神武東征@

前10世紀以降、筑紫(北九州)に移住した倭人諸部族中、「山岳信仰」即ち、天神が、聖なる山岳に降臨し、山神〜地母神との間に「子」を作り、それが氏族/部族の始祖となるという、信仰を持ち、且つ商(殷)民族などの東夷諸民族と共通の「祓邪」祭祀を司った倭人の支配氏族「天孫族」は、前10世紀からやや遅れて筑紫に入ったと考えられます。この集団は、おそらく聖山を祭ることから「やま」国、「やま」族(ひと)と呼ばれたと考えられます。北九州には、移住後数百年は居住していたと思われます(書記本文では天祖降臨後179万2470余歳経過した云々と記載)。この間に列島各地に倭人諸部族は次々と移住し、紀元前後には西南日本全域から、中部地方にまで拡がっていたと思われます。これらの倭人諸部族に対し、元来遼河流域から満洲西部で「倭山」中心に部族を結集し、半島南部への移住を主導し、倭人全体の支配権を得たと考える「天孫(氏)族」は、列島倭人の支配上、近畿地方への移住を考えるようになります。あるいは、半島南部の倭人居住地に扶余系支配者を戴く韓族集団=馬韓部族連合が南下し、更に辰韓部族連合や弁辰部族連合が次々と形成されて倭人を圧迫しつつ南下し、倭人の半島残存部族が、次々と列島に渡来したことから、「東遷」「東征」を決意したのかも知れません。

衛氏朝鮮の滅亡、漢の武帝による朝鮮四郡の設置前後の半島の動乱こそ、筑紫からの東征を招いた直接の原因の可能性もありますが、記紀神話を信ずれば、神武東征に先立つ?「ニギハヤヒの東遷」が、半島の動乱の直接的原因と考えられ、神武東征は、「ニギハヤヒ」集団に次いで東方への移動を開始したが、同族で当然受け入れられると思ったものの、在地の豪族トミヒコに反発され、戦闘になったと解釈すべきでしょう。

神武東征Aニギハヤヒの降臨

さて、神武東征に先立ち、日本書記本文では、ニギハヤヒの河内→大和への移住(もう一つの天孫降臨)が、記載されています。この情報をシオツチの翁から聞いて、神武兄弟は東遷を決意します。これは、古事記では、ニギハヤヒが、天孫降臨(ニニギの)を聞いて、追っかけて来たという話になっていますが、神武とニギハヤヒがどうも同世代かニギハヤヒの子のウマシマテ(ウマシマミ)と神武が同世代のように思われ、書記本文の方が古事記より整合性があるように思われます。尚、神武の別名の一つヒコホホデミから、神武の世代を繰り上げて祖父の世代に考え、解釈することも可能ですが、記紀の天孫の世代数が一応一致しているので、ニギハヤヒの世代については別に考えたいと思います。 

先代旧事本紀では、さらにニギハヤヒの別伝を載せていますが、これにはニニギの天孫降臨に従ったとされる五の伴の緒もニギハヤヒの降臨に従ったとしているなど、他文献と合わず、ニギハヤヒ後裔氏族の伝承〜主張であり、私は採用しませんが、しかし、ニギハヤヒが大和に入り、トミヒコ(長脛彦)の妹と結婚し、その子ウマシマテの出生前に死亡したという伝承については、有り得たものと考えます。要するにトミヒコは甥の後見人としてニギハヤヒ一族(天孫氏族)を君(国王)として擁立しながら傀儡化して、実権を握って大和を支配していたものであり、発言権を封じられた高倉下(尾張氏祖)などの天孫氏族の不満が存在したものでしょう。

倭人は遼河周辺の「倭山」で、各部族を結集し、支配氏族の天孫氏族(阿毎氏、倭氏、天皇氏などの祖?)に率いられて前12世紀ころ半島南部に移住し、「大伽耶山」(弥烏邪馬?)中心に部族国家群を建設し、前10世紀頃から列島に渡来し始めましたが、移住の過程で「天孫族」の支配権が確定し、大和などにおそらく先に移住したと考えられるトミヒコらの部族も天孫族の支配者を擁立せざるを得なかったと思われます。

