて、これらの倭人の各地域の勢力の消長、さらには国家形成がどのように行われたかという点について考察するとなると、文献史料がほとんどなく、記紀などの伝承に主に頼らざるを得ないことになります。トンデモ説が大手を振って歩く状態で、私も負けずに説を出したい(というより出すつもり)のですが、例えば出雲神話一つとっても、これが出雲(上記B地域)のものなのか、実は大和やもっと広汎な地域のものと考えるべきか、さらには、記紀神話〜伝承を遥か後代の(例えばアマテラスとニニギの関係は、持統天皇と軽皇子の関係を投影したものだなど)創作と考えるべきかなど、余りにも論点が多く、到底合意点など見えそうにありません。そこで割り切って自説(他説にしてもトンデモ度の違いだけで、根拠のない点では皆似たようなものだということで)を述べたいと思いますが、前記の倭人の諸地域国家(群)の関わりを考える上で、比較的見過ごされている重要な問題として、「言語」(この場合は、同じ倭人のグループの中なので、「方言」でも良いかも)の点について、少し触れておきたいと思います。

上代日本語、とくに奈良朝期、即ち記紀・万葉の日本語が、少なくとも、東国(東歌、防人歌、常陸国風土記の歌謡)、中央(畿内)、九州(筑紫、正倉院文書大宝2年筑紫籍帳)の三方言に別れ、その差異は、方言というよりもむしろ互いに同系の独立言語と見做し得るほど大きいことは、余り異論のないところでしょう。
ここで、上記の倭人の十地域の言語状況を考察すると、たとえば、「出雲神話」の舞台が、これらの異なった方言(言語)地帯を越えて拡がっていたと考えるか、(多少隣接地域は含むとしても)ある地域内のものと考えるかで、日本国家の統一の時期やその主体などに対する捉え方が、当然異なってくると思われます。従って、これらの地域の言語(方言)がどのようなものだったについての私の考えを書きます。

史料もなく、判断のしようもない半島南部のI任那加羅地域を除くと、列島の倭人世界の方言は、前記上代日本語の三方言に分かれていた可能性が強いと考えられます。これら三方言の性格については、「サ行音」に主な差を求める長田夏樹氏(以前紹介した「邪馬台国の言語」、学生社、昭和54年)の説に基本的にしたがいます。
即ち
T》上代中央方言(サ行音は「ts」と考えられる。正倉院文書の大宝2年美濃国籍帳による美濃方言も畿内方言と相当異なるが、「ts」方言と考えられる)に属する地域
  A吉備・讃岐   C大和

U》上代九州方言
  @筑紫      E(日向〜)熊襲(南九州)地域  F琉球列島

V》上代東国方言
  D尾張      H吾妻  (B出雲 ) G古志

以上が現在の倭人世界の各地域の上代日本語方言の所属です。上代日本語の方言が何時まで溯れるか、またその方言分布の状況が経時的にどのように変化したかは、不明ですが、上代日本語の三方言の分岐は、記録された奈良時代のおそらく1000年以上前という長田説に従い、紀元前2世紀より前と一応考えます。

ここで問題となるのは、現在西日本方言(上代日本語の中央方言の後裔)の中の中国方言の更に一部とも分類される「雲伯方言」の祖と考えられる「出雲」の言葉を、V》上代日本語東国方言に所属するとした点ですが、これについては、「松本清張」の出雲方言は東北方言に似るという説に従います。弥生時代後期の東北地方は、「有角石斧圏」(日高見地域とでも)もその北方の北奥羽も、まだ倭人世界(日本語世界)ではないと考える私の説では、最大の弱点です(縄文語を日本語祖語と考えれば何も支障はないのですが、出雲は特に基層語の縄文語の影響が強かったところだと言う解釈で何とか・・・)。
尚、勉誠出版の「日本列島の人類学的多様性」収載の小泉保氏の「浦日本縄文語とアイヌ語」の中の図2「東北弁の特徴とその分布」でも、ズーズー弁、ジージ弁、イとエの混同地域を示していますが、出雲と北陸(古志)は、東北弁やその周辺と共通の特徴を示しています。これらの特徴が大和や丹波、中部地方などでも弥生時代後期に見られた可能性もありますが、上代東国方言地域であった「尾張」(三遠式銅鐸祭祀地域)はともかくも畿内の大和は、出雲と異なった中央方言地域であったと思われ、この点から現代にいたるも「ズーズー弁地域」である出雲が弥生時代後期の大和も含む広い地域を掌握していたとは考え難く思います。

倭人の地域国家群の言語(方言)(続)

