記紀神話などによる出雲の建国

AMS法による弥生時代の開始が、北九州(筑紫)で前10世紀頃とされ、これが列島への倭人の移住の始めとすると、遼河流域からの倭人の半島南部への民族移動は、前12世紀頃からと考えられますので、半島南部に倭人の部族連合体が、定住開始後100〜200年経過したころと思われます。倭人集団は、アルタイ語系の開音節構造(に極めて近い)の言語「倭人語」=日本語祖語を話し、半島南部到来時はほとんど方言差はなかったでしょうが、半島南部で原住の古アジア語族系の韓半島先住民(ギリヤーク語類似の言語の話者?金芳漢氏説。尚、安本美典氏の「古極東アジア語」もかなり類似した概念のように思われます。)と接触・混交し、且つ倭人に追尾して移住して来たと思われる「(はっきりした)閉音節言語」の話者である「韓族」などの南下により、半島南部で、西部(全羅南道、慶尚南道、忠清南北道南部)の方言と東部(慶尚北道中心)の方言に二分され、前者(ts方言)はあるいはかなり早期に「s」方言と「ts」方言に更に半島内で分化したかもしれません。東部方言は、後の「t∫」方言の祖と思われますが、西部のts/s方言系に比し、開音節度は低かった可能性が強いように思われます。

さて、記紀神話を信ずれば、「イザナギ/イザナミ」の国生みの後、
「三貴子」は、アマ国(古事記では高天原)、夜の食す国、海原を分治しますが、イザナギの子のいわゆる国津神らは、列島を指すと思われる「葦原の中津国」に住んでいたと思われます。これは、倭人集団の内、支配部族/氏族に属さない集団(部族)が、かなり早期に列島に渡来しらことを神話的に表現したものでしょう。勿論、倭人の南下に圧されて渡海した半島南部原住民(古アジア語族系?)もこれら国津神の中に入るでしょう。これらの倭人部族の最初の集団が、列島に入ったのが「筑紫」(北九州)で前10世紀と考えられるのは、AMS法による弥生時代の開始と一致すると思われるからです。

九州に最初に移住した倭人は、まだ方言未分化の開音節、ts方言的特徴を有する集団であったと思われますが、次々に渡来してくる集団(部族)や新天地での人口増により、北九州の倭人は、南九州や瀬戸内方面への移住/移動を開始します。同じ頃、半島南部の慶尚北道から最初の出雲への移住が起こり、この集団が神話上の「スサノヲ」及びイタケル父子で代表される集団であり、おそらくすでに方言分化して、「t∫」方言即ち後の上代日本語東国方言などの祖語を使用していたと思われます。出雲への倭人の移住の時期については、AMSなどでの出雲での考古資料の解析を待たないと、年代の決定は困難ですが、筑紫移住を前10世紀とすると、出雲は200〜300年後の前7世紀には、倭人が入っていたと思われ、前12世紀頃の倭人の半島南部移住から500年経過しているとすれば、倭人語内部の方言は十分形成されていたと思われます。(前述のように長田夏樹氏は7世紀頃の上代日本語諸方言の大きな相違から、その1000年以上前に三方言の分岐を想定しています。)

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