ニギハヤヒは、おそらく後代の物部氏、穂積氏の始祖(もしくは始祖神)と考えられますが、「物部」という氏族名自体は、「大伴氏」即ち大部(おおとも)同様、伴造氏族の宰領を任されてから成立した氏族名であり、当初の氏族名は不明です。「穂積氏」が「ほつみ」で、「つみ」が「おほやまつみ」「おほわたつみ」「あづみ<あつみ」などの「つみ」同様「氏族/部族」を表わすとすれば、その名称は「ほ」ということになります。「ほ」ho<foは、「火」の古形の「ホ」なのか、「穂、秀」の「ホ」(どちらも乙類?)なのか不明ですが、一応物部氏主流の前身は「穂積氏」と称していたのでしょう。ホアカリの「ホ」は「火」であり、「穂積氏」の「ホ」がもし「火」であるならば、物部氏・穂積氏と尾張氏は同祖関係にある同族でしょう(天孫族から分岐した氏族の一つ)が、「穂積氏」が「秀・穂」のホであれば別起源であり、後に何らかの目的で両者の系譜を合成したものと思われます。

神武東征B物部・穂積氏の降臨神話

> ニギハヤヒは、おそらく後代の物部氏、穂積氏の始祖(もしくは始祖神)と考えられますが、「物部」という氏族名自体は、「大伴氏」即ち大部(おおとも)同様、伴造氏族の宰領を任されてから成立した氏族名であり、当初の氏族名は不明です。

神武東征に先立つニギハヤヒの畿内への降臨伝承については、物部氏の主張を記したと思われる「先代旧事本紀」巻五でも、詳細な(神武東征に匹敵するような)記事はなく、河内国生駒山系と考えられる河上のイカルガ峰に降臨し、その後大和国鳥見白山に移ったという以外は、物部氏に従ったとされる諸氏の系譜記事(巻三も)のみで、地元の豪族で天孫氏族でないトミヒコ(ナガスネヒコ)の妹と結婚し、しかも後継者のウマシマチの出生前に死亡しており、その率いてきた多くの物部(それ以外に、五の伴の緒も率いています!)系譜のきらびやかさと対照的に、哀れにさえ思えます。先代旧事本紀巻三では、記紀同様、「高皇霊神」(高木神の表現ではないことにも要注意でしょう)が、葦原中国の支配権は、「天忍穂耳命」の子孫、即ちニギハヤヒとニニギの父の系統に限られたことを強調していますが、それ以外は、系譜記事のみといったところでしょう(ニギハヤヒの死亡後に「国譲り記事」が出てきますが、記紀の神話〜伝承に比して順番が狂った印象を受けます)。

倭人北方起源説を採り、その祭祀を主宰して倭人の遼河流域からの南下を主導したのが倭人の支配氏族(部族)天孫族と考える私の立場から、できるだけ記紀などを史実の伝承の神話化と解釈すれば、弥生時代の開始が前10世紀に北九州で最も早く開始されたことから、やはり最初の天孫降臨=天孫族の列島移住は「筑紫」に対して行われたと考えるべきであり、「アマ国」(半島南部)から出雲などへの天孫降臨はそれより数百年は遅いと考えられ、大和への天孫族の進出は神武東征のわずか1〜2世代、せいぜい100年内に想定すべきでしょう。先代旧事本紀や記紀の主張のように、倭人の中で連合体の大君長(王)に推戴される有資格者が、「天孫族」中でも、「天忍穂耳命」の家系に限定されていたとすれば、ニニギ、神武家(天皇氏)同様、ニギハヤヒの家系も本来氏姓がなかったか、「アマ(アメ)」「倭」のような一般的な姓氏しか以っていなかったと考えられます。明らかに「物部」氏は、天皇氏に降った後、与えられた「姓/氏」でしょう。このような職務を「氏」とした例か北方騎馬民族の匈奴の単于を出す氏族「レンテイ(攣鞮)氏」(虚連題氏)でも良く観察され、王族の就く左右大沮渠から生じた「沮渠氏」などや封地の地名より生じた「赫連氏」などが、五胡十六国時代の匈奴の王家として表れます。かりに穂積氏や物部氏の名乗りが神武東征以前に生じていたとすれば、両氏は天孫族でも傍系の家系で系譜的に当初から、宗家に一歩を譲らざるを得ない立場だったと思われます。

尚、天孫族の列島進出は、同盟・従属諸部族の列島移住にかなり送れて、半島での情勢の悪化(前2世紀の中国王朝の半島進出や、それより早いと考えられる扶余や韓族などの南下活発化)のためとすれば、神話通り、先ず「出雲」にスサノヲ系天孫族が降臨し、次いで筑紫にニニギ系天孫族、更にニギハヤヒ一族が筑紫経由で半島から一気に大和に入ったというストーリーも有り得ますが、今のところ、筑紫が専攻したと考えています。