> T》上代中央方言(サ行音は「ts」と考えられる。正倉院文書の大宝2年美濃国籍帳による美濃方言も畿内方言と相当異なるが、「ts」方言と考えられる)に属する地域
>   A吉備・讃岐   C大和
>
> U》上代九州方言(サ行音は「s」と考えられる)
>   @筑紫      E(日向〜)熊襲(南九州)地域  F琉球列島
>
> V》上代東国方言(サ行音は「t∫」と考えられる)
>   D尾張      H吾妻  (B出雲 ) G古志
>
> 以上が現在の倭人世界の各地域の上代日本語方言の所属です。上代日本語の方言が何時まで溯れるか、またその方言分布の状況が経時的にどのように変化したかは、不明ですが、上代日本語の三方言の分岐は、記録された奈良時代のおそらく1000年以上前という長田説に従い、紀元前2世紀より前と一応考えます。
>
> ここで問題となるのは、現在西日本方言(上代日本語の中央方言の後裔)の中の中国方言の更に一部とも分類される「雲伯方言」の祖と考えられる「出雲」の言葉を、V》上代日本語東国方言に所属するとした点ですが、これについては、「松本清張」の出雲方言は東北方言に似るという説に従います。弥生時代後期の東北地方は、「有角石斧圏」(日高見地域とでも)もその北方の北奥羽も、まだ倭人世界(日本語世界)ではないと考える私の説では、最大の弱点です(縄文語を日本語祖語と考えれば何も支障はないのですが、出雲は特に基層語の縄文語の影響が強かったところだと言う解釈で何とか・・・)。

東国方言系の起源については、もう一つの仮定が可能です。長田氏は、上代日本語の三方言が、万葉時代の相互の差異の大きさ少なくとも1000年以上前に分岐したと考えましたが、(おそらく当時の弥生時代が前3世紀頃から始まるとの考え体と思われますが)その分岐の場所(方言の発生地)を半島であろうと推定しました。私も、弥生時代の開始はもっと昔だと考えましたが、殷周革命前後に倭人が、北方の遼河流域から南下を開始し、半島南部に居住して、列島に移住するのが、前7世紀くらいから前5世紀の間と考えていたことがあり、この頃に半島内で三方言が分化したと考えていたことがあります。このころ半島内の東部の韓族の多い地域の倭人語が、「東部方言」を形成したと考えたのです。上代日本語三方言の内、西部の九州(筑紫)方言と、畿内の中央方言は、東部方言の祖が分離した後に、分岐したと考えたのです。その理由は、HLAハプロタイプの分布で、倭人に比定したA24−B52−DR15と、韓族に比定したA33−B44−DR13(韓半島先住民に比定したA24−B7−DR1)の分布がやや異なり、後者の分布の中心が日本海側の北陸あたりにあり、その頻度が、東海・北陸あたりで高い(「モンゴロイドの地球B」の前掲徳永論文)とされていたからです。

倭人の標識HLAハプロをA24−B52−DR15とするとき、その頻度は筑紫、瀬戸内沿岸、近畿で高い、とされるので、倭人の内、先ず『東部方言』(t∫方言)所有者が列島に入り、次いで『西部方言』(ts方言とs方言の共通の祖?「ts」が「s」に変化することはままある現象であると長田氏は書いています)所有者が列島の北九州に入り、その進出に追われて、「t∫」方言所有者は、日本海岸沿いの、出雲・古志や、近畿以東に遷り、弥生時代後期には、近畿でも「ts」方言所有者に主導権を奪われたと考えたのです。

AMS法による弥生時代の開始が前10世紀に溯ったことにより、上代日本語諸方言の分離・分岐も列島内で起こったとして説明可能となりましたが、現代日本語東北方言を考慮すると、弥生時代後期には、有角石斧圏だった関東東部(日高見)や東北南部は、倭人世界とは考え難く、出雲・古志・吾妻・尾張地域では、倭人の他に韓族系の諸部族の頻度が高く(HLAハプロのデータも参考にして)、この結果形成された上代日本語の方言が西方のものに比し、より「開音節度」が少なく、ズーズー/ジージー度の高い言語として形成された可能性もあります。いずれにしろ、同系の言語(方言)が、隣接している場合、分離しようとする遠心力が抑えられることは知られています。現在の東日本方言は、中央方言の影響を強く受けており、本来の東国方言の音韻などは、八丈島方言くらいにしか保存されていないとされています。

何れにしろ、記紀神話を基にして古代史を組み立てようとしても、上代の諸地域の言語状況を推測する必要があると思われます。
尚、長田氏や森博達氏は、魏志倭人伝の地名・国名から推理される「倭人語」は、上代日本語と共通性があり(開音節、語頭に濁音やラ行音が立たないなど)、日本語であると推定しており、長田氏は更に「s」方言即ち「九州方言」であると主張されています。


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