神武東征C

倭人が前10世紀以降、列島西南部から中央部一体に拡張したことにより、共通の祭祀を行うことも困難になったためと、おそらく、前2世紀からの半島南部への中国統一政権(前漢)や韓族部族連合体(三韓)や扶余系諸民族の勢力伸張の情勢を踏まえ、列島中西部の倭人(東部はまだ縄文人系?)からの倭人連合体の強化の要望が高まったことにより、南島との連携の都合上、北九州にあった倭人の中心勢力(天孫族主導国家、国名は不明、あるいは「邪馬」やま国?)に畿内への移住が求められたのでしょう。あるいは、これは、猶も半島南部で残存して韓族や扶余などと対抗している任那倭人が、後背地としての列島の倭人勢力の統一強化を求めたり、中部山岳地帯から関東平野で、縄文系の部族の頑強な抵抗に遭って苦闘している倭人諸部族(上代日本語東部方言話者)の求めでもあったかもしれません。

その要望に応じて、畿内に入った天孫族諸氏の内、尾張氏などではなく、穂積氏・物部氏から、推戴されたのが、「ニギハヤヒ」でしょう。そう考えると、紀元前後存在した河内湾/胡/潟にまっすぐ入り、大和川水系の河口地域から山岳信仰上、まず「生駒山系」の「山」で降臨した天神・始祖神などの伝承された神々を祭祀し、次いで大和に入った穂積・物部氏集団は地元の豪族に歓迎され、婚姻し、推戴され、殆ど抵抗されていなかったとも考えられます。「もののべ」の名称は、「祭祀」「戦闘」の双方の専門職掌を窺わせるものですが、あるいは特にその専門を持つ家系を筑紫の天孫族が選んで送ったとも考えられます。もともと、倭人の祭祀は武器型祭器を祭ることも大きな要素だったと思われます。

しかし、送り込まれた機内の王「ニギハヤヒ」が地元の最有力豪族トミヒコの妹と婚姻し、妊娠させたものの、子の出生前に頓死し、実権は天孫族ではないトミヒコに握られます。これに不満を持つ天孫族の直属氏族や、尾張氏などの傍系天孫族からの情報をもとに、筑紫の天孫族中心の部族連合体の中から、ニニギの子孫の五瀬命・ミケヌ命兄弟が、大和への移住を考え、九州から、諸部族を集め、東征を開始します。後代の投馬国とおぼしき安芸や吉備あたりにも滞在しながらのゆっくりした東征で、時間の流れからすると、「ミケヌ」と「ワカミケヌ」の二代かけて、日向/筑紫から大和へ向かいます。また、従うのは、久米部(くまひとの一派でしょう)、隼人、海人(シオツチ)など、明らかに天孫族以外の諸集団を含んでいます。

トミヒコらも、あるいは祭祀を司る五瀬命兄弟らの少数集団のみならば、戦うことなく受け入れたかもしれませんが、戦闘集団を伴い、且つどうも畿内の主権を要求すべく、道々根回しをして到来してくる集団を受け入れる気にもならず、また自分達の地元中心(名目上は天孫族の王ウマシマチを推戴、すでに後代の天皇を名目上の君主として、祭祀を行い、実権は外戚が握るという)の政治体制を守るためもあり、激しく抵抗します。おそらく、トミヒコらごく一部を排除すれば良く、たいした抵抗を受けないだろうと予想していた東征軍は、正面の河内湾/湖/潟方面から上陸すべく、日下で戦闘し大敗します。おそらく、東征軍の長だったと思われる五瀬命やその弟達(イナヒ、ミケヌ)は戦死し、次世代のワカミケヌが指導者となり、配下の隼人や久米部と同族集団が居住していた熊野地方に上陸し、以後トミヒコ政権に不満を持つ天孫系氏族(尾張氏)や兄弟間の分裂を利用して、南方より大和国中に進出して、最終的には同族に味方した物部氏・穂積氏の裏切りで、漸く大和の征服を完了します。

神武東征D

さて、神武東征軍は、倭人諸部族の祭祀を主導した天孫氏族の出身であり、天神に倭国を授けられたと信じている集団であり、それが大和攻めに難渋したわけですから、再三祭祀を行い、神意を伺いつつ、あるいは、神示に従いつつ、征討作戦を継続しますが、その様は記紀に記されています。最初に河内湾に進出し、おそらく同族ニギハヤヒが天神/始祖神を祭った生駒山系の聖なる山を目指したのでしょうが、そこを死守するトミヒコの軍の待ち伏せに遭って、大敗し、神武軍の巫祝(でおそらくは当主であったかも知れません)五瀬命は戦傷死します。これは、「神意」が東征軍にないことを示唆するものであり、東征軍の一大危機でしたが、熟練した大祭司(祭祀王?)五瀬命は、これを「日に向かった」ことが、神意に背いたと解釈して、切り抜けて軍は熊野周りに方向転換しますが、その背景には、くまひと(肥人)である東征軍の有力な軍団「久米部」や、タギシミミの母系の出身であそらく彼に従っていたはやひと/はやと(隼人)族と所縁のkum/kun系部族の勢力のある紀伊半島熊野(野は「奴」と同音同義でしょう)や、大和南部の土蜘蛛・国栖集団、更には天孫族別家系で不遇の尾張氏(同族ニギハヤヒが大和の王となったからには、優遇されると考えていたが、実権を掌握したトミヒコらに冷遇され、熊野方面に移動した?)に活路を求めたのでしょう。
一方、トミヒコらは、ニギハヤヒが祭った建国の天孫降臨の聖山を守ったことで油断があったものと思われます。

さて、五瀬命、稲飯命、ミケヌの三兄弟は、日神の子孫(海神の子孫でもありますが)として、当然タカミムスビ・アマテラスの「神勅」により日本列島の支配者であることを保障された(と天孫族を始め多くの倭人諸部族は信じていた)にも拘らず、失敗し、その原因が「日=祖神たる太陽神=の昇る東の方向に向かって攻撃したこと」にある以上、神罰を蒙って代わりに子孫にまた「神勅」の復活を願わなければなりません。戦傷の身のまま殺されて罪をあがなったのか、あるいは、戦傷死したからこそ日の昇る方向への攻撃を不可とする解釈が東征軍の間で確定したのか、どちらかは不明ですが、巫祝王として、五瀬命こそ陸地に埋葬されます(紀伊国カマ山)が、二弟、即ちイナヒとミケヌ(当時、巫祝と王が分離していたとすれば、末弟のミケヌ/ミケイリヌが王だったかも知れません)は、海神の加護を得るためもあり、「海中に身を投じ」、ここに天孫族の指導者は世代交代し、ワカミケヌ即ち神武(とタギシミミ・キスミミ兄弟)の時代となります。

タケル(日本武尊)とワカタケル同様、ミケヌとワカミケヌは、「ワカ」の付く名を持つ人物が前者の子孫を表わしている可能性が大きいと思われます。同母兄弟で、兄が「オホ」「ヱ」弟が「ヲ」「ワカ」「オト」などの接頭辞で区別されている場合は、兄弟と考えて良いと思われますが、この場合は、直系親族の関係と考えた方が良いと思われます。
また、ワカミケヌと、タギシミミ・キスミミ兄弟が、本当に親子だったのか、あるいは、従兄弟同士だったのか、不明ですが、本来ワカミケヌが、父の世代の死により、指導者(王)となったとすれば、彼らも同世代で、従兄弟であったと考えた方が良いように思います。

世代交代した神武東征軍には、今度こそ「日神」の加護があったと見え、まず「ヤタカラス」、次いで熊野の高倉下、つまり天孫族の別家系「尾張氏」の軍が参加し、更に倭人化いつつあった先住民系部族のイヒカら国栖らが傘下に入り、大和南方から国中に向かいます。これまでトミヒコ側に参じていた大和の非天孫族系倭人諸部族も分裂し、神武東征軍に参加するものが続出し、最終的には、トミヒコが推戴していたニギハヤヒの子ウマシマミが、トミヒコを殺害してここに大和の平定は完了します。

その過程で、神武軍が、「天香具山」の土を採って祭器を作り、天神地祇を祭り、呪言をなすことが記録されており(書記本文)、しかもその正否が、東征の正否に直結するように書かれています。これこそ、天孫氏族を含む倭人の宗教的背景を物語っており、天孫降臨前の「祓邪・譲国」の儀式のミニ版でしょう。

神武東征E神武死後の後継者争い

東征に成功したワカミケヌ(サノ)は、地元の豪族三嶋溝杭の娘セヤダタラヒメ(夫=セの矢が立った姫、ふざけた名称のようですが、「矢」が東夷諸族の氏族共同体の成人式などの「誓い」にしばしば用いられたものでいわば部族/氏族の標識的な武器型祭器とも考え得ることを思い出してください。「矢」に「ちかう」の訓がありますし、ワカミケヌとニギハヤヒが同族で天孫であることを確認したのも「天羽羽矢」でした。)と三輪の大物主神(事代主?)の間の子イスケヨリヒメを娶り、日子八井命、神八井命、神沼河耳命の三子を得ますが、その死亡後、「庶兄」(古事記の表現)が、(ワマニケヌの)「嫡妻」イスケヨリヒメを娶り、王位を継ぎます。一般に、タギシミミ、キスミミ兄弟は、ワカミケヌと隼人族出身の阿比良姫との間の子とされていますが、古事記の「庶兄」「嫡妻」の表現からは、この兄弟は、イワレヒコの異母兄と考えられる表現です。実際には従兄弟であったかも知れません。

さて、タギシミミは、初代王ワカミケヌの三子(書記では二子)の成長により、王位が脅かされ、その殺害を企図しますが、后の報せにより、先手を打った神沼河耳命により殺され、神沼河耳命が即位し、二代王だったタギシミミ王の即位を否定し、自らを二代王と名乗ります。また同母兄神八井耳命は「いわひびと」として神事を以って、王に仕えることになりますが、ここで、「祭祀王」が「祭祀」を司る「巫祝」と俗権(政治)を司る「王」(大君)に二分され、祭政分離が大和でも始まります。この「祭政分離」は、九州では、おそらく姉妹の「巫女/女神官」たる「姫」と、その兄弟の政治を司る「男王」即ち「彦」による二元体制即ち「彦姫制」を、近畿周辺では「兄弟」による分権体制を生んだと思われます。兄磯城・弟磯城、兄猾・弟猾兄弟など、族長が兄弟並んで出てくるのはそのためでしょう。おそらく東夷の古俗としては、長兄が「巫祝王」だったのが、時代が下るにつれ、その群弟が政治権力を分担し、更に長兄(祝=示+兄)と年代の離れた末弟の二人による神権と俗権の二分に至ったものと思われます(勿論本来は神権が俗権よりも優位)。俗権が力を伸ばすことにより、「神権」との衝突回避のため、兄弟姉妹(この場合、氏族外婚制を採っている氏族内では、従兄弟も兄弟と同様に扱われることが多い)のうち、「神権」を未婚の「姉妹」に、「俗権」を「兄弟」に委ねるように変化したものもあり、春秋時代の「魯国」で、「季女(すえむすめ)」を外に出さず、家に残した(未婚のまま)というのも、その遺習でしょう。

さて、タギシミミ・キスミミ兄弟には、隼人族の兵士や。おそらくこれに近いくまひと族(くまそ?)の集団がしたがっており、ある意味で、神武東征軍の主力戦闘部隊であったと思われます。これに対し神沼河耳命側には、大和在地豪族や、神武東征以前に大和入りした天孫族の大部分、それに神武の使者となってイスケヨリヒメを后に迎えるのに功績のあった(大伴氏配下の)久米部(くまひと集団の一派でしょう)が味方したのでしょう。タギシミミ死後、一族を率いてキスミミは、同族の住む紀伊半島、熊野から大和南方の吉野などkum/kun系部族の下に走り、北方の「やまと」と対立したと思われます。そしてこのことこそが、九州から、吉備などの「倭人」諸部族国家との連合のまとめ役を期待されて、列島中心部の大和に入りながら、「倭人部族連合体」を結成することに失敗した理由だと思われます。神武東征軍が、大和征服後、王位継承を巡って、国家が二分し、北の大和(→邪馬台国)、南の熊野(→狗奴国?)に分裂し、勢力を失ったことこそ、倭人諸国の統一を遅らせたと思われます。(欠史八代の間、狗奴国が存在したと思われ、これを「欠史八代南北朝説」とずうずうしく、呼ぶことにします。)

神武東征F神武東征の年代

さて、記紀に従って、神武東征説話〜伝承も史実の反映であろうとの観点からトンデモ説(物証を欠いていますのでトンデモ説にならざるを得ません)を述べてきましたが、神武東征の年代については、決めようがありません。この場合、記紀のいわゆる欠史八代の間に、魏志倭人伝の「邪馬台国」時代があったと仮定しなければ、邪馬台国近畿説と記紀の神武東征説話との両立は困難ですので、前回の欠史八代南北朝説を前提にして、神武東征の時期を(決定は無理ですが、可能な限り)絞り込みたいと思います。

さて、記紀の欠史八代を始めとする初期天皇の実在を疑わせたり、また実在論に立っても、世代数をそのまま信じ込めず、兄弟関係を父子関係に置き換えたり、あるいは数家系の王家の並立を仮定する論者が多いのは、何といっても、古代天皇の異常な長寿にあります。一代くらいなら、高句麗長寿王のような実在した長寿者が東北アジアに存在していますので許容され得ますが、数代以上続くとなれば信頼性はゼロです。また、「襲名」して同一の支配者名が実は数世代あったという説明も、例えば「(オホ)ヤマトネコヒコ=(大)日本/倭・根子彦」という称号/贈り名風のものであれば、可能性はあるでしょうしこれも一〜二世代は実名(忌み名は失われやすいと考えられます)が伝わらず、やむなく称号的名称で代用したことはあるかと思いますが、特別の事情でもない限りは論拠として持ち出すことはできません。
次に大王名が果たして伝承され得たか否かですが、「語り部」が祭祀集団の一部として組織されていた可能性があること、また、北方系諸民族の「系譜」の口承による伝来を考えると、文字記録化される前に、錯綜して一部重複や失伝したとしても、大王家当主の世系は、大王家から分離した諸氏族の系譜伝承とともに、おおむね保存されたと考えて良いと思われます。

以上、大王家の当主及びそれから分離した皇別氏族/または有力な功績のある従属氏族などの名」が、口伝により伝わったとすれば、初期天皇の異常な長寿の合理的説明が必要となります。これにていては、「三国志魏書東夷伝倭人条」つまり「魏志倭人伝」の、倭人が「春耕秋収」を以って云々の記事から、「一年二歳」説が以前よりあります。私もこれを昔から採り、倭人が太陰暦で、一年354日の半分の177日を「一年」とする暦法を行っていたと考えていましたが、この場合通常の太陰暦の1ヶ月を大の月30日、小の月29日で12ヶ月でなく、6ヶ月で一年としたか否かに自信がもてませんでした。しかし、貝田禎造著「古代天皇長寿の謎」(六興出版、昭和60年12月15日)を読んで、1年12ヶ月、1月15日の暦法があったという早田氏の仮説を知り、現在は早田氏のそれとは若干異なりますが、「完全な太陰暦」に基付く「倭人暦」とでもいうべき暦法が、古代に行われていたという考えにいたっています、
以下に、私の考える「倭人暦」の特徴を挙げます。

 @完全な太陰暦に基付き、177日(月の公転周期29,5日×6)を以って、一年とする。

 A一年は12ヶ月で、一ヶ月は、新月から満月まで、あるいは満月から新月までで、大の月15日、小の月14日で、一年177日は、大の月9ヶ月、小の月3ヶ月の計12ヶ月からなる。

 B中国の太陰太陽暦を日本に導入することになったのは、大和朝廷が半島倭人諸国の求めの応じて、本格的に半島出兵を行うことになった紀元後4世紀末(高句麗広開土王碑でいうAD391年の少し前?)に、半島諸国と軍事的共同行動を取る必要上、干支を導入したことに始まると考えられる。
この太陰太陽暦に基付く暦法(当面は干支のみで間に合ったと思われる)と旧来の倭人暦の記事との混乱が、「倭の五王」の時代の国内史料(記紀)と中国側の史料(宗書、南史等)とで、対応すへき大王/天皇と五王の系譜・年代のずれを生んでいるが、何れが正しいかは個々の記事等を検討する必要がある。

 さて、貝田氏はその著書の巻末に、日本書記の記事から「復元した」年表を載せ、AD195年神武天皇死亡、387年成務天皇死亡、390年仲哀天皇死亡、407年神功皇后死亡、418年応神天皇死亡、439年仁徳天皇死亡、442年リ仲天皇死亡、445年反正天皇死亡、466年允恭天皇死亡、467年安康天皇死亡としています。この説だと、ちょうど神功皇后の三韓征伐が高句麗広開土王碑の倭人との戦いの時期に一致し、雄略天皇が「倭王武」の上表文の時期に一致しますが、あとは国内記録と海外の史料が一致しません。
このあたりの検討はまだわたしは本格的にしておりませんし、また、神武天皇のあと、タギシミミ大王が存在したと考えており、それに若干太陰暦の補正が早田氏の方法と不一致の部分もありそうですので、私の神武天皇東征時期は、紀元後1〜2世紀くらい、AD100年を少し越えたくらいか?というのが現在の考えですが、1世紀初頭から2世紀前半までの150年くらいの幅の中で、まだ成案がないのが実情です。

尚、次回からは、中国史書からの倭人諸国の統一への流れを、考えることになります。


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